「はっ、はっ」

息を切らせながら、ベルは走る。

生れ落ちてから二千年間、ずっとあのカプセルの中にいたのだ。保存液の効能により、最低限の筋力は持っているものの、体力については常人より遥かに低い。

だが、それでも、意志の力だけでグローランスの端まで辿り着いた。

製造者――レギンレイヴが指定した場所。ここまで来ると、その姿も見えた。

「……レギンレイヴ博士?」

結界の境界ギリギリに立つ金髪の男に、ベルは不安から問いかける。

なにしろ二千年ぶりの再会だ。姿形は鮮明に覚えている。声も。彼の好む香水の香りさえも。記憶力は、ベルに与えられた使命に最も必要な能力だ。忘れることなどありえない。

しかしそれでも、目の前の実体と記憶の中のレギンレイヴと結び付けるには若干の時間を要した。

「どうした? 『祝福の鐘』」

「博士……」

その声に、ベルは目の前の人物が自身の製造者、レギンレイヴだと確信した。

生まれたてのベルが最初に記憶したその声と寸分違わぬ声色。カプセル越しだったあの時と比べ、遥かに鮮明に聞こえる。

「待たせたな。ようやく、お前を迎えに来ることができた。さあ、私と共に神界へと行こう」

「……神界、ですか?」

いくら戦が終わって長い時が経ったとは言え、ベルを生み出した文明はその神によって滅ぼされた。

当時の記憶を持つベルはよく覚えている。グローランスを守る結界に手を焼いた神々が、天罰と称してこの地でなにをしたか。

彼らは、この地域一体の酸素をすべて燃焼させた。完全な不意打ちでもって。

いくら魔法が発達しようと、突然呼吸が出来なくなって無事に済む人間などいるはずもない。

高位の術士を除き、グローランスの民はそれですべて死に絶えた。残った十数人も、ただそれだけで都市を維持できるはずもなく、緩やかに滅びを迎えた。

「お前が、神を嫌うのは分かる。だが、神は本来人間の味方だ。神の領域を侵す罪人以外に、罰を下すことなどない」

「…………」

二千年は、長い。

当時、最も神に反発し、そのための魔法開発に明け暮れ、挙句にその神を滅ぼすためだけに強大な力を持つその『神』に転生した人間は、今では完全に神族の側に回ったようだった。

