「ああ、うん。わかっているって。ちゃんと食べているよ」

 それは、久しぶりの実家からの電話。
 母はちゃんと食べているか、とか大学にちゃんと行っているか、とか定型文の質問をしてきて、僕はそれに無難に答える。

 自分で言うのもなんだが、これでもなかなかに品行方正な生活をしているのだ。朝晩は大抵自炊だし、大学も滅多にサボらない。無駄遣いもほとんどしておらず、バイトと仕送りで貯金が溜まる日々だ。
 就職したら、親には大学に入ってからの費用をちゃんと返そうと思っている。

 まさに大学生の鏡。まあ、僕程度ちゃんとしたやつはけっこういるから、胸を張れることでもないけど……少なくとも、心配されるようなことはない。

 そして、最後に、お母さんはいつもの質問をした。

「ねえ、恋人はまだできていないの?」

 ……きっかけ、なんてのは大抵なんでもないことだったりするもんだけど。
 多分、これがきっかけになったんだろうな。










 翌日。
 幻想郷に来た僕は、いつものように霊夢と共に縁側でお茶を飲んでいた。

 今日は、他の連中はまだ来ていないため、穏やかな時間が流れている。なんでもない世間話だけでこうも間が持つやつも、中々に貴重なのではないか。

 そして、ふとした話の流れから、昨日の電話の話になった。

「……ってわけさ。うちのお母さんも心配性なんだから」
「電話、ねえ。話には聞いていたけど、便利なものよね。そーゆーのがあれば、宴会の連絡に飛び回ったりしなくてもいいし」
「や、一番初めに思いつく用途がそれっていうのもどうなんだ?」

 酒しか頭にないのか。

「でも、親元から離れて暮らしているのね、良也さんは」
「あれ? 話していなかったっけ」
「聞いたような、聞いていないような」

 つまり、忘れてたんだろ。多分話しているぞ、僕は。

「まぁな。流石に、親と一緒に暮らしてたら、こうまでこっちに来て泊まれやしないよ。絶対怪しまれるし」
「親に内緒で女のところに通っているというわけね」
「……お前、それは合っているけど間違っているからな」

 なに、その妙に誤解を受けそうな表現。
 僕がここに泊まった回数は、既に三桁をとっくに越えている。が、しかし、僕と霊夢の間にそういう色っぽいイベントはこれまで起きたことがない。

 脱衣所で鉢合わせて『キャーイヤーン』ってなお約束イベントも皆無。まあ、そんなことがもしあったら、栄えある僕の死亡回数に忌まわしきプラス一があっただろうけど。

 ……まあ、霊夢はやたら無防備なもんだから、時々、ちょっとした仕草にドキリとするくらいはあったけど。
 今では、そんなことがあっても気にならなくなっている。

 ――いかんなあ、僕って、そろそろ男として枯れつつあるのかもなあ。まあ、霊夢が成熟しきっていないせいもあるかもしれないが。
 別段、今は欲しいとは思わないけど、お母さんからも『恋人は作らないの?』とさんざせっつかれているのに。

 女の知り合いは、妙に増えているんだけど、そしてみんな美人なんだけど、逆に美人に対するトラウマが増えているってどんな状況だこれ。

「……っと」

 無意識に伸ばした手が、柔らかく暖かいものに触れるのを感じて、とっさに手を引いた。

「悪い」
「良いわよ、別に」

 菓子鉢に伸ばした手が、霊夢と触れ合ったようだった。
 霊夢が煎餅を一枚口に運ぶのを確認して、僕も再び手を伸ばす。

 やれやれ……不覚にも、ちょっとドキっとしちゃったじゃないか、久しぶりに。手が触れ合っただけだというのに。
 妙なことを考えていたせいかねえ。

 ほんのちょっと、そう、ほんのちょっとだけ紅潮しているかもしれない頬を誤魔化すように、煎餅を一気に食べて茶をぐいっと飲む。

 そんな様子を怪訝に思ったのか、霊夢がこっちを見てきた。

「なに?」
「いや、お茶のお代わり淹れてくる」
「ええ、お願いね」

 丁度、急須の中が空になったので立ち上がる。
 ……霊夢の勘の鋭さは並大抵じゃあないからな。もし、僕がちらっとでもドキドキしていたのがバレたら、変な弱みを握られてしまう。

