「ふふふ……今日は私の勝ちね」
「クッ」
マリアがなにやら数字が書かれた紙を掲げ、自慢げに胸を逸らすと、ミルティが舌打ちする。
そんな様をほけーっと観察しながら、ライルは今にもこの建物の中にいるルナたちに気付かれやしないかとビクビクしていた。
すでに、アレンとクリスにはバレている、ということはシルフィは伝えていない。アレンたちを信用しているが、彼らからライルの情報が漏れる可能性はゼロではない。そんな風に考えさせて、余計な心労を与えることもないだろう、という判断だ。
「今日は引き下がりますけど、明日を見ていらっしゃい」
「はいはい。じゃあ、行くわよ、ライル」
ミルティが吐きだした捨て台詞を鼻で笑いながら、マリアはライルの首根っこをひっつかんで、ずるずると引き摺っていく。
少し前まではこんなことされたら嫌がっていただろうが、ルナから離れられるというだけで、この状況を許容するライルだった。
第119話「三竦み」
「げっ」
次の日。渋るルナを説き伏せて、別の宿――昨日、部屋が一杯で入れなかった宿にチェックインしようとしたクリスは、思わずそんなうめき声を漏らした。
彼の視線の先では、目を限界まで見開いたライルが、お客さんに皿を差し出した姿勢のまま固まっている。
なんで、どうして。
そんな単語がクリスの頭の中で踊り狂う。
昨日のシルフィの話では、ライルは確かに路銀を稼ぐためにアルバイトをしている。しかし、その店はあのウンディーネとかいう高級店であり、こちらのローレライではなかったはずだ。
単に、ピンポイントでここに来るとは思っていなかったシルフィが伝えなかっただけなのだが、それが最悪の事態をもたらしていた。
「あによ。ぼーっと突っ立って。どうしたの、クリス?」
固まっているクリスを押しのけて、ルナが店内に押し入るのと、ライルが速攻で皿を置いて厨房に逃げ帰ろうとダッシュをかけるのがほぼ同時で。
このまますぐに隠れれば、ルナとの対面は回避できる、はずだったのだが。
……さすがに、昼時で混みまくっている店内で、走ることなどできようはずもなかった。
「あっ……!」
丁度後ろにいたマリアを押し倒す形で、ライルは倒れる。
椅子やテーブルを巻き込むことこそ避けたものの、マリアが手に持っていた食器類が見事に散乱する。いくつかは割れて、ガシャーン! と大きな音を店内に巻き起こした。
大きな音に、騒然となっていた客たちが静かになる。
その沈黙にライルは、嵐の前の静けさとかいう言葉があったよなぁ、なんて呑気に思い出す。クリスは一人、静かに胸の前で十字を切った。
ルナはいきなり目の前に標的が現れたことに、目をパチクリさせている。しかし、すぐに事態を把握したのか、なにやらにこやかに笑いながらライルに近付いていく。
ダラダラと、ライルの背に嫌な汗が滝のように流れた。
「ちょっとコラ、ライル!」
なにやら、下でマリアが叫んでいる。今、ルナから視線を逸らすと即死の予感なのだが、あまりにもマリアが切羽詰っているようなので、ふと視線を下にやる。
「……あれ?」
思わず、呆けた声を出してしまった。
ふよふよと手のひらに伝わる柔らかな感触。真っ赤に染まったマリアの顔。掴んでいるものの正体を見てみると、なんとマリアの胸。
……おかしい。僕はこんなキャラじゃなかったはずだ。
などと、ライルは現実逃避をし始める。
こんな最悪のタイミングで、そんなうれし恥ずかしのハプニング。その感触を楽しんだり、慌てて手を放したりする前に、ライルの精神は死んだ。
これから起こるであろう惨劇を想像した脳が、勝手に機能をシャットダウンしたのだ。
目の前が暗くなって……もとい、目の前を暗くしていく。
