……さて、ライルは、ルナの攻撃から目覚めたら、生徒指導室という、普通の学生にはあんまり縁のない部屋にいた。
「さて、話を聞こうかしら」
起き抜けに、いきなり話しかけられる。
こういう場合、大体はいかつい体育教師がいるのが相場なのだが、なぜかここにいたのは学園長のジュディさん。新しいおもちゃを手に入れた子供のような目をして、ライルを興味深そうに観察している。
「話もなにも……」
寝ぼけ眼で時計を見ると、すでに昼休み。この分だと、噂はすでに修正不可能なまでに浸透しているだろう。
この噂を唯一訂正できたであろうクレアは、今日は登校していないとジュディが言う。……おそらく、まだ寝ているのだろうが、そんな事情を知らない一般生徒にしてみれば、疑惑に拍車をかけただけだった。
そんな話を聞いて、ライルは絶望と共に、
「人間って、すれ違いばかりの生き物なんですよね……」
などと、哲学的なコトをほざくのであった。
第63話「テスト前なのに……」
「よくわからないけど……一応、うちの学園は、不順異性交遊を禁止しているわけなのよ?」
「……だから、誤解なんです。もう、一から十まで全部」
「でも、こちらの資料によると、貴方は昨日、クレアさんの家で一晩過ごしたらしいじゃない? これでやましいことはありません、って言われてもねぇ。さすがに、私も庇いきれないわ」
庇う気なんて、最初っからないくせに、いけしゃあしゃあと言ってのけるジュディ。はっきり言おう。彼女は教育者としては失格である。
(この似非教師!)
とりあえず、心の中だけでなじっておくライルであった。
「似非……?」
「はっ!?」
さっき思っていた事を口に出していたらしい。慌てて口を押さえるライルだが、もう遅い。出した言葉を引っ込める事はできないのだ。ああ、人間とはかくもままならない生き物なのかー!
「なかなかチャレンジャーね、ライルくん?」
「すすす、すみません!」
「さて、そんなこと言われたら、こちらとしても良心の呵責なく、あなたに処分を言い渡す事ができるんだけど……」
ジュディは、すこし逡巡する。その様子を、ライルは戦々恐々と伺っていた。
「そうね。いっそ、停学処分にでもした方が、あなたのためかもしれない」
「て、停学がなんで僕のためなんですか?」
「……想像力が貧困ねえ。ま、ちゃんと事実関係がはっきりするまで、処分するわけにもいかないし、今日の所は帰って良し」
「って、事実関係をはっきりさせるために僕をここに運んだんじゃ?」
ジュディは、『ふう』とこれ見よがしにため息をついてみせる。
「別に、気絶したライルくんをここに運んだのは、一番近い空き教室がここだったから。他の生徒の好奇の視線にさらすのも気の毒だったしね。それと……あなたがなにを言っても、誰も信じないと思うわよ? 当事者だしねえ」
「うっ……」
そりゃそうだ、と納得してしまった。
「一応、聞くだけ聞いてあげても良いけど、お昼ごはん食いっぱぐれる事になるわよ」
見ると、昼休みが終わるまで、残り二十分となかった。
「っと! 本当だ。それじゃ、失礼します」
大慌てで、席を立ち、生徒指導室から出て行く。彼とて、食べ盛りの男の子。昼を抜くという行為は、アレンほどではないにしろ、かなりつらい。
その背中を見送りながら、ジュディは邪悪な笑みをその顔に張り付かせた。
「なかなか……面白い事になりそうじゃない?」
声に出して、含み笑いをもらす。その様子は、悪魔のようだと揶揄されても仕方のないものだった。
さて……ライルは普段、弁当を持ってくる。
ただ、今朝は、朝食を作るのに時間をとられて、とてもそんなものを作る余裕はなかった。豪華な朝食を作ろうとしたきっかけは、シルフィにせっつかれたせいだが、ライルも必要以上に凝ってしまったので、これは自業自得だろう。
財布は幸運にもズボンのポケットの中に入れたままだったので、そのまま食堂に向かう。
ヴァルハラ学園の生徒の三分の一ほどが押し寄せる食堂だったが、昼休みも後半に入ったこの時間なら、それほど待たずに昼食にありつけるだろう……
そんな、あまりにも楽観的な事を考えていたライルは、食堂に入った途端に向けられた視線にたじろぐしかなかった。
食堂の席の半分ほどを占めている生徒たちの半数以上が、たった今入ってきたばかりのライルを凝視している。
「な、なんだなんだ?」
ここに来る間も、そこかしこから目を向けられていたのだが、大して気にしてはいなかった。が、こうやって、ある程度の人数が集まっていると、その視線は物理的な圧力さえ伴っているように感じる。
噂が学園中に広まっている事は知ってるけど、なぜここまで注目されるんだ?
