空が白み始めた。時計を見ると、午前五時を指している。

すでにグロッキー状態のクレアをみて、ライルは大きく息をついた。

「……そろそろ終わりにしようか」

「……………………………………………うん」

かろうじてそう返事したクレアは、テーブルに突っ伏し、かすかな寝息を立て始めるのだった。

 

第62話「激動」

 

魔法学の勉強を始めて一時間で、ライルはすでに後悔をし始めていた。なにせ、他の教科はわりかし器用にこなすクレアが、こと魔法学に関しては異様に飲み込みが悪い。

当初は二、三時間で終わらせる予定だったのに、日が変わっても初歩をやっとクリアする程度だったのだ。

こうなると、ライルも意地になる。

『あ〜、そろそろ帰らないとな』などと思いつつも、結局こんな時間まで勉強を教えていた。

「……クレアさん。僕帰るよ〜?」

「あ〜〜うん〜」

すでに半分寝ていたクレアは、寝ぼけた感じで返事をする。

ちゃんと学校来れるのかな? と不安になるライルだったが、まぁ彼女は基本的にしっかりしているし、いざとなったら兄弟の誰かが起こすだろう、と深く考えず帰途につくことにした。

カートン邸を出て、朝の静謐な空気の中を歩いていく。

まだ町は眠っていて、時折動くのは新聞配達の人くらいのものだ。誰も見ていないのをいいことに、ライルは大きな欠伸をかました。

……学校が始まるまでまだ余裕があるし。帰って、シャワーだけ浴びて、二時間ほど眠ろう……

そんな事を考えながら、寮内に入る。

生徒の自主性を重んじているのか、はたまた管理費がもったいないのか、ここは学生寮のくせに管理人やらなんやらはいない。寮と言うのは名前だけで、アパートのようなものだ。よって、朝帰りのライルを咎めるような人はいない。

ただ、さすがに、他の寮生にバレたりしたら気まずい。ライルは極力気配を消して、自室へと向かって行った。

ドアを開ける。

「オカエリ」

シルフィがいた。

ぶっちゃけ、すっかり忘れていた。怒りのオーラが、シルフィの小さな体から迸っている。

「た、ただいま」

「……どこ行ってたの?」

「く、クレアさんちに。晩御飯をごちそうになりに行ってた。そのままなし崩し的に勉強会に突入して……」

「そう」

「そ、そう! そうなんだ……」

ライルがこんなにビビっているのには理由がある。

なにせ、始めて会ったときは当時の彼より年上のお姉さんっぽかったのだ。ライルは、根底の所では未だシルフィの事を目上として扱っている。

シルフィもシルフィで、

「心っ配するでしょうが! 連絡くらいよこせ!!」

こんな感じだ。マスターと呼んではいても、やはりシルフィにとってライルは手のかかる弟分のようなものなのだ。……普段は、どっちかというと立場は逆なのだが。

「ご、ごめん」

「ったく。私の晩御飯作るのもサボって、自分は可愛い女の子の家で手料理をごちそうになってたわけですか? あ〜、なんて冷たいマスター……冷血漢、人でなし、甲斐性無しの宿六が……」

「確かに今回の事は僕が悪かったけど……なんでそこまで言われないといけないんだ?」

「だって、私の晩御飯!」

「怒ってる理由はそれかぁ!?」

……さて、この二人。騒いではいるが、これが寮の、玄関先であるということはすっかり忘れていたようで。ついでに、時間帯は早朝なわけで。

「うるせええええええ!」

顔を出して文句を言った隣の部屋の人には、大層迷惑だったようだ。

 

 

 

 

 

 

「まったく、恥ずかしいマスターね」

「先に声張り上げたのはお前だろ……」

髪をゴシゴシ拭きながら、ライルは反論した。

ちなみに、隣の部屋の人はそれ以上文句を言ってくる事もなく、シルフィの声も追求されなかった。これ幸いとばかりに、他の部屋の人に文句を言われないよう、さっさと自室に退散して、風呂に入った次第である。

風呂上りのお約束に、牛乳を一本開ける。腰に手を当て、一気飲みだ。

「っぷはぁ」

「……あ〜親父くさ」

「うるさいな。これが美味いんだよ」

ブツブツと文句を言いながら、ライルは台所に立った。

昨日の晩御飯の分も、朝を豪華にせよ、というシルフィからのお達しがあったせいだ。よって、少し凝ったものを作る事にした。寝る時間が本当になくなってしまうが、まぁこれ以上シルフィの機嫌を損ねるのもライルとしては面白くなかったので、素直に従う事にする。

一日程度の徹夜、まあなんとかなるだろう。シルフィに心配させてしまったのは事実であることだし。

「でもさ。同級生の女子の家に一日泊まる、ってちょっとすごいことじゃない? ちょっとありえないわよ」

「ん〜。でも、やましいことはないし」

「それにしたってさ。大体、両親はなんて言ってたの」

「クレアさんの親御さん、今の時期忙しいらしくってさ。昨日は帰ってきてなかった」

シルフィがそれを聞いて、なんとも言えない表情になった。

「それって、誰かにバレたら、あらぬ誤解を受けそうね……」

「嫌な事言うなよ……。まさか、そんなことになるわけないだろ」

なるわけない、と思いつつ、ライルは、背中に嫌な汗が流れるのを感じていた。

 

 

 

 

 

 

