ほんの数分前までいた月とは違い、種々の匂いと生き物の気配のする迷いの竹林。
 豊姫さんの能力によって、ン万メートルの距離を一瞬で旅した僕は、呆然としていた頭をなんとか落ち着かせた。
 ……大丈夫、大丈夫。この程度の事態、今まで僕が体験してきた諸々に比べればなんということはない。

「あーーっと、豊姫さん?」
「なにかしら」
「一応、この迷いの竹林には、八意永琳さんが住んでいるんですが……案内しましょうか?」

 何故ここに運ばれたのか、イマイチ判然としないが、もしかしたら彼女の師匠という噂の永琳さんに会いに来たのか、と思って聞いてみる。
 すると、豊姫さんは困ったように笑った。

「お会いしたいのは山々だけれど。今、八意様と会うのはちょっとマズイのよね」
「へ?」

 なぜに? 豊姫さんの隣のレイセンもはてな顔だった。

「レイセンも駄目よ。以前と違って、今の貴方は私たちの郎党なのだから」
「は、はあ。それでは、この八意様への手紙は」
「勿論、そこの良也に頼むの。そのために、一緒に来てもらったんだから」

 はあ!?

「そ、そんだけ?」
「それだけです。あまりにも簡単で、がっかりした?」
「がっかりしたっていうか……いやもう、それはいいとして、なんで永琳さんに会えないんですか」
「月の勢力も一枚岩じゃないからね。一部の者は、ここ一連の騒動を地上に追放された八意様の仕業だと思っている。それで、以前の弟子である私たち姉妹がその手引きをしていると思われているのよ。依姫と同じ、神を降ろす力が使われているのも疑惑に拍車をかけているわ」

 すぐに理解できなかったため、頭の中で二回ほど豊姫さんの言葉を吟味してみる。
 ……うーん、つまりテロリスト(永琳さん)と裏で繋がっている、と思われているということ? で、いいのかな。

 豊姫さんは、僕が理解の色を示した辺りで、続けて言った。

「と、言うわけで、下手に私や私の息のかかったものが八意様に接触するのは、そういう噂を肯定しちゃうのよね」
「言いたいことはわかりましたが……」

 そこで、無関係っぽい僕に白羽の矢が立ったと。
 昔の恩師にも会えないとは、立場のある人ってのは不自由なもんだ。

「レイセン、彼に貴方の手紙を。……本当なら、貴方が直接渡したほうがいいのだけれどね」
「あ、はい」

 と、恭しく差し出された手紙を、神妙に受け取った。
 しかし、僕は郵便屋じゃないんだけどなあ。今回、こういうの多すぎね。

「じゃあ、よろしくね。八意様の方も、用意はしているだろうから」
「……用意?」

 はて、僕を歓待でもしてくれるんだろうか。……ないな、今更。

「ええ。この手紙はあくまでついで。八意様の策は、別にあるわ」
「……よくわからないので、とっとと届けてきます」
「素直な人間ね。普通なら、少しは訝しむものだけど」
「僕は、異変の時は基本的に成り行きに任せることにしているんですよ」

