紅魔館のパチュリーの図書館。
 魔導書を片手に、自分用ノートに要点を書き留めていると、ふと視線を感じた。

「……ん?」

 振り向いてみても、誰もいない。
 ……いや、一瞬、影のようなものが本棚の後ろに隠れるところが見えた気がする。

「……なんだろ」

 ここに、僕を相手に隠れるような奴は来ない。
 何者なのだろうか、と考えてみる。

 ――ここ、文字通り『生きて』いたり、単独で魔法の行使が出来る本とかそこら中にあるからな。そういった本がひとりでに動き始めていたり、魔物的なサムシングが勝手に召喚されているんだろうか。

 ……もしかして、僕を後ろから襲って喰おうとしているその手の輩がいるかもしれない。
 そんな想像が出てきた上で勉強を続けられるほど、僕の肝は座ってはいなかった。なお、僕の肝は最初から座るどころか直立不動の体勢であるという説もあるが、根も葉もない風評被害である。

「…………」

 音を立てないよう慎重に立ち上がり、先程の影が隠れた本棚にジリジリと近付く。
 いきなり襲われるかもしれないので、不用意に覗いたりはしない。その本棚に後十メートルという距離になった段階で、常に自分の周囲を覆っている『自分だけの世界に引き篭もる程度』の能力の範囲を広げる。
 この力は、範囲内の存在を知覚することも出来る。障害物に挟まれていようが、なにがいるか程度はわか……る……?

「うん?」

 そこにいる人物のことを把握し、僕の脳裏にハテナが浮かぶ。
 うーん? なんで隠れてんだ。もしかして、僕を驚かせでもするつもりだったか?

「フランドール?」

 ひょい、と彼女が隠れている本棚の影を覗き込むと、びっくりした様子のフランドールがあわあわとしていた。

「……どした、声もかけないで」
「え、ええと。その、私忙しいから、後でね!」

 くるりと反転し、フランドールが飛び上がる。それを見送って、僕はますます疑念を深める。

「な、なんなんだろう……」

 つーか、血、吸わなくてもいいんだろうか。
 今日は満月だから、それなりに覚悟してやってきたのに。姉のレミリアと違い、フランドールは言えばちゃんと加減してくれるので、僕としても別に構わんのだが。
 ……いや、満月だと自制が利かないかもしんないけど。

「良也」
「ん?」

 声をかけられた。振り向くと、妹と同じように本棚の後ろに隠れていたらしきレミリアのやつが顔を見せており、

「……きょ、今日はフランドールの日だぞ。妹の血を奪うなよ」

 一応、無駄に殺す趣味はないらしいので、この姉妹は僕が来るたび交互に血を吸う協定となっている。
 なお、その協定は両方が吸うという形でしばしば破られるわけだが、

「そっちは今はいいのよ」
「僕としては今じゃなくても駄目なんだが」
「ええい、いいからちょっと付き合いなさい」

 んん? なんだろう。



























「……で、どうしたんだよ」

 家主の要請を断るわけにもいかず、紅魔館のリビングに移動した僕は、供された紅茶を一口飲み、レミリアに尋ねた。あの場で用件を言わなかったのは、いつも直截にものを言うレミリアにしては珍しい。

「今、ちょっとフランがね……」
「? ああ、そういえばさっき、いつもと様子が違ってたけど」

 レミリアが苦虫を噛み潰したような顔になる。

「ど、どうしたんだよ」
「……基本的なところを確認しておくわ。フランはあれで、私と同じく数百年を生きる吸血鬼だけど、能力が能力で、しかも狂気を抱いていたから、私がつい最近まで閉じ込めていて、情操的には見た目とそう変わらないの」
「何を今更」

 んなもん、とっくに知っている。

「昔は、完全に幼児だったかと思えば、妙に大人びたこと言って私に反抗したりして情緒が不安定だったのだけど……ここ数年は安定してるわ。少しずつ成長しているし」
「だから知ってるって」

 紅魔館には月二回以上は通っていて、フランドールの成長は間近で見てきたのだ。
 本当は残酷な絵本を読んでいた頃から、ティーン向け小説を読み始めた現在まで。

「……それが、良かったのか悪かったのか。最近、フランはどうも人間で言う思春期を迎えたようで」
「うん」
「なんか、男と話すのが恥ずかしくなったらしいのよ。ちょっと前、弾みでアンタの話でたんだけど、そん時あんな反応で」