 まあでも、そんな気の迷いも、お茶を淹れるための湯を沸かしている間になくなっていく。

 お盆に急須を乗せて縁側に戻る頃には、僕は平静を取り戻しており、いつのまにかやって来ていた魔理沙を加えたお茶会は、その日の夕飯まで続いた。





















 以前、地底の連中が起こした異変のおかげで、博麗神社の敷地内には温泉が沸いている。

 時折勢い良く吹き出る間欠泉。そいつを神社のすぐ近くまで引いて、露天風呂を作っている。基本的に、雨の日以外は霊夢はそっちへ入っているのだ。
 『薪の消費が減ったし、風呂を沸かす手間が省けたわ』とウキウキ顔の霊夢だけれども、女湯の方は馬鹿でかすぎて掃除も一手間。

 必然的に、誰か客が来ていないときは、僕が自分用に作った小さい男湯の方に霊夢は入っている。……まあ、男湯というよりは、家族風呂ってな感じか。

 当然、僕も入る。ついさっき、湯上りの霊夢とすれ違って、『お先に』と言われたばかりだ。今ごろは僕が冷やしておいたビールで一杯やっている頃だろう。……親父くせぇ。
 ったく、ちゃんと僕の分は残しておいてくれるんだろうな、と湯に浸かりながらビールの残りの量に思いを馳せる。

 その様子を思い浮かべて、改めて昼間の胸の高鳴りは気のせいだったと断言する。

 大体、あんな気持ちにちらっとでもなったのは、うちのお母さんのせいだ。なにが『前うちに来た八雲さんなんてどうなの?』なんて空恐ろしいことを言ってくれやがって。
 確かに、あのスキマは以前僕の実家にいきなり押しかけて、家族に顔を覚えられていたりするけど……あれだけはマジ勘弁。美人は美人だけど、あれなら霊夢の方が億倍マシ……

 ばしゃばしゃと、風呂の湯で顔を洗う。

 だから霊夢も有り得ないんだって。なにせ……なにせあれだ、その……傍若無人だったり?
 いや、別に特に嫌う理由もないんだけど、それでもないってば。

「なんだかねぇ」

 幻想郷に来始めてはや数年。付き合いは最も古い部類に入る霊夢は、そういう対象からとっくに外れていると思っていたけれど、まだギリギリ淵には引っかかっていたらしい。
 まあ、気の迷いであることは確かだから、寝て起きたら忘れているだろう。

 あまり長湯してのぼせてもアレなので、とっとと上がる。

 体を適当に拭き、パジャマに着替える。……ここに僕の寝巻きが常備されているのも、もう違和感はない。

 居間に向かい、恐らくは一人で枝豆でも肴に呑んでいるであろう霊夢のところに向かい、

「あら、良也さん上がったの。先に呑ませて貰っているわよ」

 速攻で目を逸らした。

 なんやねん。寝る前、浴衣なのは冬以外じゃいつものことだけれど、なんでちょっとはだけているねん。そして僕は何故関西弁。

「霊夢……服を直せ」
「あ」

 あ、じゃねえ、あ、じゃ。
 いそいそと霊夢が服の乱れを直すまで、僕は断固として視線を逸らしたままにする。

「もういいわよ」
「……よし。ってか、なんでいきなりあんなに帯緩めてんだ。もう回ったのか?」
「そんなわけないじゃない。ちょっと火照っただけよ」
「あっそう」

 目に毒だからああいうのは止めて欲しい。ささやかながらも、確かにある胸の膨らみが……こほん。

「しかし、そういうのに興味はあんまりないと思っていたけど、良也さんも男なのねえ」
「……なにを今更。その男と一つ屋根の下だぞ、お前」
「怖い怖い」

 お前の方が怖いよ、僕は。ってか、やっぱ少しだけど酔ってる?

