あれは……確か、東風谷が幻想郷にやってきた年のことだったか。
 その年から、次の年にかけてあった、月を巡る異変。

 東風谷来襲! という珍事があったせいで、いくらか影が薄かったが……しかし、考えてみると、とんでもない体験をしたもんだ。
 ……なんで普通の大学生が、月に旅行に行くことになったんだよ。

















 その日、幻想郷にやって来ると、霊夢は洗濯をしていた。

「……なにしてんだ、お前」
「あら、良也さん。こんにちは」
「おう。いや、こんにちははいいけど、なにその布? なんでそれだけ洗濯してんの?」
「だって、汚れていたんだもの」

 汚れていたから洗濯。分かる、うんうん、道理だ。しかし、なんでその一枚だけ洗っているのか? という問題がだね。

「これ、凄いのよ。よく見てみなさいよ」
「ん?」

 霊夢が、水に濡れた布を広げてみせる。
 その布は、よくよく見ると薄らぼんやりと光っていた。

「……光ってる?」
「そう。昨日の晩、うちの境内に落ちてきた妖怪兎……の皮を被った狸だか狐だかが持ってたの。綺麗でしょ。それに、これすごく軽くて、着心地もよさそうよ」
「いや、それはそのたぬきさんだかきつねさんだかのものなんだろ……」
「もちろん返すつもりはないわ」
「返してやれよ」

 呆れたものである。
 霊夢のことだ。どうせ、どこぞのドラまた魔道士のごとく『妖怪に人権はない!』とかなんとか思っているに違いない。妖怪は人じゃないんだから、人権をもっていないのは当たり前ではあるが。

「なによ。倒れてたから、ちゃんと介抱してやって、私の布団まで貸してあげたのよ。医者も呼びに行ってやったし。来なかったけど。おかげで、ちょっと寝不足」

 ……霊夢にしては破格の待遇だが、しかし裏にその光る布――いや、羽衣、か?――の存在があるのは間違いない。『治療代よ』とかなんとか言ってせしめる気だ。

「あ、そうだ、良也さん。あいつ見張っといてよ。変化の妖怪のこと、寝たフリをして家探しをしているかも」
「構わないけどさ……。いざとなって、僕が止められるかどうかはわからないぞ」
「それなら良也さんに弁償してもらおうかしら」
「なぜ僕!?」

 冗談よ、という霊夢の瞳に、若干の本気を感じつつ、僕はその妖怪が眠っているという霊夢の部屋に向かった。

 さてはて……しかし変化の妖怪ねえ?
 どうも、詳しく聞くと、どう見ても妖怪兎だが、その妖怪兎の元締めであるてゐですら知らないイコール妖怪兎に化けた狸だか狐だかだ、そうである。

 ……んな手の込んだことをする妖怪いるのかねえ? って、妖怪が妖怪に化けてなんの得が……自分より強いのに化けるならともかく。

 なんとなく釈然としないものを感じつつも、霊夢の部屋に辿り着く。
 か、考えてみると女の子の部屋なんだよなゴクリ……なんて、もちろん感じるわけもなく、フツーに襖を開ける。

「っと、よく寝てんな」

 部屋の真中に敷かれた布団には、霊夢の言葉通り垂れたウサミミを付けた女の子がすぅすぅと寝息を立てて眠っていた。
 神社で倒れていた、という割には穏やかな寝息で、別に医者を呼びに行く必要はなかったんじゃないか? と思う。

「……しかし、じっと見てるのもな」

 霊夢は見張っとけ、と言ったが、ここに来てみて少し考えると、女の子の寝顔をじーっと見続けるのは、いかにも変態臭い。

 僕は、ぽりぽりと頬を掻いて、リュックの中に入ってる小説(ラノベ)を取り出し、読み始めるのだった。


























 それから、二時間ほども経っただろうか。
 ラノベも一冊読み終え、二冊目の三分の一程を読み終えた辺りで、兎少女は目を覚ました。

「ん……」

 寝ぼけ眼でのっそりと身体を起こし、胡乱な目付きで部屋を見渡す。
 最後に、横に座って小説を読んでいた僕と目が合う。

「おはよう。気分は大丈夫か? 水飲む?」

 声をかけてもしばらくはぼけっとしていた少女だけど、はっ! と突然目をくわっと開き、布団から飛び出した。

「だ、誰!?」
「土樹良也。ここんちの……なんだろう? 居候? 家主の友達?」

 わたわたと慌てている女の子に、危険は感じない。……まあ、妖怪兎は元が草食動物だからか、妖怪の中でも極めてぬるい連中だし。
 この子も、その例に漏れないらしい……なんて思っていると、少女は次ははっとした表情になって、

「あ、あれっ!?」
「ん? なに、どうかした?」

 キョロキョロと部屋を見渡し、次いで僕を睨む女の子。

「わ、私の羽衣をどこにやったのよ! 返して!」
「羽衣? ああ、それなら霊夢が……」

 なんて言いかけると、まさに噂を呼べば影で、丁寧に畳んだ羽衣を持った霊夢がやって来た。

「探し物はこれかしら?」
「それそれ。私の羽衣……」
「残念、この子が私のところにいたいって」

 と、ぎゅ、と羽衣を握って、何のためらいもなく言い切る霊夢。……うわ、びっくりした。一瞬、あれが最初から霊夢のもののような気さえした、あまりにも堂々とした宣言だった。