 ……はあ、成る程。さっきの態度はそれでか。
 フランドールから見れば見た目随分年が離れている僕を相手にそういう反応をするのはちょっとおかしい気もするが、実年齢があれで五百歳くらいなので色々と複雑なのだろう。

「それは、おめでとうでいいのか? 赤飯……は関係ないよな、この場合」
「ちょっと! なによそのどうでもよさ気な態度は!」
「……いや、それを僕に言ってどうしろと言うんだ。フランドールの成長自体は喜ぶべきとこだろ」

 僕には何故レミリアが怒って……いや、焦って? どう思っているのかはよくわからんが、そんなに大きな反応を見せているのかがわからない。
 異性に接するのが恥ずかしくなる時期なんて誰でもあるだろ。

 ――いや、まあうん。僕の知り合い、人間でもそういう時期があったのか疑わしいのが多いけどさ。

「相手が吸血鬼だったらいいのよ? でも、人間のアンタ相手にまで反応しているじゃない。フランは、夜の王たるヴァンパイアとして相応しいよう成長して欲しいのに!」
「吸血鬼の男がいないんだから仕方ないだろ」
「ううー!」

 反論の言葉が見つからなかったのか、レミリアが唸り始める。

 姉がこうだからフランドールも吸血鬼としてあるべき姿から離れているのでは……いやよそう、僕の勝手な予想でレミリアを混乱させたくない。というか、んなこと言ったらこいつブチ切れるだろうし。

「まあ、レミリアが言いたいことはわかった。本来、家畜である人間相手にあんな反応するなんて! ってことだな」
「そうよ! 人間の男なんて、餌として見ればいいんだから!」
「言いたいことはわかったが、それで僕を責められても困るんだが」

 大体、僕としては単なる餌としか見られないのはちょっと困るし。

「ていうか、それにしてもちょっとフランドールの反応が劇的過ぎるような」

 僕は首をひねる。

「そりゃ、あれよあれ。吸血。フラン、直接噛み付いてるでしょ、アンタに」
「うん」
「本来は全然違うんだけど、『繁殖』って意味で言うと、ありゃ人間にとってのセックスみたいなもんだからね」

 ぶふぉ!?

「あ、汚いわね。紅茶を吹き出さないでよ」
「い、いきなり何を言い出すんだ、お前は!」
「……ねえ、血の味が変わってないからもしかしてと思ってたけど、まさかアンタ、まだ?」

 レミリアから哀れみの視線を向けられる。
 い、イマドキの貞操観念の薄い少年少女と一緒にしないで欲しいな僕ぁ!

「う、うるさいなあ。大体、なんだセッ……って」

 いや別に。相手が男友達とかだったら下世話な単語一つ言うくらいでこんな動揺しないんだが、なんせ相手は見た目幼女である。
 ……言えるわけねえだろ。

「だから、『みたいなもん』よ、所詮は。フランがちょっと勘違いしてるのよ。吸血鬼は食事と繁殖が一緒になってるから、人間の価値観とは全然別なのにね」
「じゃあ、それを姉として教えてやればいいじゃないか」
「教えたし、フランも理解はしたわ。ただ、丁度過激なシーンのある小説を読んだらしくて、心の底から納得は出来ないみたいなのよね」

 ふう、とレミリアが溜息をつく。

「それで? 話は分かったが、お前は僕にどうしろと言うんだ」
「え? 別に。ただ文句言いたかっただけ」
「……あっそ。じゃ、もう帰っていいか? そろそろいい時間だし」

 すでに太陽は落ちかけており、代わりに薄闇の空にまん丸い月が登り始めている。

「まあ、待ちなさいな。フランは今日は吸ってないんでしょ? 濃いところを寄越しなさい」
「……順番」
「フランが自分で放棄したんだから気にしないの。咲夜」

 さっきから後ろで無言で控えていた咲夜さんが、つつ、と近寄ってきて銀のナイフを取り出す。

「はあ……」

 手首を差し出すと、すぐさま咲夜さんの熟練した手管で血管を切り裂かれる。もはや慣れたもんで、なんか痛覚が麻痺してるのか,
ほとんど痛みらしいものも感じない。

 とく、とく、と心臓の鼓動に合わせて吹き出す血は、その下に用意されたティーカップに受け止められる。
 それがいっぱいに溢れそうになる前に、僕は集中して傷を塞いだ。咲夜さんがハンカチを手渡してくれたので、血に濡れた肌を拭う。

