「ちょ……ルナ。待ってよ。す、少し休ませ」

息も絶え絶えに、前方十メートルほどの位置を走っている豪雷号に向けてライルは叫んだ。

「あによ。アンタは私と違って速いんだから、これくらい楽勝でしょ?」

少しだけ豪雷号のスピードを落としたルナは、ライルと並走しながらそんな事を言った。ルナにしがみついているイレーナは、それを見て、少し顔を引きつらせる。

「は、早いとか言う問題でしょうか? ここまで、四十キロくらい殆ど全力疾走ですよ?」

「あ〜、コイツはドーピング(加速系の精霊魔法)してっから大丈夫よ」

「あのっ、ねっ! 僕っ、体力は、あまりないんだから! そんな化け物馬と、長距離走でっ、勝てるわけないでしょ!」

速度で張り合っているだけでも十分すぎるとイレーナは思う。肉体的ポテンシャルは、常人より低い彼女からすれば、どんな補助魔法をかけても、こんなスピードで走ることなど夢のまた夢だった。

「だらしないわね〜。ま、急ぐ旅でもないし、休憩にしましょうか」

その言葉を聴くなり、ライルは緊張の意図が途切れたのか、足をもつれさせ、顔面から地面へ突っ込んでいくのだった。

 

第142話「鬼ごっこ ―帰り道―」

 

イレーナの家は、廃棄した。

無論、立つ鳥跡を濁さずという格言どおり、全壊した家や家財道具はちゃんと地面に埋めておいた。長い時間をかけて、あれらは自然に還っていくだろう。

服や本といったイレーナの私物は、シルフィが精霊界経由で送ってくれるらしい。なんでも、向こうからすれば、人間界の物理的な距離などないも同然だそうだ。

原理はよくわからないが、便利なことである。

そんなわけで後腐れなくイレーナは旅立ったわけなのだが、しかし育てていたハーブや野菜類は、そのまま放棄するのはもったいない、ということで、現在食べられるものだけ持ってきていた。

ハーブは水に漬けてハーブ水にしてある。こいつを呑むと、疲労回復を促進するのだ。

……さて、ライルはそんなハーブ水の恩恵をこれでもかっ! というほど受けて、ぐでーっと倒れていた。疲労困憊、という単語が、思わず口から出てきてしまうほど、その姿は哀れを誘った。

「だ、大丈夫ですか?」

ライルの事を嫌っているイレーナの口から、そんな言葉が出てくるほど。

「だーいじょうぶよ、おおげさねぇ。そのくらい、十分も休めば完全回復するから」

「……ごめん、絶対無理だからねそれ」

ルナの暴言に対するツッコミも勢いがない。

「大体、急がないって言ってたじゃないか。のんびり行こうよ、のんびり」

「駄目よ。三日で帰るって、決めたんだから」

「み、三日……」

イレーナは思わず絶句する。

彼女は、魔法馬車を乗り継いで最寄の町まで来て、さらにそこから徒歩であの山まで来た。その時の所要時間は約二週間。人里離れて一人暮らしするのに最適だと思われるあの山を予め下調べし、最短の公共交通を使った場合の時間がそれだ。

それを、この女は立った三日で――しかも、片方は乗り物なしで!――踏破しようというのだ。

正気の沙汰ではない。いや、それを言うならば、それを実行可能にするほどの脚力を発揮するこの男のほうもかなりアレだが。

「……なんで、そんなに急ぐんだよ。夏休みは、まだかなり残ってるのに」

「私が、そう決めたからよ」

どうでもいいことだが、ルナはこうと決めると頑固だ。それが、全く意味のないことでも。

渋々、ライルは頷く。

「でも、一応三十分ほどは休憩入れようね。……あと、夜は危ないから、移動しないこと」

「まぁ、いいわ。丁度、おなかも空いたしね」

さぁ、食事にしましょうか、とルナはお腹を鳴らしながら言った。

「……私が用意します。ルナさんたちは、どうぞごゆっくり休憩なさってください」

「あ、そお? じゃあ、任せるわ」

それに対して、イレーナは半ば諦めたように、食事の用意を始める。あまり料理は得意ではないし、野外での調理は少し齧った程度だが、しかしこの女性に料理させるよりはずっとマシだろう。こんなガサツな言動をする女が、マトモな料理をするとも思えない。

まぁ、ルナが『マトモな料理ができない』というのは正しいが、ルナの料理はイレーナの予想を最悪の意味で裏切っている。マトモじゃない、なんていうのはかなりオブラートに包んだ表現で、アレはまず料理じゃない。そして、もっと言うならこの世に存在していい物質じゃない。

そんな風に、ライルは一人納得しつつ、イレーナのナイスアシストに感涙しているのだった。

「なに泣いているんですか?」

自分が世界の危機を救ったことにも無自覚なまま、イレーナは手際よく調理を進めていた。

とは言っても、そんな凝ったものを作るわけではない。幸い、火にかければ食べられるような野菜を、イレーナの元家から持ってきている。火を熾し、その真ん中に野菜を放りこんで、あとは適当なところで取り出せばオーケーなのだ。

