部屋の中に、緩やかな音が流れる。
僕の指が奏でるその旋律は、自分でもなかなかのものだと思うのだが、
「そこ、すこしずれてますよ!」
「う〜ん、リオンはこのあたりがどうも苦手なようですねぇ」
曲にあわせて歌っているお姫様と楽譜とにらめっこしているお母様はどうにもお気に召さないようだった。
第20話「それから…… 中編」
「徐々に良くはなってきてるんですけどね」
フォローするかのようにリーナさんが呟いた。
「やっぱり、練習時間が少ないのが痛いです。学校を休むわけにもいきませんし……」
すでに、例の音楽祭まで四日を切っている。リーナさんが焦るのも当然と言えた。
しかし、正直な話、僕はそろそろ限界が近い。いや、なんつーか、精神的に。学校行っている間と、寝る時間以外はずっと練習しているのだから、それも当然だ。
ここ数日は、睡眠時間さえ三時間ほどしか取っていないのだから、同じスケジュールをこなしているリーナさんは、女性だけに体力的にもそうとうつらいはずなんだが……
「……元気だよなぁ」
むしろ僕よりも生き生きしている感じだ。ここまで歌い続けたら喉が潰れてしかるべきなのに、声が枯れる気配すらない。
好きな事をやっているのだから、そうなのかもしれないが、女の子よりへばっているのでは情けない。
「よし、リーナさん。もう一回やりましょう」
「頑張ってくださいね〜」
その声の主は、なんでここにいるの? と僕的に激しく問いかけたい、うちのお母さん。本当、なんでいるんだろう。……でも理由を聞く事はできない。うちの最高権力者を敵に回すことは死と同義だ。
「じゃ、リーナさんいきますよ」
ピアノを弾き始める。
前奏が終わって、歌が始まると、やっぱり僕はリーナさんの歌声に聞き入ってしまう。いい加減、慣れた筈なのに、どうしてもやめられない。
ただ、なんと言うのか……以前、リーナさんとお父さんが一緒にやっていたときと比べて、なにか足りない気がする。
それはきっと、僕のピアノのせいであり……僕は、それがとても悔しい。
「……?」
そんなことを考えてたせいか、ふと曲調が乱れた。どうしたのかと、リーナさんの視線がこちらを向く。……ついでに、お母さんも『リオンはダメですねえ』とでも言いたげに肩をすくめていた。
僕は、いろいろな想いをひとまず置いておいて、曲に集中する事にした。
そして、歌を終える。
僕は、さっきうまく行かなかったところを少しやり直し。
リーナさんは、なにやら納得行かない様子で発声練習をしている。……そういえば、練習を始めてから、これをずっとしているな。特に、変わった所はないと思うんだけど……
「はいはい〜」
パンッ、という音がすぐ近くで響いた。
「……なんですか、お母さん」
「そろそろ一息入れましょう。リラックスできるハーブティーを淹れてきましたから」
「そうですね。なんだかんだで、もう深夜になっちゃってますし」
なんか、リーナさんも賛成の様子。できれば、そんなことする暇があれば、もっと練習したいんだけど……
「はいはい。リオンも座って。美味しいケーキもありますから」
反論する暇もなく、何種類かのケーキがテーブルの上に並べられる。
「……モンブラン」
などと呟きつつ、まさに神速の領域で、リーナさんが自分の分のケーキを確保する。……本当に好きなんだ、モンブラン。
ふと、初めてあった時、リリスさんの経営する喫茶店に行った事を思い出す。ほんの数週間前の事なのに、ずいぶんと昔の事のように感じた。それだけ、内容の濃い数週間だったのだろう……
「そういえばですね、リーナちゃんに聞きたかったんですけど……」
「はい? なんでしょうか」
お母さんがリーナさんに話しかけていた。物思いに耽っていた僕は、それを何気なく聞き流そうとして、
「ぶっちゃけ、今ルーファスさんの事どう思ってるんですか?」
一気に現実に引き戻された。
まずい。
空気が凍りついたかのような錯覚。冷たい空気が二人の間を流れる。
ダメだ。その話題は。
表面上は落ち着いている様に見えたが、例の告白事件からまだそんなに日は経っていない。想い人を横から掻っ攫った(リーナさんから見ればそうだろう)お母さんからそんな事を言われて、冷静でいられるはずもない……!
「お、お母さん?」
「リオンは黙っててください。こういうことは、有耶無耶にしたままじゃ後々に禍根を残します。彼女だって、収まりがつかないでしょう?」
いや、お母さんが余計な事を言う前は、収まっていたんですけれども……!