「良也も手際良くなったねえ」
「いや、ホント、我ながらな」

 直接かぶりついて来ない時は、レミリアが飲む量はこんなもんである。直接噛むときどんだけ零しているのかがよく分かる。
 ほれ、とティーカップをレミリアの方に押し出し、

「ん?」

 レミリアがティーカップを手に取ろうとした瞬間、じ〜〜〜、という視線が背中にバシバシとぶつかる。

「……レミリア?」
「いるわね。ねえ、フラン、隠れてないで出てきなさいな」

 ややあって、観念したのかドアの隙間から様子を伺っていたフランドールがリビングに入ってきた。

「う〜、お姉様?」
「はいはい。そう睨まなくても、フランが飲むっていうんだったらどうぞ」

 レミリアが言うと、トコトコと遠慮するような足取りでフランドールがテーブルに近付いて来る。

「フランドール?」

 話しかけても反応がない。フランドールの目線は僕の血でいっぱいのティーカップに固定されており、さっきみたく僕の存在を気にする様子はない。

「妹様、食欲のほうが優先のようですね」
「みたいだねえ」

 咲夜さんの感想に、僕は大いに頷く。

「んー」

 ティーカップを両手で持ち、クピクピとフランドールが舐めるように飲む。

「フラン、美味しい?」
「うん!」
「それで、美味しいものを飲むことはいけないことかしら」

 レミリアが聞くと、フランドールは少し悩んで、

「ううん!」

 元気よく首を横に振る。

「そうよね。よかったわね、良也。相変わらず、アンタの生き血は中々よ」

 レミリアの言葉に、ちら、とフランドールがこっちを見る。
 あ、よかった。ちゃんとこっちのこと気付いてたんだ。

 ひらひら手を振ると、さっと顔を逸らされた。

「これ、フラン。人間を相手にそういう態度は感心しないわよ」
「でも……なんか恥ずかしいし」
「直接噛むのはちょっとお行儀が悪いけど、その分美味しいわよね?」
「それは、うん」
「だったら、人間を噛むことっていけないことかしら?」
「いけなく……ない?」
「そうよ! 古来、私達はそうやって人間を糧にしてきたのよ! うんうん、わかっているじゃない」

 こ、これが吸血鬼流の教育か。僕も一応教師の端くれだが、人間の教育には何一つとして流用できそうにない教えだな、おい。

「まあ、フランが小説で読んだような肉の快楽は、そのうち大きくなったらね。今は思う存分食欲を満たせばそれでいいわ」

 そ、それでいいんだ。

「ほら、わかったら良也から直接頂いてきなさい。今まで普通にやって来たことでしょう? 別に恥ずかしがる必要はないわ」
「うーん、そう、かな……」

 早い! 早いよ! 思春期の悩みってこんなに早く解決するもんだっけ!? いや、単にフランドールの食い意地が張ってて男女間のあれそれなんぞどうでもいいだけか?

「咲夜。鉄分たっぷりの料理とパチェに言って造血剤を用意しておいてやりなさい。ほら、これで良也も安心ね」
「……ど、どれだけ吸う気ですか?」

 これ、レミリアも思い切り飲む気だ。

「今日は満月。そんな日に吸血鬼の館に訪れるなんて、それなりに覚悟していたんでしょう?」
「覚悟はしていなくもなかったが、それはそれとして失血死は回避できるなら回避したい!」
「ならまあ、大人しくすることね。そっちの方が溢れる量は少なくなるわよ?」

 レミリアの犬歯が目に見えて大きくなってる。
 ……これ、アカンやつだ。















 なお、出血多量による死亡は……多分しなかった、んじゃないかな? 意識が曖昧でよく覚えていない。
 どこかに美幼女吸血鬼姉妹に血を吸われるなんてご褒美です! という血の気が多くて死ににくい若者はいないだろうか。是非、僕の代わりになって欲しい。

 ……いたとしても、僕とその彼、二倍に吸われるだけか。この案は却下だな。



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