「い……つまで、触ってんのよ!」
ガツン、と顎にマリアの拳が突き刺さった。
自分の意志で失神するという、なんというか、ちょっと常識外れのスキルに目覚めたライルだが、そう簡単に逃げることは出来ないらしい。
「ふんッ!」
腹を蹴り上げられ、強制的に起こされる。抵抗する気力もないライルは尻餅をつき、そのまま後ろに倒れこみそうになり。……どん、と背中が後ろに立っている誰かの足によって支えられた。
「久しぶりね、ライル。“色々”元気そうで、なによりだわ」
恐る恐る上を見上げる。
そこには、無理矢理笑顔を浮かべようとして、仁王のような表情となったルナが、哀れな子羊を見下ろしていた。
「へぇ、じゃあルナはライルのクラスメイト、ってわけ?」
どこか頑丈な鎖でぐるぐる巻きにされたライルはローレライの宿の一室に放り込まれ、ルナとマリア、その他大勢に取り囲まれていた。ライルの額には達筆な字で『破廉恥男』と題されたお札が貼り付けられており、一体なにをしたいのかわからない惨状になっている。
その格好に、同情の目を向けるクリスとアレンだが、助けを出すことは出来ない。どっちもとばっちりは受けたくないのだ。
「ええ、そうよ。ちょっと、こいつが私に無断で旅になんぞ出たから、ちょっととっちめにきたの」
「……学生って、随分暇なのね。そんなことしている時間があるなら宿題するなり、働くなりしたらどう?」
バチバチっ! とルナとマリアの間に火花が散る。
ルナからすれば、マリアは色香を使ってウチの飯炊き&宿題係をたらしこんだ毒婦であり、
マリアからすれば、ルナは自分トコの従業員を横から連れ去ろうとする人買いなのである。
……両方とも、当人が聞いたら殴り合いになりそうなことを考えている。
「忠告は聞いとくわ。それはそれとして。随分とこき使ってくれたみたいだけど、とりあえずライルを返してくれないかしら?」
「別に強制的に働かせているわけじゃないし、正当な報酬は払っているわ。返せって、ライルは貴方のものじゃないでしょう?」
ライルを間に挟んで、喧嘩腰に話す二人。
ライルはいつルナが暴発するかビクビクしている。
お札で半分塞がれた視界の中に、アレンとクリスを見つけ、視線で助けを求めるも、
「いやぁ、美少女二人に囲まれて、羨ましいなぁ、ライルは」
「フィレア。ここはちょっとアレだから、下で飯食いに行こう」
「あ、僕も付いて行くよ」
逃げられた。
ライルは去って行く三人の後姿を恨めしげに見送るが、ドアがバタンと閉められ、視線が遮られる。
(やっぱり、いざとなったら頼れるのはシルフィだけだよ。助けてくれ)
(いやぁ、あっはっは。ごめん、マスター。そんな風に持ち上げられても、私なんにもできないわ)
右斜め上にいるシルフィに声をかけるが、あえなく却下される。
(しっかし、運が悪いわね、マスターも。昨日の勝負でローレライ側が勝ったこともアレだけど、ルナたちがピンポイントでここに来るなんて)
(ああ。……ってか、どうしてルナたちはあそこから出たんだよ。ウンディーネにそのまま泊まり続ければいいじゃないか)
ルナとマリアが無言で睨み合っているせいで、することもないライルは、シルフィに愚痴る。
その愚痴を聞いたシルフィは、バツが悪そうに視線を逸らした。
(……シルフィ?)
(ごっめん。実はね、昨日クリスたちに、宿移動するように言ったの、私。……いやぁ、でも、ローレライに来るとは、運が悪かったわねぇ)
あっけらかんと言い放つシルフィに、ライルはがくりと肩を落とす。
そーか。原因は貴様か。
(シルフィ。ちなみに、この街の西側には、宿はこことウンディーネしかないことは当然知っていたんだよな?)
(そ、そなの……?)
