「あの、先生。ちょっといいでしょうか?」

 それは、塾のバイトの日。最後の授業を終えて、教材を整理していると、東風谷が話しかけてきた。

「ん? どうした、東風谷。質問か?」
「いえ、そうではなく……」

 珍しく東風谷が言いよどむ。大人しそうに見えて、これで結構自信家な東風谷は、物事ははっきり口にする方だ。その東風谷が口を噤むとなると……

 いかん、社会の窓が開いていたか?

「ふー、セーフ」
「……なにをしているんですか」
「気にするな、紳士の身だしなみだ」

 わけがわかりません、とすげなく一蹴して、東風谷は本題に入る。

「その、ですね。突然で申し訳ないんですけど、今月でこの塾を辞めたいと……」
「ええ!?」

 ちょっとビックリ、である。

 別に塾を辞める塾生が少ないわけじゃあないが、東風谷は抜群の出席率と成績を誇っている優等生だ。いきなり辞めるなんて……

「あ、ここの授業、レベル低すぎたか?」

 習熟度別にしているとはいえ、各クラスの中でも多少の成績の差はある。東風谷はこのクラスではトップクラスだから、もしかして、と思っていたらすぐさま首を振られた。

「ならなんで……はっ!?」

 ふと、思いついた可能性。
 女子学生が、勉強に身が入らなくなる理由といえば、それは、

「男か!?」
「違います」
「……突っ込みに容赦というものがないぞ、東風谷」

 冷静に、それでいて素早く何の無駄もない突っ込み。まるで僕の相手をしたくないみたいじゃないか。あ、したくないのか。

「実は、この秋、引っ越すことになってしまって。色々と身辺の整理や引越しの準備があるので、塾に通っている暇がなくなるんです」
「ひ、引越し? お、おいおい。ちょっと待ってくれ」

 おかしい。他の連中なら納得の理由だけど、こと東風谷に限ってはそれはないだろう。

「おまえんち、あんな立派な神社じゃないか。よくは知らないけど、そういうのってほいほい引越しなんてできるもんなのか?」
「ほいほいというわけではありません。私だって相当悩んだ結果です。でも、このままここにいるわけにはいかないんです」
「はあ……大変なんだな、詳しくは聞かないけど」

 東風谷がそう言うんだったら、仕方のないことなのだろう。
 会った事はないが、神主の両親とかもいるんだろうし、その親が決めたのかもしれない。だとするなら、まだ学生の東風谷に逆らえるわけはなかった。

「あー、わかった。他の先生方にも伝えとく。月謝は……東風谷は手渡しだったな。今月の分はいいから」
「はい」
「そっかー。寂しくなるな」
「え?」

 なにが意外なのか、東風谷は不思議そうに問い返してくる。
 なんだろう? 当たり前だろうに。

「え、じゃないだろ。そういえばどこに引っ越すんだ?」

 実家のある静岡とかだったら、もしかしたら遊びにいけたりするかもしれない。

「……遠い、ところです」
「いや、具体的にどこよ」
「本当に遠いところです。多分、先生がどう頑張っても来れないような」

 そう呟く東風谷はどこか寂しそうで、
 言葉以上に遠くへ行ってしまう気がして、僕はそれ以上何も聞けなかった。





















「ふー」

 大学を終えて、自然と僕の足は守矢神社に向いていた。
 参拝できるのも秋までということで、ふと足が向いてしまったのだ。

 いかんなぁ。ここに足繁く通っているのを塾の人たちにバレたら、生徒に手を出したセクハラ講師とか言われるかもしれないのに。

 教師の性犯罪が連日ニュースを賑わす昨今。ただのバイト講師とはいえ、教える立場の僕が異性の教え子に個人的に会うのは好ましくないだとかなんとか、先輩講師の説教が頭をよぎる。

 ま、なんとかなるさ。そもそも、万が一……億が一、僕と東風谷がそういう関係になったとして、別に年齢的に不自然でもないし。

「ん? 東風谷、いないのか?」

 神社について、境内を見渡すも東風谷の姿はない。

 大体、今くらいの時間には既に学校から帰って、境内の掃除をしているというのに。なんだろう、寄り道か? あんまりそういうのするタイプには見えないけど。

「っちゃぁ。意味ねぇじゃん」

 お守りを買うにも御神籤をするにも、またぐだぐだとどうでもいい世間話をするにも、東風谷がいないとどうしようもない。
 仕方ない、賽銭だけ入れて帰るか、と思い、賽銭箱の方に向かい、

「あ、裏に湖あったっけ」

 ふと、そんなことを思い出した。

 そうそう。この守矢神社には、なぜかけっこう大きな湖が裏にある。
 そういえば、じっくり眺めたこともないし、見てみるのもいいかもしれない。

 そう思い、神社の裏手に向かう。

 鎮守の森の木々を掻き分け、湖のほとりに辿り着く。……と、

「なんだありゃ」

 蛙がいる。あ、いや、春なんだから、水場に蛙がいること、それ自体は珍しくはない。

 ……で、女の子がいる。推定年齢、小学校高学年から中学。んで、なぜか蛙に囲まれている。

 一瞬迷ったけど、奇人変人には嫌になるほど慣れている僕は、その蛙を侍らせた女の子に声をかけることにした。……いや、湖に落ちたりしたら危ないしね?