「グローランスのことは、私も悲しいよ。だが、二千年だ。あれから、二千年もの時が流れた。過去は忘れて、人と神は共に歩むべきじゃないか?」

「……それも、そうですが」

多分、正しいことだろう。

今、あの戦争を覚えている人間はいない。遺恨を引き摺っているのは自分だけだ。ならば、より上位の存在である神と、共存する道を探した方がいい。

「だろう? では、共に来てくれるな。お前の残りの命、神界で私と親子として過ごそう」

「……………」

「どうした?」

「その命は……聞けません」

小さく、しかし断固とした口調で、ベルは言った。製造者との再会で揺れていた瞳が、確固たる意志の光を宿す。

「……なぜだ?」

逡巡した後、レギンレイヴは問い質した。

「わたしは、『祝福の鐘』です。人に福音をもたらす知識を次代に継ぐために生まれました。神界では、その使命が果たせない」

「……しかし、今や人間はあの頃に勝るとも劣らない文明を築き上げつつある。自然の進歩に任せ、過去の遺物はひっそりと姿を消すべきじゃないのか?」

「そうかもしれません。しかし、それがわたしの存在理由です。貴方が、わたしをそう作りました」

そうだったな、とレギンレイヴは呟き、唸った。

「と、すると、これからお前はどうするつもりだ?」

「ひとまず、わたしの後継となるホムンクルスを作成するつもりです。しかる後、任務に復帰します」

任務。彼女のそれは即ち情報の開示である。

本来、認証キーとなるものがないと彼女から情報を引き出すことは出来ない。だが、この地に既に一本存在している。それ以外のキーも、いくつは現存していた。

「そうか……」

「はい。博士の心遣いは、とてもありがたいですが、わたしは……」

「いや、いい。お前の気持ちはわかった。それなら私から言うべきことはない。しかし」

レギンレイヴはゆっくりと両手を左右に広げる。

「その前に、抱きしめさせてくれ。お前を生み出してから、まともに親らしいことをしたこともないからな」

「は……い」

決意に固まっていた顔が、少し緩んだ。

まるで夢を見ているようにおぼつかない足取りで、ベルがグローランスの結界から、一歩、足を踏み出す。

ベルの全身が結界の効果範囲から抜け出るのを見て、レギンレイヴはため息をついた。

「やれやれ……手間をかけさせてくれたな」

「……博士?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「マッスターーーー!! ヤバイわよっ」

シルフィが叫んだ。

ライルも焦燥も露に足に力を込める。

「ベルっ……馬鹿っ!」

ライルの視線の先では、ベルがレギンレイヴに向けて一歩を踏み出すところだった。その一歩は、ベルを守っていた結界を越えている。

ここからあそこまでまだ十秒弱かかる。結界から出たベルを殺すには、充分な時間だ。

「……くっ、かくなる上は!」

「へ? し、シルフィ?」

ぎゅるる、と竜巻を拳に纏わりつかせるシルフィに、ライルの背中に嫌な汗が流れた。

「ぶっ飛んで、助けてらっしゃいっ!」

走っては間に合わないと判断したシルフィは、ライルを殴り飛ばし、その飛翔スピードでもってベルの救援に向かわせると言う暴挙に打って出た。

メリッ、とライルの背中にシルフィのアッパー気味の拳が突き刺さり、同時に発射された竜巻がライルを飛ばす。

「こんな時でも僕はこんな扱いかあああああぁぁぁぁぁぁ!!」

意外と余裕のあるツッコミを入れるライルがほぼ水平にかっ飛んでいく。

「くっ!」

しかし、今は仕方がないとライルは思いなおす。

ライルがぐんぐん近付いていく中、レギンレイヴは掌に破壊的な魔力を込め、ベルに放とうとしていた。

「うわああああああああああああ!!」

自身でも風を制御。中空で姿勢を整え抜刀。

驚きに目を見開くベルに、今まさに叩きつけられようとしたレギンレイヴの右掌。そこに、思い切り剣を叩きつけた。

「むっ!?」

弾ける魔力。その余波に煽られ、ライルは体勢を崩す。

「……ふん」

そのライルに、レギンレイヴは鼻を鳴らして、腕を横に振るった。

「!?」

剣を楯にするが、受けきれず後ろにいたベルともども吹き飛ばされる。

結界と反対側の方に。

「……くっ、ベル!? 大丈夫!?」

庇う余裕などなかった。すぐさま起き上がり、レギンレイヴに警戒を飛ばしながらベルに声をかける。

「は、博士? どうしてですか……?」

どうやら、ベルは掠り傷程度しかないようだった。しかし、ショックからか、声は震えている。

「『どうして?』 なにがだ、『祝福の鐘』?」

「なぜ、わたしを殺そうと……」

「先ほど言っただろう」

レギンレイヴは、血の巡りの悪い娘に、肩をすくめる。

そんな動作も優雅で……それが、ライルにはどうしようもなく不愉快だった。

「我々神族は、神の領域を侵す罪人以外に、罰を下すことなどない、と。逆に言えば、お前のような存在に対しては、容赦なく罰を下すのだよ」

「わたしが?」

「神への転生の法、などというものは存在してはいけない。そんなものが存在しては種族の秩序が乱れる。その知識を保有し、あまつさえ開示しようとするお前は、あってはならない存在だ」