そんな僕の心の叫びなど、意に介すこともなく、お母さんがリーナさんを睨みつける。……いや、睨みつける、というには、その瞳に険がなかった。
なんて言うんだろう。親が子を見つめる目というか、年長者っぽいというか……
「……諦めはついてます。リオンくんっていう、子供までいるんでしょう?」
「そういう事を聞いてるんじゃありません。……単刀直入に聞きましょうか? まだ、ルーファスさんのことは好きですか」
……決定的。
うつむいたリーナさんの表情は伺えない。しかし、どこか泣いているように見えた。
「……お母さん」
僕はいつの間にか立ち上がっていた。自分でもなぜだかわからないが、拳を握り締めている。
「そんな怖い声ださないでください、リオン」
「リーナさんを苛めて楽しいですか? せっかく吹っ切ってたのに」
「苛めるだなんて心外ですね。とりあえず、座ってくださいよ」
渋々と言われたとおりにする。
まさか、この握った拳をお母さんに振り上げるわけにもいかない。それに、どうもお母さんの話には続きがあるらしい。
「大体、リオン? リーナちゃんが吹っ切ったって、それは本当に?」
「……だって、お父さんの名前を出しても動じなかったし」
「表面の態度なんて、けっこう簡単に取り繕えるものですよ。最近、彼女おかしなところがありませんでしたか?」
そういえば、今回の音楽祭の件。普段のリーナさんからは考えられないほど強引だった。歌に関する事だから、と思ってたけど、それにしても、明らかに行き過ぎだったように思う。
「でも、歌うときには嘘はつけません。ここ何日か練習に付き合わさせてもらいましたけど、彼女の声に、気持ちが篭ってませんでした
心、ここにあらずって感じです。間違いなく、ルーファスさんの事を引き摺ってますね」
リーナさんが、一瞬、ビクッとなる。……自分でもわかっていたのだろうか。
言われて見れば、確かに……と思うところもある。リーナさんの歌声はきれいだったし、技術もすごいものがあったが……前聞いた時みたいに、心を揺さぶるようなものがなかった。
「とゆーわけで、ここからは女同士の話です。リオンは出て行ってください」
「……へ?」
あまりに唐突な追放宣言に、僕はぽかんとなる。
「ここから先はリオンに聞かせるわけには行きません。だから、とっとと出て行きやがれーです」
「ここ、僕の部屋なんですけど」
「関係ありません」
ぐいぐいと背中を押される。
あれよあれよと言う間に、ぺっ、とドアから投げ捨てられた。
「言っときますが、盗み聞きなんてしたら、シメますよ? あと、話は長くなりそうですから、今日はもう寝ててください」
恐ろしげな宣言とともに、僕の部屋のドアが閉じられた。
「……って、廊下で寝るわけですか?」
すでに、寮中が寝静まっている時間。他の部屋に行くのもはばかられた。
僕は涙を流しつつ、体育座りで目を閉じるのだった。……床の冷たさが体に染みた。
……で、次の日。
「ど、どうしたんですか、リーナさん!?」
朝早くに、自分の部屋に戻る許しをもらった僕が見たのは、左頬に赤いもみじの痕をつけているリーナさんだった。
「ああ、もう! すぐ治しますから……!」
慌てて回復魔法の詠唱を始めようとする僕を止める影。
「心配するのはリーナちゃんだけですか?」
恐る恐る振り返る。
ゴゴゴゴゴゴ、と怒りの陽炎を立ち昇らせ、同じく右頬にビンタの痕を残したお母さんが立っていた。
「お、お母さんも。大丈夫……ですよね?」
ある意味、僕なんかよりずっと頑丈だし。
「ずいぶんと態度が違うじゃありませんか。ヨヨヨ。やっぱりアレですか。親よりも同級生の可愛い女の子が大切だって言うんですね、リオンは!」
怒り顔で『ヨヨヨ』とか言われても怖いだけなんですがーーー!!
「そ、そういうわけじゃなくて……」
「じゃあ、どういうわけなんですか! リーナちゃん〜。息子が、息子が苛めるよう」
なぜか、リーナさんにしなだれかかるお母さん。
それに乗って、リーナさんもお母さんの頭を撫でながら、
「ダメですよリオンくん。お母さんには優しくしてあげないと。もう年なんだから」
ピキッ、とお母さんのこめかみの辺りが引き攣る。
「……言うようになりましたね、リーナちゃん」
「ええ。おかげさまで」
リーナさんが……リーナさんがお母さんに染まって行く……
僕は、彼女のあまりの変貌振りに頭を抱えつつ……それでも、元気になったことは喜ぶべきなんだ、と自分を優しい嘘で慰めた。
「じゃ、リオンくん。学校行く前に、一つ歌っていきましょう」
そして、朝の空気にリーナさんの歌声が響いていく。
お母さんと、一体なにを話し合ったのか。それはわからないけれど……その声には、僕の心を十二分に震わせてくれた。