……で、登校して来たライルを待ち受けていたのは、なんとも言えない形相をしたルナだった。

「……なんだよ、ルナ。僕になにか用?」

妙なプレッシャーに、たじたじになりながらも、なんとか聞き返す。

すると、まるで珍獣でも見るかのような目で見ていたルナが口を開いた。

「こいつがねぇ……」

なんとも意味深な発言。ライル的には謎が深まっただけである。

「待った。待ったルナ。一体、何の話? さっぱりわかんないんだけど」

そのまま去ろうとするルナを捕まえて、なんとか言葉を紡ぐ。

今気がついたが、クラス中がこちら――というより、自分に注目しているのだ。居心地が悪い事この上ない。そういえば、というか、この教室に来る前も、他の生徒から視線をプレゼントされていたような気がする。

「ふぅ……恥ずかしいのはわかるけど、幼馴染の私にくらい話しといてくれてもよかったんじゃない?」

「だから、なにが!?」

嫌な予感が止まらない。自分の知らない間に、なにかとんでもないことが起こっている……そんな確信にも似た思いに突き動かされて、ライルはルナに詰め寄った。

「なにがって、アンタ、クレアと結婚するんじゃないの?」

ピシッ、と固まった。

今までで最大級の固まり具合だ。

一体全体、どこからそんな出鱈目が? 火のない所に煙は立たない、とは言うが、ライルはマッチの火程度すら熾した覚えがない。

だが、現実として、そんな噂が事実として受け止められているらしい。しかも、回りの反応からするにすでに学園中にその認識が広まっている。

……結果があるからには、原因があるはずだ。

なにやら、同じようなパターンを思い出して、ライルは我に返ると真っ先に聞いた。

「それって、情報源は?」

「リムだけど」

(またデスカーーーーーーーーーーーーーーーーー!!)

頭を抱えた。

あの人は、一体なにを考えて生きてるんだろう。僕が苦しんでるのを見て、楽しいんだろうか。いや、楽しんでるんだろうが……。

そのリムはと言うと、『やっほー』なんて言いながらこちらに手を振ってきていた。

「リムさん?」

ずんずんと詰め寄って、凄みを利かせて睨み付ける。

「なに?」

だが、当のリムはどこ吹く風。まったく効いていない様子。その飄々とした態度に、ライルは気が抜けるのを感じながら、なんとか口を開くことに成功した。

「一体、どうして、僕とクレアさんが、結婚するなんて出鱈目を、広めたんですか?」

一言一言区切って、リムに問いただす。

「え? だって、昨日、クレアの両親に挨拶しに行ってたじゃない? 私は見てたんだよ。ライルくんがクレアの家に入るところ」

「……確かに家には行きましたけど、両親には会ってません。最近、仕事が忙しくて、家に帰れないそうです」

「あれ? 違うの? 絶対間違いないと思ったんだけど」

「憶測だけで噂を広めないでくれますか!」

聞き耳を立てていたクラスメイトが『な〜んだ』という感じに弛緩する。まあ、彼らにしても半信半疑だったんだろう。だが、男子の方は、あからさまに安心した様子。クレアはそれなりに人気のある娘なので仕方がないが。

ライルも安堵していた。この様子なら、今日中には噂は訂正されるだろう。

「でもさ、なんでクレアんちに行ったの、ライルは?」

横で様子を見ていたルナが聞いてきた。

「勉強教えて上げたから、そのお礼に夕飯をご馳走になったんだよ」

「ふ〜ん……。そういえば、確かに部屋にいなかったわよね、アンタ。私が借りてた本返しに行ったらいなかったし」

「あれ? ルナ、うちに来てたんだ」

「うん。11時ごろ。夜食貰いに行くついでに」

なんとも図々しいことだ。

「ちょっと待って」

そのまま世間話に突入するかと思いきや、リムが真剣な表情で割り込んできた。

「ライルくん、そんな遅くまでクレアんちにいたの?」

「ん、ああ。徹夜だったから」

 

ピシリと、教室内の空気が凍結した。

 

色が反転したような錯覚さえ受ける。それだけ、ライルの発言が衝撃を走らせたと言うことだろうか。

「て、徹夜?」

いち早く復活したリムがオウム返しに聞き返す。

「うん。それがどうかした?」

ライルは、もう少し回りの様子を見るべきだった。そして、もう少し言葉を足すべきだったのだろう。リムの脳内で、どんな想像が繰り広げられているのかも知らずに、きょとんと答える。

「つ、つまり一晩中クレアの家に?」

「ええ」

「そして、両親はいなかった……と」

「さっきも言ったじゃないですか」

リムの目が輝き始める。その目は、特ダネを見つけた記者のそれだった。

「? どうしたの、リムさん。……ルナ、リムさんが変になっちゃったよ……って」

バチバチバチ。

物騒な音が聞こえてきた。

「る、ルナ……さん? その手に集まっている雷はなにかな?」

「……………………………」

ライルが恐る恐る問いかけるが、無視された。

ルナは、拳を腰溜めに構え、猛然とライルの顎に向けて振り上げた!

「徹夜でなにしてたのよアンタはぁ!」

見事、クリーンヒット! パンチの衝撃だけでなく、拳に纏わせた雷がライルの体を駆け巡り、彼を行動不能に陥らせる!

これぞ、ルナの48の必殺技の一つ、サンダーアッパーだ。帯電させた拳を使ったアッパーカットである。なんとも捻りのない名前だというツッコミは却下しよう!

ライルは倒れこみつつ、呻くように言った。

「勉…強……を……」

残念ながら、騒然とし始めたクラス内で、その蚊の泣くような真実を告げる声を聞く事のできた者はいなかった。

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