空がかなり暗くなってきた。

勉強を始めて、すでに三時間近く。夏場で日が長いとは言え、そろそろ帰ったほうがいいだろう。そう思って、僕はクレアさんに話しかけた。

「クレアさん。そろそろ終わろうか」

言うと、クレアさんは図書館に据え付けられている時計をちらりと見て、一つ頷いた。

「うん。そうだね。今日はありがとう」

と、まあこれだけで終わってれば、後々の騒ぎはなかったかもしれない。

「よかったら、これからうちに来ない?」

後ろのほうで、なにかが騒ぐ気配がしたような気がした。

 

第61話「クレアの試験対策 後編」

 

 

「寮生活でしょ? あの寮、食事は自分で用意しなきゃいけないし、どうせ碌なもの食べてないと思って。それに、今日勉強教えてもらったのと……前のミッションの時のお礼もしたいし」

ライルがなぜ家に招待したのかと聞くと、クレアはあっけらかんと答えた。そこそこ料理が得意なライルには、それはまったくの杞憂だったのだが、そんなこと彼女が知っているわけもない。

「でも、迷惑じゃない? 急に食い扶持が増えたりしたら……」

「へーきへーき。うちは家族多いから、ご飯はいっつも多めに用意してあるの」

そう言うのなら、断る理由はない。ライルはありがたく、その申し出を受ける事にした。

仕事帰りの人や、自分たちと同じ下校する生徒たちがごった返す中を二人は歩いて行く。

「クレアさんの家ってどこなの?」

「ん? すぐそこよ。歩いて十分くらい」

なんて何気ない会話をしながら帰路につく二人。

それを、物影から見つめる一つの影があった。図書館で勉強する二人の様子を事細かに観察し、さらにはあとをつけるなどという暴挙にも出たその人物は、二人も良く知る人であった。

「……怪しい」

怪しいのはお前だ、とツッコミを入れてくれる人は残念ながらいない。

「もしかして、マジでできてんのかしら?」

もう皆さんも予想がついていることとは思うが、彼女はリム嬢である。ライルとクレアの仲を疑う彼女は、あの二人が一緒にいるところを見て、あとを付けてきたのだ。

ことここに至って、彼女のチャームポイントの眼鏡が怪しく光り始めた。

「ライルくんは寮生のはずだし……こっちはクレアの家の方よね……」

彼女の豊富な妄想力が急速に回り始める。

いよいよご両親に挨拶か? などと、少々飛躍した発想に行きついたのは自然な成り行きであった。

この年頃の女子は、総じてこの手の話は好きだ(と思う)。平均的女子より遥かに知的好奇心が旺盛、かつ噂話好きなリムは、ライルがクレアの家の玄関をくぐると同時に寮に向かった。

学校はもう人がいない。とりあえずは寮内に広めよう。学校公認になるんだから、あの二人も喜ぶはずだ。

などと、かなり暴走していた。

 

 

 

 

 

 

「あー! ねーちゃんが男連れ込んでる!」

「ほんとだ! 彼氏なの?」

「おー、まさかこんな日が来るなんて!」

居間に入った途端、ライルは一種異様な歓迎を受けていた。小学生くらいの男女が総勢6人が集まってきた。ちょこまかとライルとクレアの周りを走り回って、実にやかましい。

「ら、ライルくんはそんなんじゃないの!」

クレアが少し赤くなりながら弁明する。だが、そんなもの子供相手に通用するわけもなかった。

「ねーちゃん赤くなってるーー!!」

もう収拾が付けられない。

と、一人呆然としてその様子を眺めていたライルに一番年長っぽい男の子が近付いてきた。

「おい、お前。俺のねーちゃんに手出しすんじゃねえぞ」

「は、はい?」

「マルコ!」

因縁を付けてきた男の子を、近くにいた女の子が殴りつけた。

「ってぇ!? なにすんだよ」

「ねーちゃんの恋路を邪魔しちゃだめでしょ!」

と、女の子はぷりぷりと怒りながら男の子を叱り飛ばす。それは誤解なんだよ、とライルが言おうとしたら、今度はこっちに向けてきらきらした瞳を向けてきた。

「で、もうちゅーとかした?」

「してない!」

「なーんだ、つまんない」

女の子はくるりとライルに背を向け、『してないんだってー』と他の子供たちに報告する。んなもん、報告すんな、とライルは思い切り叫びたかった。

「クレアさんちはいつもこんなに賑やかなの?」

「ご、ごめんねー。うち、兄弟が多くて……ほら、家族が多いって言ったじゃない?」

確かに多い。子供はこれで全部としても、クレアと両親を含めて総勢9人の大所帯だ。

「へ、へぇ……」

「両親は共働きだし、上にお兄ちゃんはもう家を出たしね。私がこの子達の親代わりなの」

「ほ、本当に多いね……」

「うん。ま、すぐ晩御飯作るから、ゆっくりしてて」

クレアは無地のエプロンをつけながら台所へと向かって行く。

「クレアさんが作るの? 手伝おうか」

「ん? いつものことだから、手伝ってもらうまでもないってば」

あしらわれてしまう。

どうするかな、とライルが周りを見渡すと、こちらをじっと見ていた子供たちと目が合ってしまった。

「な、なにかな?」

聞くと、男の子が一歩前に出た。……手には、手製らしき木剣が握られている。

「お前にねーちゃんはわたさない。勝負だ!」

「……なんでさ」

ライルは頭を抱えながら呻いた。

 