「意地悪ね」
「意地悪っつーかわがままっつーか。霊夢ー、返してやれよ」
「なによ、良也さんは妖怪の味方をする気?」

 ……いや、味方とか敵とかじゃなくてさあ。
 客観的に見て、どっちが正しいかっつー話だ。

 ふと隣を見ると、ウサミミの女の子が、目を険しくしていた。……まあ、当然の話である。
 仕方ない。

「ちなみに、霊夢。今日は外の羊羹を買ってきたんだが、それを大人しく返すなら僕の分を譲ろう」
「なにしているの、良也さん。とっととお茶の用意をしてよ」
「……せめてそこはお前が淹れろよ」

 仕方ないわね、と霊夢は心底面倒そうに、羽衣をぽいっとうさぎさんの方に投げて台所に向かった。

「あ、ありがとう」
「いや、いいよ別に」

 第一、霊夢が本気でこの羽衣を欲しがってたら、こんな簡単には返してくれなかったし。
 大体、あいつは年がら年中巫女服だ。春秋用夏用冬用と、全て巫女服で揃えている。寝間着の他は、巫女服以外を着ているのを見たことがない。

 ……つまり、服装には頓着しないやつなのだ。食い物の方が、よっぽど霊夢の興味をひく。

「あ、そういえば。倒れてたって聞いたけど、大丈夫?」
「勿論。ちょっとスペースデブリにぶつかっただけで……」
「スペース?」

 ……宇宙のゴミに、なにをどうやったらぶつかるのか。あれか、『大気圏を突破する程度』の能力でも持っているのか、この子は。

「な、なんでもないわ」
「……然様か」

 まあ、どうせどっかで聞きかじった単語を使ってみたかっただけだろう。妖怪なんてそんなもんだ。

「さて、と。まあ、すぐお茶は沸くし……お茶でも飲んでいけば?」
「あ、うん」

 頷く少女。
 ふむ、ウサミミ少女とお茶会ね。

「……なに?」
「なんでも」

 ……鈴仙という前例があるせいか、イマイチときめきが足りんなあ。まあ、こっちの子は小さいしなあ。
 そんな駄目なことを考える僕だった。





























 相変わらず、霊夢の淹れるお茶は美味い。流石はお茶を飲むのと掃除するのと妖怪退治が私の仕事よ、と言い切るだけのことはある。ちなみに、仕事の比率は六:一:三だ。

 僕の持ってきた羊羹も美味い……はず。うさぎの少女の前にはちょびっと、霊夢の前には羊羹一個がほぼ丸々置いてある。
 ……あれ、二、三日分のお茶菓子のつもりだったんだが。

「……お前、太るぞ」
「美味しい物を食べて太るのなら本望よ。第一、私太らないし」

 言い切りやがった。

「えっと、じゃあ私の……」
「いや、いい。今日はお茶だけで」

 僕に自分の分を渡そうとするウサミミっ子だが、しかしそんな名残惜しそうな顔をされては僕が悪役だ。
 爽やかに笑って、好青年っぷりをアピールしつつ、お茶を飲む。

「あ、じゃあ遠慮無く」

 パクリ、と羊羹を口に運んで、実に嬉しそうになるうさうさ娘。しかし、そろそろこの子の名前を聞きたいんだが。
 ……お茶を飲んでからでいいか。

「しかし、随分元気そうね。昨日見つけたときは見事な行き倒れっぷりだったけど」
「打ちどころはよかったから」
「……スペースデブリの?」
「そ、そうよ」

 ぼそっと突っ込むと、一瞬怯んでうさぎ娘は頷いた。

「すぺーすでぶりだかなんだか知らないけど、こんなに元気なら医者を呼びに行く必要はなかったわね」
「永琳さん?」
「そう。ったく、人がわざわざ深夜に押しかけたってのに、来てくれないなんて、意地悪よねえ」

 まあ、往診はあんまりやってないしなあ。

「しかし、そのせいで眠いわ」
「……よし、寝ろ」
「羊羹を食べてからね」

 ちぃ!
 霊夢が寝た隙に羊羹を食うという僕の目論見はあっさりと破られ、霊夢はパクパクと勢い良く羊羹を食べ、お茶を三杯のみ満足したかと思うと、

「んじゃ、私は寝るわ。良也さん、そこの妖怪が悪さをしないように見張っておいてよね」

 とか言って、こてんと寝転んだ。

 僕にどうしろと言うんだ。あー、のび太くん並の速度で寝入りやがって……

「妖怪……。私、妖怪かしら」
「ん? 違うの?」
「違……わないような、そうなような。そう、生きるしかないのかなあ」

 わけがわからん。妖怪も、自分の存在に悩んだりするんだろうか? それとも、案外妖怪になりたてだったりして。

 なんて、想像を巡らせていると、ふと遠くから声が聞こえた。

『玉兎よ……。××の罰を受け負い続ける玉兎よ』

 ぴく、とうさうさが耳を震わせ立ち上がる。
 ……つーか、この声って。

「永琳さん? なに思わせぶりな登場してんですか。あ、もしかしてこの子の薬、持ってきてくれたんですか?」
『……貴方はそこでじっとしてなさい。話の腰が折れるから」
「はい?」
『さあ、玉兎よ』

 永琳さんは僕を無視して……多分、女の子の方に呼びかける。
 彼女は、僕と霊夢をちらっと見て、軽く頭を下げてから、永琳さんの声が聞こえた方向に走っていった。

 ……なにかねー。まあ、妖怪兎は基本的に永遠亭にみんな集まっているから、永琳さんが呼びに来たのかもしれん。
 気にすることはないか。

 永琳さんの声にあった『××(発音できそうにない)』ってのがなにかは、ちょいと気になったが。













 その夜。
 なんか、空――月の方角に立ち昇っていく流れ星を見つけた。

 珍しいものを見たと思うが……あの兎に会ったその日に……
 もしや、本当に大気圏突破兎だったんじゃあるまいな。なんてね。



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