「……それでは、グローランスを滅ぼした神族と同じ理屈です」

「それがどうかしたか?」

心底不思議そうに、レギンレイヴが尋ね返した。

「貴方は、それを一番嫌っていた。より高みを目指そうとするのは人間の本能だと。例え、神と言えど、それを邪魔させないと!」

ベルは大声で訴えた。

しかし、レギンレイヴには届かない。

「高みを目指す。それは良いことだろう。しかし、それはあくまで人の枠内に収まっていなければいけない。神となってまで高みを目指そうなどと、私も愚かだったものだ」

「何故ですか、博士。何故」

「そりゃあ、仕方ないわよね」

ようやく追いついてきたシルフィが、ベルの前に立ってレギンレイヴに言った。

「……シルフィリアか。邪魔立てをする気か?」

「べっつに〜? 私は、あんたらに喧嘩売る気はないわよ? でもね〜?」

レギンレイヴからは見えない位置で、シルフィがライルの尻を蹴っ飛ばした。

「ほら、うちのマスターはやる気満々でね。気は進まないんだけど、契約している身としては従わざるを得ないじゃない?」

「詭弁を……」

「いやいや、嘘じゃないって。マジマジ」

とても真剣に言っているとは思えない態度だが、理屈は通っている。

建前だとはわかっていても、こう言われればレギンレイヴとしても精霊界相手に事を荒立てたりはできない。

「……精霊、いきなり出てきて、話を進めないでください。そして、仕方がない、とは? 説明を求めます」

「あら、説明する側じゃないわけ?」

「……………」

ベルが押し黙る。

「シルフィっ」

「はいはい。冗談よ。ちゃんと説明したげる」

油断なくレギンレイヴの方を見ながら、シルフィが説明を始めた。

「つっても、あんたの知ってることで簡単に推論できることだと思うけどね。ベル? 人間が人工的に転生した場合の、考えうる副作用は?」

「……力の不安定。存在のゆらぎ。人格の変貌。記憶の欠損……」

本来の転生とは、生前の能力、記憶その他全てをリセットし、新たな生命として誕生することだ。

神への転生の法は、それを人工的に起こし神族よりに魂を作り変えるのだが、その過程で魂の一部がリセットされる可能性がある。

「……つまり、博士は記憶が」

「ないんじゃない?」

シルフィは、あっさりと言い放つ。そういうことか、とライルが納得していると、レギンレイヴは苦笑した。

「……転生したては、自身の名しか覚えていないという有様でな。しかし、年を経るに連れ徐々に思い出してきた」

余裕のつもりか、それとも少しはベルに対する情があるのか、レギンレイヴは語りだした。

「思い出したとは言っても、客観的な事実だけでまるで感情が伴わないものだ。今の私に、なんら影響を及ぼさないものばかりだった。……そして、ついこの間、お前の事を思い出したのだよ、『祝福の鐘』」

二千年ぶりに思い出したその存在は、レギンレイヴにとって、いや、神族全体にとって大問題であった。

完全に滅ぼしたはずの文明。都市の封印も『万が一』の場合に備えてのことだった。

しかし、当時のすべての知識を完全な形で持っているホムンクルスが生存している可能性がある、となると黙っているわけには行かない。

すでに神としてそれなりの地位を築きつつあったレギンレイヴは、自らが責任を取るとして、この地にやってきた。

「……が、これだけの時を経ても思いのほか結界が強固でな。丁度、私の動きを不審に思った人間達が来たので、お前の破壊を頼んだのだ」

「なんにも知らない人間を使うなんて、趣味が悪いわよ」

「世界の安定のためだ」

シルフィの嫌味に、レギンレイヴは一言で返した。

レギンレイヴは、ライルのことはまるで眼中にないらしく、シルフィとベルにしか気を払っていない。

「………………」

蚊帳の外に置かれたライルは、なんだかムカムカしていた。無論、無視されているのがどうというわけではない。

作った人間がベルの事を忘れていたこととか、ガーランドたちに彼女の命を奪わせようとしたこととか、ベルが彼を慕う気持ちを利用して誘き出し、あまつさえそれをあっさり裏切ったこととか。

もしかしたら、世界全部の事を考えたら、レギンレイヴのしていることは正しいのかもしれない。今まで世界はそうして回ってきたのだから。

だけど、仮に向こうが正しいのだとしても、ライルにはどうしても我慢できなかった。

「シルフィ。お前と意見が合うなんて珍しいな」

「ん? どしたの、マスター」

先ほどまで話していたレギンレイヴのことをすっぱり無視して、シルフィがライルに向き直る。

「僕も、あいつのこと、だいっ嫌いだ」

そうでしょうとも、とシルフィは頷いて見せた。

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