 

 

 

 

 

「たああ!」

大上段で襲い掛かってくる少年……名前はマルコ……をライルは軽く避けた。

「ねえ」

「なんだ!」

続けて放たれた横薙ぎを今度はジャンプして避ける。

「多分、十年くらい早いから、もうやめたほうがいいと思うけど」

着地と同時に、ライルはマルコの肩口に木剣を振り下ろし、体に当たる寸前で止めた。

「はい、僕の勝ち」

木剣を放り投げ、中庭から家の中に入ろうとする。……が、またマルコに呼び止められた。

「逃げるのか!」

「逃げるのかって……もう勝負は決まったような」

「俺が勝つまで終わりじゃない!」

駄々っ子のように言うマルコに、周りで見物していた他の兄弟が呆れたように言った。

「マルコぉ、もうやめようよ。どーせ勝てっこないんだからさ」

「そうそう。勝てないなら勝てないで、闇討ちでもなんでもすればいいじゃん」

子供のいうことではなかったが、マルコもそれで納得したらしい。

「夜の一人歩きには気を付けろよ!」

などと、物騒な捨て台詞をはきながら、ライルに背を向けた。

(ここの家、どーゆー教育をしてんだろ……)

仮にもお客に対し、あんまりと言えばあんまりな対応であった。だが、年の離れた姉を持つ弟なんて、あんなもんなのかな……とか、そーゆー方向で納得する事にした。

ライルが再びカートン家の中にはいると、いい匂いが漂ってくる。

「クレアさん、できた?」

ひょい、と台所を覗いて見ると、ちょうどシチューの味見をしているところだった。大人数の家族だけに、使っている鍋もかなりでかい。

「あ、ライルくん。少し味見お願いできる?」

「いいよ」

お玉で小皿に注がれたシチューを飲んでみる。なかなかいい味を出していた。

「うん、美味しい」

「そ。気に入ってもらえてよかった。……そういえば、なんか弟たちと騒いでたみたいだけど、なにしてたの?」

クレアの問いに答えようとライルが口を開いたら、割って入るものがいた。

その小さな影、マルコはライルとクレアの間にわざとらしく体を入れると、堂々と姉に宣言する。

「ねーちゃんに近付く虫に、ちょいとお仕置きしてやったんだよ! もう泣いて謝るから許して上げたんだけどね!」

「……お前ね……」

「マルコ!」

ライルが文句を言おうとする前に、クレアが声を張り上げた。

「は、はい、ねーちゃん」

「まったく、お客様になにしてんの! もうすぐ初等部卒業するのに、そんなんでいいと思ってるの!?」

「で、でもねーちゃん……」

「言い訳しない! ライルくんに謝る!」

「ご、ごめんよにーちゃん……」

よろしい、とクレアは一つ頷いてみせる。

「わかったら、もうすぐご飯だから手、洗ってきなさい。みんなにもそう言っといてね」

はーい、と意外に素直な返事を返して、マルコが台所を後にする。去り際、ライルにしか見えないように舌を出したのはご愛敬と言うべきか。

その様子に微笑ましいものを感じながら、ライルは思った事を口に出す。

「なんてゆーか、クレアさん肝っ玉かあさんって感じだね」

ははは、と笑う。

その大口に、ついさっきまで煮立ったシチューをかき混ぜていたクレアのお玉が突っ込まれた。

「ライルくん」

「ひゃ、ひゃひゅいよ、くれあひゃん(あ、熱いよ、クレアさん)」

「肝っ玉かあさんって、年頃の女性に対する形容じゃないよね?」

ライルにはさっぱりわからないが、クレア嬢は怒っているらしい。不条理なものを感じながら、ライルはお玉を吐き出して謝ることにした。こういうときの女性には、なにを言っても無駄だと、ライルはわかっている。

「ごめん。よくわかんないけど、とにかくごめんなさい」

「まったく。気を付けてよね。ライルくんも手を洗ってきてよ」

まだひりひりする口を押さえながら、ライルはすごすごと台所を出る。去り際、ひょいとクレアを見て、小声でつぶやいた。

「……しかし、学校の印象とずいぶん違うなぁ、クレアさん。なんというか、図太い」

「ライルくん! なにか言った!?」

「いえ、なにも」

ひゅんひゅんと飛んできたお玉をかわす。お玉はブーメランのような軌道を描き、クレアの手に戻った。

(いや、本当に。クレアさんってこんなんだったんだ)

「ライルくん! なにか思った!?」

「いえ、なにも」

今度こそ、ライルは小走りに逃げていった。

 

 

 

 

 

 

そのあとの夕食は、まさに蜂の巣をつついたような騒ぎだった。子供がたくさんいるので、仕方ないといえば仕方がない。

で、なんだかんだで美味しく夕食をいただいたライルは帰ろうとしたのだが……

「ねぇ、ライルくん。ここはどうするの?」

なんとなく、そのまま試験勉強に雪崩れ込んでいた。

ライルとしては、ご飯を頂いたら、すぐ帰るつもりだったのだ。シルフィがお腹をすかせているだろうし。

「……クレアさん。ここって、今回の試験範囲の、かなり初歩なんだけど」

「うん。わかんない」

……結局、放課後少々勉強した位では、苦手分野の克服には至らなかったらしい。一度引き受けた手前、こうなったら徹底的に叩きこんでやる、と躍起になるライルだった。

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