 だって、下手に自主的に動くと、被害が大きくなるしね。まあ、今回の場合、スキマの奴に喧嘩を吹っ掛けている気がしないでもないのが気掛かりだけど。

「そういえば、話にあったスキマは?」
「もうそろそろ来るわ。……しかし、スキマ、ねえ」

 面白い渾名を付けるわね、と豊姫さんは笑った。

























 一度、竹林の上に出て方角を確認し、えっちらおっちらと永遠亭に辿り着く。

 相変わらずの門構え。月では時間が分からなかったが、地球に戻ってみると意外と遅い時間帯だったので、こっそり入ったほうがいいかな、なんて悩んでいると、

「おかえりなさい、良也。その様子だと、無事彼女たちに文を届けてくれたみたいね」
「……永琳さん。どうも」

 僕が来るタイミングをわかっていたかのように、永琳さんが門を開けて顔を覗かせた。いつも出迎えてくれるのは、大抵鈴仙かもしくはてゐなので、ちょっと驚く。

「っていうか、変な仕込みをしたんだったら、そうと言っておいてくださいよ」
「あら、ごめんなさい。量子印のこと、伝え忘れていたわね」

 あの量子印だとかいうのが、いきなり空中に文章を書いたときはちょっとびっくりした。ただ、けっこう便利そうなので、僕も使えるなら使いたいものだ。

「あれは、今の所製作者の私にしか使えないわよ。綿月の姉妹も作ることは出来ないし」
「……はあ」

 またしても僕の考えていることが読まれた気がする。まあいいけど。

「それで、こっちが綿月さんちのレイセンから預かった手紙です」
「レイセン?」
「なんか、前地上に降りてきた兎さんが二代目レイセンを襲名したとか」
「そうなの」

 ちょっと驚きながら、永琳さんは僕が渡した手紙を懐に収める。ここで読むつもりはないらしい。

「さて、これは後でゆっくりと読ませてもらうとして……良也。手数をかけるけど、これを持ってあの子のところに戻ってもらえないかしら」

 と、永琳さんが門の影から一升瓶を取り出す。

「……なんですかこれ」
「見てわからない? お酒よ」
「そりゃわかりますけど。……豊姫さんに、差し入れですか?」

 僕がそう言うと、永琳さんは微かに笑う。なんか僕、的外れなことを言ったっぽい。

「ふふ……。まあ、ことが終わった後なら、みんなで呑んでも構わないけど。これは、八雲紫への策よ」
「スキマ?」

 そうね、と永琳さんは頭上の満月を見る。

「まだ少し時間はあるみたいだし、説明しておきましょうか」
「……お願いします。少し前からわけの分からないうちに使いっ走りされてるんで」
「あら、それはごめんなさい。お礼はちゃんと考えておくわ」
「それは、別にいいですけど……」
「遠慮しなくていいわよ。もう少し、骨を折ってもらうことになるし」

 その骨を折るというのが、文字通りの意味でないことを祈る。骨折は痛いんだよねえ。

「このお酒は、八雲紫が自宅で寝かせていたものよ」
「え? 盗んだんですか」
「失敬ね。主がいない間に、寂しそうにしているお酒を救出した、と言って頂戴」

 ……詭弁にも程がある。

「とりあえず、話が進まないから、それはいいです」
「そ。でね、あの妖怪がどんな策を持って月攻めをしているのか……全部は読めないのよ。貴方達を囮にして自分が裏で攻める、なんていう単純な策を取るとは思えないし。もう一手二手、手を打っているはず」
「そうなんですか?」
「間違いないわね。貴方が異変の時に仲介してくれたお陰で、何度か話す機会があったけど……そこまで浅い妖怪だとは思わないわ」

 ……まあ、意地の悪さなら幻想郷一だろうな。駄目さ加減も胡散臭さも一番だが。

「と、言うわけで、手持ちの情報から推測はできても、完全には読めないから……」
「から?」
「下手に月の都に手を出すと、こっちにも考えがあるぞ、と、知らせようと思って」

 幻想郷を留守にすると、なにが起こるかわからないということをアピールするために、スキマんちの酒を盗んだ、と。
 留守番に化け猫がいたはずだが、まあ永琳さんにかかれば鎧袖一触に違いない。

「あの、一ついいですか」
「なに?」
「……性格悪いですね」
「はっきり言うわね。故郷を侵略するような輩に、情けをかける趣味はないだけよ。今の私は地上の民だけど、ね」

 確かに、あのスキマに自分の地元が好き勝手されてたら、そりゃ嫌だろう。

「と、言うわけでお願いね」
「……わかりました。スキマには確かにそう伝えときます」
「そのお酒を渡すだけでいいわ。それだけで、全部伝わるから」

 ……頭のいい人間同士のコミュニケーションってわけわかんない。
























 戻ってみると、スキマが土下座していた。

「誰だお前ーーーー!?」

 思わず突っ込んだ。
 その場にいた全員――スキマ、藍さん、豊姫さん、レイセンが全員僕に注目して、『空気読めよ』と視線で言ってきた。

 い、いや、でも仕方ないじゃない。土下座するスキマとか、夢にも思わなかったし。スキマの姿を被った別の妖怪だと言われたほうが、僕は余程納得出来る。

「あら、帰ってきたの。八意様には会えたのかしら?」
「あー、それはもう。……で、なんでスキマが土下座してんの?」

 間抜けな空気になり、スキマが苦虫を噛み潰したような顔になると、立ち上がって土をぱんぱんと払った。

「そこの月人が、地上を素粒子レベルに分解する、と言うからね」
「おや、その物言いは心外。私は、一戦交えるかどうかと尋ねただけなのだけどね」
「屁理屈を」

 と、スキマは抗弁するが……なんだろう、凄い違和感。文句を言っている割には、口調に自信がなさそうで、豊姫さんに怯んだように見える。
 普段のスキマなら、相手に弱みを見せるなんてことはありえないんだけど。