「あの、そこの君?」
「んー? 誰」

 僕が声をかけると、蛙はぽちゃんと水中に退避し、女の子だけがこちらを見る。

 可愛い子だった。多分、あと五年もすれば、かなりの美人になるだろう。
 それに、どこか東風谷に似て……あ、もしかして姉妹かなんかか? ここにいるってことは、神社の関係者の可能性が高いし。

「ああ、良也じゃない。早苗なら、まだ帰ってないよ」
「……なぜ僕の名前を知っている」

 いきなり、女の子は僕の名前を当てやがった。
 なんだろう、東風谷の名前を出したところからして、関係者なのはこれで確定なんだが。

「だって、何度も神社に来ているでしょ。早苗と楽しそうにお喋りして」
「まあそうだけど、君とは会ってないよな」
「まぁね。もしかしたら、良也は気付いてなかったのかも知れない」

 しれない、じゃなくて、気付いてなかったんだよ。

「じゃ、改めて。私の名前は洩矢諏訪子。ここんちの裏ボスってところかな」
「そのナリで?」

 正直な感想を漏らすと、脛を蹴られた。

「いったっ!?」
「あんまり私を馬鹿にしない方がいいよ」

 いや、でもすねた結果が脛蹴りって時点で舐められても仕方ないと思うが。

 ……しかし、洩矢? 確かにここは同じ響きの守矢神社だけど、東風谷と苗字が違うのは一体……
 複雑な家庭の事情かなぁ?

 うーん、不謹慎だけど、そういう家庭の事情って萌えポイントだよねぇ? 娘さんは美人だし、ギャルゲの舞台みたい。

「ねぇ、それより遊ばない?」
「……なにをして? 一応言っておくと、僕は蛙を凍らせて遊ぶ趣味はないぞ」

 ちょっと前、少し仲良くなったチルノがそんな遊びに誘ってきたが、そんな尻の穴に爆竹を入れるレベルの小学生の遊びに付き合うつもりは毛頭ない。
 凍らせる遊びを、やろうと思えばできるようになってる自分もアレだけどさ。

「なにっ!? 蛙を凍らせるの!?」
「あ、いや。その、知り合いにそんなのが好きな奴がいて……やめろとは言ってるんだけど」

 怒りの声を上げる諏訪子に、慌てて言い訳する。
 そうだよなぁ……あんな蛙に懐かれている(?)娘がそんなの聞いたら怒るよなぁ。

 なんか帽子もよく見たら蛙っぽいし。

「ふんっ、そんな奴、会ったらボコボコにしてやる」

 けっこう怖い子かもしれない。

「ああ、そういえばさ。会っていきなり聞くのもなんだけど、引っ越すんだって?」
「え? 誰から聞いたの?」
「東風谷から」

 そう、と諏訪子は小さく呟く。

「あんまり未練が残るようなこと、しないように言っておいたんだけど。この分じゃあ、友達にも教えてるか……」
「? なんで。友達に別れくらい……」
「二度と会えないのが決まっているのに、後ろ髪を引かれるようなことをしない方がいいわ。いつかは忘れられてしまうのに」

 おいおい。こう言っちゃなんだが、東風谷は人気者だぞ。
 僕も含めて、早々忘れるはずがないだろうに。

 大体、二度と会えない、なんて決め付けるのもよくない。前に萃香が言っていたが、人の縁は奇なるもの、なんだから。

「ま、いいか。遊びましょう。今日はお祭りじゃないけど、最近はお祭りでも誰も来ないから遊び足りないのよ」
「……いいけど。何をして遊ぶ?」
「水切りなんてどうかしら?」

 平べったい石を掲げて、諏訪子が言う。
 ……むう、若いというのに、随分とレトロな遊びを提案してきたもんだ。

 しかし、甘い。

「ふっ、水切り回数平均二十段を誇るこの僕とやりあおうというのか?」
「に、二十!? って、すごいいい石!」

 わはは、実はここに来る途中、でかい湖があるんだったらやってみようと思って拾っておいたんだっ。

「いけっ、スナップショット!」

 水面と平行に、石は高速回転するように投擲。
 一回、二回、三回……と石は跳ね、最終的に二十五回を数えたところで水没した。

 うむ、見事すぎる水切り。我ながら、どうでもいいことが得意だなっ!

「ま、負けないっ!」
「……とか言いながら、三回だけか。乙」

 ぽんぽん、と諏訪子の帽子を叩いてやると、ムキーっ、と腕を振り上げた。

「も、もう一回! 今のは石が悪かったんだからねっ」
「どうぞ。まあ、弘法は筆をなんとやらで、僕くらいになると」

 と、先ほどより丸っこい、あからさまに水切りに向かない石を見せて、

「こうだっ」

 それで、十回超を記録してやった。
 ますます、諏訪子は猛る。

「えいっ」
「駄目。もうちょい手首効かして」

 さっきより行って、五回。でもあれだけいい石でこれなら、駄目だろう。

「む、昔はもっとできたんだよ。でも、ここ最近、遊んでなかったから……」
「はいはい。そうだな」

 諏訪子の年で昔っていつだよ。

 それに、僕だって水切りを最後にしたのなんてけっこう昔だ。でも、

「ほいっ」

 平均二十とまでは行かないが、十台後半はマークしている。ま、才能の差というやつさ。



 その後、僕はこの不思議な女の子と日が暮れるまで水切りに明け暮れた。
 帰りしな、出会った東風谷が『先生?』と言っても、手を上げることもできないほど疲れ果てた。



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