ライルは、頭を捻った。自分の名前と顔が一致する人なんて、せいぜいクラス内の人だけだと思うのだが。
……まあ、種明かしをすれば、どうということはない。
ライルは自他共に認める地味なやつである。が、周りが異状に濃い。そして、その濃くてやかましい集団のほぼ中心にいるのだ。こうやって噂になると『ライル? ああ、あの地味なやつね』などと、学園の生徒の八割程度が顔を思い浮かべられるほどには、知名度があったりするのだ。
その上で、今回の事件である。
彼の注目度は、本人のあずかり知らぬ所で、鰻上りの様相を示していた。
もちろん、ライルにとっては居心地の悪いだけである。『ああ、ジュディさんが言ってたのはこういうことか』と思いながら、こそこそと、視線を下に向けて無難な日替わり定食を注文。すでに、食堂のおばちゃんにまで話が広まっているのか、ニヤニヤ笑いを向けられながら、トレイを受取った。
「ライル! ここ、ここ!」
さて、どこに座ろう、と思った段階で、どこからともなくかけられる声。
ちょいと探してみると、アレンとクリスが、向かい合って座っていた。
「あ、二人とも。食堂来てたのか」
言いつつ、クリスの隣に座る。
「まあね。まあ、僕はアレンの食べっぷり見てるだけで、胸焼けがしてきたけど」
意識的に視界から排除していた皿やら丼やらの山が目に入った。優に二十人前はあると思われる、それをすべて食べたのだろう。そりゃ、これだけ正面で食われていたら、食欲もなくすと言うものだ。
「それで、ライル」
とりあえず、それらの皿を無視して、食事を始めたライルに、アレンが話しかけてきた。
「ん? なに、アレン」
「ぶっちゃけ聞くが、噂の真偽ってどうなんだ?」
ぶっちゃけすぎである。ライルは、体中が脱力するのを感じながら、なんとか手に持っていたスープの器を置いた。
「ま、まさか二人とも信じてる?」
「んにゃ」
「まさか」
即座に二人は否定する。
「ああ、やっぱり持つべきものは友人だね。そうなんだ、実は……」
「ライルにそんな甲斐性あるわけないしな」
「なんていうか、キャラが違うって言うか」
「……君らなんて友達じゃないやい」
ライルは床にしゃがみこんだ。
「拗ねるなよ。俺はこれでも同情してんだぜ? なんせ、二年に上がってから、ずっとフィレアが付きまとってんだ。そーゆー噂の的にもされていた」
うんうん、とアレンは頷きながらライルの肩を叩く。
「だが、人の噂も三百六十五日……」
「いや、長いから」
「あれ? 何日だっけ? まあ、とにかく。放っておいたら自然と収まるもんだ。気にするなって」
「気にするなって……無理だよ……」
アレンの場合とはわけが違う。ライル自身、アレンに関するものなど聞いたことがない。本当に、裏で囁かれていた程度なのだろう。
おまけに、ジュディからは停学などという単語も飛び出していたのだ。平静でいられるわけがない。
「ま、ルナも怖いしね。なんか、烈火のごとく怒っていたよ。ああ見えて、ルナってかなり古風な娘だから」
貞操観念がしっかりしている、と言えば聞こえは良いだろうが、いやな古風っぽさである。
「……この時間まで気絶させられたんだから、文字通り骨身に染みてるよ」
強烈な拳だった。殴られた箇所がまだズキズキする。一緒に喰らった電撃はそこまで大したことなかったのだが……ルナは、武道でも食っていけるような気がする。
「とりあえず、誤解なんだったら、少しずつでも解いていけばいいと思うよ。大体、ライルでしょ? クラスの中で噂を本気で信じてるやつなんて、半分もいないよ。まずは、クラスの人に話してみたら?」
「そうだね……」
同意しながらも、その作業の事を考えると、気が重くなるライルだった。
じろり。ビクぅ!
擬音で表すとこんな感じだろうか。
ルナが座っているのは、ライルのすぐ後ろの席である。そのルナは着席したライルを親の敵のような目で見てきた。
「な、なんだよ。言っておくけど、クレアさんとどうこうってのはまったくの誤解だからね? 昨日……って言うか、今日は、朝まで勉強を教えていただけなんだ」
「へ〜〜〜〜〜」
気丈にも言い訳を敢行するライル。周りでは、『やっぱそんなことか』などという顔をしている人が数人いたが、ルナはまったく信じていない様子。
「二人で、朝まで、お勉強ね〜? なるほど」
「って、そうやって曲解するのはやめてよ……」
「別に、私には関係ないことなんだけどさ。あんまり、そうやって大っぴらにすんのはよくないわよ? 思わず殴っちゃったし」
……思わずかよ! と、突っ込みたい気分が満々だったが、これ以上なにかを言っても機嫌を損ねるだけだ、と直感して、ライルは押し黙った。
傍目から見ると、ずいぶん情けない表情だ。
その様子に、なにか思うところでもあったのかルナは頭をかいて口を開いた。
「じゃ、放課後にクレアんちに行って、話を聞いてみるわ。それで、本当に勉強してたってわかったら、信じてあげる」
「え?」
「そんな、今にも泣きそうな顔されたら、仕方ないじゃない」
なんていうか、姉御! って感じの笑みを浮かべながら、ルナはライルの肩を叩いた。
こうして、ライルは誤解を解く第一歩を踏み出したのである。
「でも、嘘ってわかったら、残りの学生生活、病院で過ごすことになるから」
……踏み出したのだ。うん。