今明かされる衝撃の事実。
素泊まり用の小さな宿はいくつかあるが、表通りに面した大きな宿となると、ローレライとウンディーネの二店しかないのである。
(いや、その、私ってば、基本的に宿屋なんて興味ないしさ?)
(……言いたいことはそれだけか?)
ピクピクと頬が痙攣しているライルを見て、シルフィは情勢不利を悟ったのか、
(あ、私、ちょっと出かけてくるー)
などと言い残し、さっさと部屋から出て行ってしまった。
(ちょっ! おまっ、責任取っていけ――!!)
声に出せないのがもどかしい。必死の心の声は、しかしシルフィには届かなかったようで……結局、この部屋には味方はいなくなってしまった(そもそも味方だったかどうかは怪しいが)。
「ライル。なにぼーっとしてんの。そこの女に、僕はこの店に永久就職したんだから、お前はとっとと帰れって言ってやってくれる? 今なら、さっき私の胸触ったこと、チャラにしてあげるから」
「アンタ、またシルフィと話してたわね? この状況で、気を逸らすなんていい度胸しているじゃない」
ほけーっとしていたライルがお気に召さないのか、矛先がお互いからライルに移る。
ライル、絶体絶命。
この状況を打破するのは、やはり第三者の登場しかないだろう。
そんなライルの必死の叫びが聞こえたのかどうかは知らないが、
「マリア! あんた、ライルくんを監禁しているって本当!? 明日はウチで働いてもらうんだから――って、ああ! こんな鎖で縛られて、可哀想に」
さらに事態をややこしくするべく、ミルティ嬢登場。身動きの取れないライルの頭を抱え込み、さめざめと涙を流す。
(い、イヤーーーーーー!!)
絶望の悲鳴を上げるライル。
「ちょっと、また新しい女?「ミルティ、今立て込んでるから後にして「立て込んでるならライルくんは私が連れて行「ちょっと、コラ。あんたら、ライルを好き勝手しないでくれる?「ていうか、貴方誰よ?」
もうなにがなんだかわからない。
ルナとマリアの対峙は終ったが、今度はミルティも加えた三竦みの状態。ライルでなくとも、逃げたくなるだろう。
そして、あれよあれよという間に、話し合いは加速し、なぜか今ライルが置かれている状況についてマリアとミルティがルナに説明し始めた。
「……つまり、なに? ライル、アンタは今、この二人の店から勧誘されてて、売り上げが多い方に就職するぜー、って言っているわけ?」
「いや、それだいぶ違う」
その言い方だと、ライルが仕事に就きたいと思っているように聞こえる。
「ま、おおむねそういうこと。勝負の最中なんだから、後から出てきたヤツはお呼びじゃないのよ」
「っへぇ〜」
またマリアがルナの神経を逆撫でするような事を言う。
「いいわ。そういうことなら、私も勝負に参加しようじゃない。……もともと、それはウチのなんだから、そのくらい譲歩してもらうわよ」
いや、ウチのって。
「……どうする?」
「私は構わないけれど、そちらの方も参加するとなると、売り上げ勝負は駄目でしょう?」
「ハンデをつけるとか?」
「いや、でも……」
なにやら、現在勝負中のマリアとミルティが相談している。
やがて、決着が付いたのか、二人してうんと頷いた。……実は、仲が良いのかも知れない。
「実はさ。二日後に、奉海祭って祭りが、この街であるんだ。そこでお互い露店を出して、その売り上げで競うってのはどう?」
「上等よ」
あっさり決定。
「ちょ、ルナ。お前、露店なんてやったことないだろ」
「ないけど、私が負けるわけないじゃん」
うわっ、言い切った。
その根拠のない自信がどこから来るのか、是非聞かせてもらいたいライルである。
「で、詳しい交戦規定(レギュレーション)だけど」
ふむふむ、と頷く三人娘。
もう、どうにでもしてくれ……と、ライルは半ば諦めの気持ちで、床に突っ伏し、目覚めたばかりのスキル『自力で失神』を発動させるのだった。