……まぁ、ルナだったらそんな単純な調理でも、異次元物質を作り出してしまうのだが。

「ああ、普通だ。美味しくはないけど、全然不味くもない」

「喧嘩売っているんですか、貴方は」

「とんでもない。イレーナさん、貴方はそのままの貴方でいてください」

「なんだか、ひどく馬鹿にされている気がするんですけど……」

言いながら、淡々と食事を進めるイレーナ。焼けた芋の皮をむき、ふーふーと息を吹きかけて口に運ぶ。味付けなどロクにしていないのに、とても美味しそうだ。

「ねぇ。アンタ、貴族だってのに、よくそんな質素なものを美味しそうに食べられるわね」

ルナが指摘する。

別に、特別ルナがなにかを意図して言ったわけではない。ただ、世間話の一つとして話題を振っただけだ。

なのに、イレーナはむっ、と過剰反応する。

「別に、貴族だからって毎日豪奢な食事を摂っているわけではありませんし、そもそも私は“元”貴族です。とっくに絶縁されているはずですから」

「ふーん。まぁ、グレイの奴も、学食の日替わりを『うむ、美味だ』って食ってたしねぇ」

「〜〜〜〜!!」

なにやら、イレーナがその言葉に顔を顰める。どうやら、なんとなく気に食わないらしい。

「言ってたなー。派手好きで贅沢品大好きなのに、妙なところで庶民的なんだからなぁ、あいつ」

「(ギロッ)!」

「い、イレーナ、さん?」

ライルが、あまりの視線に恐れおののいて(情けない奴である)言うと、イレーナはフンッ、と視線をそらすのだった。

 

 

 

 

 

 

(なんでこんなにイライラしているのかな)

イレーナは、食事の後片付け――と言っても、火の後始末だが――をしながら、唸っていた。

どうにも、あの二人にグレイの事を言われると、ムカムカする。

いや、特に、ルナのほうだ。ライルは……まぁ、ぶっちゃけるとどうでもいい。彼に自分の知らないグレイの姿を語られても、別に心を揺さぶられることはない。まぁ、煩いから、黙らせたが。

おかしい。グレイのことは、とっくに吹っ切ったはずだ。それは、何度も内省して確かめている。今のイレーナに、グレイに思うところは――ないとは言わないが、少なくとも好意らしきものはない。

そんなことは何度も確認しているはずなのに、どうしてか、ルナの口からその名前が出る時だけ、さざなみのように心が沸き立つ。やはり、グレイを奪った当人から言われると、違うのだろうか?

……おかしいと言えば、今自分がセントルイスに帰ろうとしているのも謎だった。

実家とは縁を切り、人間社会とは金輪際関わらない、と決めていたのに、なぜノコノコとルナたちに付いて行っているのか。

言っておくが、シルフィが言っていたことくらいイレーナは覚悟している。自分が好悪はともかくとして、他人なしでは立てない弱い存在であることくらいは知っている。

それでも、あえて離れたのだ。野垂れ死ぬことは受け入れているし、自然に囲まれて逝けるのなら幸せとまで思っていた。

だが、しかし、だ。

何故か、そういうことをルナに言い切ることが出来なかった。

セントルイスに帰るというルナに、背を向けることがどうしてもできなかったのだ。

これは、やはりアレだろうか……婚約者を取られたことに対する敵愾心かなにかだろうか。そうだとするのならば……

「やっぱり、私も薄汚い人間、ってことかしら」

そういう、人間の汚い感情が嫌で逃げ出したのに、自分のそういう心を認めていなかったとは、お笑いだ。

そうだとするなら、やはりあの山から出たのは間違いじゃない。あんな綺麗な山に、自分みたいな人間は不要だろう。

「なぁに、一人で納得しているの?」

「……シルフィさん」

精霊界に帰っていたはずのシルフィがいつの間にかイレーナの目の前に出現していた。

「なんでもありません」

「『薄汚い人間』ねぇ。別に、アンタの人間観を否定するわけじゃないけどさ。わざわざ自分の種族をそこまで貶めることないんじゃない?」

「聞いていたんじゃないですか……」

イレーナの、少し不満を訴えるような目に、ごめんごめんとシルフィは手を合わせる。

「まぁ、そういう面があることは否定しないけどねー。でも、そうじゃない人間も、けっこーいるわよ」

「……いません。一番、違うと思っていた私自身ですら、そうだったんですから」

「……自分が一番綺麗な人間、って思ってる辺り、アンタも意外といい性格しているけど……じゃあ、アレはどうなのよ」

と、シルフィが指差すのは、豪雷号に水を上げているルナ。

「な、なにを言っているんですか、シルフィさんは。あの人も……」

言いつつも、詰まる。『あの人も同じです』と言おうとして、あんな人間と自分が一緒と言うのはとっても抵抗があるなーと一瞬思ってしまった。

彼女は、薄汚い、なんて生ぬるい表現ができる人間じゃあない。壊滅的というか……よりタチが悪い。

「でも」

確かに、イレーナが最も嫌っているような、暗い感情とは無縁なのは事実だった。だからどうだという話もあるが。しかし――

「………しい」

「ん? なにか言った? イレーナさん」

ひょい、と顔を近づけてきたライルが問いかけてきた。

「う、わわわわ!」

「な、なにさ。どうして、そんなに驚いてんの?」

「なんでもないですなんでもないです!」

「ふーん。あ、シルフィ、お前帰ってきた……って、なんだよ、その不満げな顔は」

むぅ、とライルを睨むシルフィ。

「なんっつー、タイミングの悪いマスターかしら」

「な、なんだよー」

いきなり罵られて、文句を言うライル。

遠くで、ルナが豪雷号に跨り、『行くわよー!』と大声を張り上げていた。

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