 なに企んでんだこいつ、と思いながら、ふと自分の持っている一升瓶のことを思い出す。

「あ、スキマ」
「なに? 月に寝返った地上の人間」
「う゛……べ、別に寝返ったわけじゃないんだが。ていうか、勝手に地上と月とを対立関係にすんな。敵対してるのは、月と、お前だろ」
「珍しく強気ね。正論といえば正論だけど」

 そこで、スキマは僕が片手に持っている一升瓶に気づいたらしい、ハッとした顔になる。

「ああ、そうだ。永琳さんが、これをって。見せりゃわかるって言ってたけど……あれ、スキマ?」

 スキマが、顔をうつむかせてぷるぷると震える。
 な、なんだなんだ。キレた? もしかしてこれ、大切な酒だったりするんだろうか。

 と、顔を上げると――あれ? いつものスキマっぽいぞ?

「あー、もう! そう来たか。それじゃあ、私は引き下がるしかないじゃない」

 悔しそうに言うスキマには、先程までの弱気な気配は見えない。豊姫さんは、その変わり身に少し怯んだ様子だった。
 ……のは、まだいいとして、なんでスキマの従者の藍さんまでびっくりしてんだ。もしかして、藍さんもよくわかっていなかったとか?

 っていうか、本当にこの酒を見せただけで永琳さんの言うことは伝わったっぽい。なんだ、この察しの良い連中。

「そう、演技だったというわけ?」
「そんなところね。こっちが本命だと見せかけようと思っていたんだけど……どうしてどうして、月の賢者の目は曇っていなかったというわけか」
「お前如きが八意様を測るか」
「ふん、貴方?」

 と、スキマが豊姫さんを睨む。冷たい気配が、周囲を包んだ。

「なるほど、月では貴方達には到底敵わない。でも、ここは幻想郷だということを忘れたか」

 うーわー、全力で脅しにかかってる。そして、豊姫さんもやるっていうなら相手になるって顔になった。

「おーい、スキマの負けで勝負は決まったんだろ?」
「……くっ、その元凶が偉そうに」
「元凶とか言われても」

 というか、スキマを凹ませられたなら、僕としては本望というか。

「あーあー、つまんない。ほら、さっさと月に帰りなさい。ここは貴方みたいなのがいていい場所じゃないわ。それとも、師匠と同じくこの土地に根付く?」
「……御免だわ。帰るわよ、レイセン」

 興が削がれた、という感じで、豊姫さんがレイセンをせっつく。

「あーあ、悔しい。良也、今日はやけ酒よ。付き合いなさい。貴方の持っているそのお酒を開けましょう」
「……いや、遠慮しておく。僕はまだ、月でやること残ってるし」
「はあ? こんな美人の酌を断るの?」

 いや、絶対に僕に八つ当たりする気だろ、お前。

 いやにテンションの高いスキマを追い払いつつ、僕は豊姫さんに近付いた。

「豊姫さん」
「まだ月に用があるって、なにかしら? まさか、貴方も企みごとを?」

 疲れたように、豊姫さんが言う。まさか、僕がそんなだいそれたことを考えているとは思っていまい。単に、面倒くさくなったか、どうでもよくなったか、その辺か。

「いや、依姫さんに、手伝ったら月の酒をもらえるって約束したんで」

 豊姫さんは、今度こそ、完全に呆れたようで、ため息を付いて『……能力を解きなさい』と言った。




 またしても月までの距離を無にするその瞬間、スキマの顔がニヤリと笑った気がしたが……気のせい、ということにしておいたほうがいいだろう。



前へ 戻る? 次へ