 魔法で作った氷で冷やしておいたビールの缶を取り出しつつ、ちょっとだけそう思う。
 ……って、僕が持ってきたビールは確か一箱あったはずだけど、もう五本くらいなくなってんだが。

「呑みすぎ」

 プシュ、と軽快な音を立てながらプルタブを開け、ぐびりと飲み下す。
 苦み走った冷たい液体が喉を通り、胃に収まる。

「ぷはぁ」

 いやあ、風呂上りのビールはやっぱりいいね。

「あ、こら。乾杯くらいしましょうよ」
「……一人で先に呑んでいた奴に言われても」
「いいから」

 霊夢は無理矢理缶を合わせてくる。

「乾杯」
「はいはい……」
「しかし、このビール美味しいわね。やっぱり外の世界は美味しいものがたくさんね」
「ちょっと奮発した」

 と、言っても、よく行っているスーパーのポイントが溜まったからなんだけどね。運ぶのが大変だったけど。

「うーん、こうなると、私も外に出てみたくなるわねえ。ほら、良也さんのご両親にも挨拶した方が良いかもだし」
「……なぜお前が僕の家族に挨拶をする?」
「色々お世話になっているし。異変の解決まで手伝ってもらっちゃって」

 それは……まあ、そうだけど。
 しかし、こいつを連れて行った場合、うちの家族は狂喜乱舞するか『こんな小さい子に手を出すなんて』って怒るか、五分五分だと思うぞ。

 悩んでいると、霊夢が次の一本に手を伸ばし……

「……って、今日中に全部呑む必要はないからな?」

 釘を刺すと、霊夢は『まあ、流れね、流れ』と肯定も否定もしない。……一箱あるんだぞ、つまり二十四缶。二人で一晩で空けるつもりか。ありえないと言い切れないのが、こいつの恐ろしいところだ。

「……ったく、結構高いんだぞ」
「感謝はしているわよ」
「どーだか。そう思うんだったら、もう少し自分で家事をしてくれ。なぜ僕にやらせる」
「楽だしねえ……。それに、良也さんもなんだかんだでやってくれるじゃない」

 それはそれ、屋根を貸してもらっているんだし……でもやっぱり一人はちょっと。

「せめて手伝ってくれてもいいのに」

 明治時代くらいの文化風習を持つ幻想郷だけれども、男尊女卑の考えは驚くほどない。っていうか、強い女性が多すぎて、そんなこと考え付くこともないくらいだ。
 ……なので、家事関係は割と男もやったりする。が、それでも女性がこなす割合が多いことに変わりはない。

「良也さんと肩を並べて? 夫婦みたいねえ」

 ……少しだけ、またしても僕の与り知らぬところで心臓が跳ねた。

「なにを。一緒に料理や掃除するくらいでおおげさな」
「わかっているけどね。私も、そろそろそういうのを意識する年代だし」

 ちょっと驚いた。霊夢からこんな話を聞くとは。

 ……しかし、確かに幻想郷の適齢期は外より遥かに低い。霊夢くらいの年(や、正確な年齢は知らないけど)で子持ちも珍しくはない。
 でも、こいつはそういうの興味ないと思ってた。

 と、聞くと、

「別に、興味なんてないわよ。でもまあ、そのうち子供は必要だから一応ね」

 必要って。

「あっさりと言い切るな。彼氏の当てはいないのかよ。いや、いないのは知っているけど」

 こいつに近しい男と言えば、僕以外では森近さんくらいだ。
 そして、僕はもとより、森近さんもそういう意味で霊夢に興味はない。断言できる。

「そうねえ、確かに良也さんくらいかも」
「…………僕を候補に入れるな」

 とりあえず、引き攣りそうになる顔を抑えて、そう答えた。引き攣る表情が作りそうになったのはどういう表情か、判断はつかなかった。

「冗談よ。まあ、あと十年くらいはのんびり構えているわ」

 それで、この話はおしまい。
 霊夢が恋愛話をするのは珍しいを通り越して初めてだったけれど、結局こいつの考えは僕の想定と大して変わらなかった。

 一人、霊夢の言葉に振り回された僕が馬鹿みたいじゃないか。

「ええい、二本目だ」

 ビールを呑む。つまみも、追加した方がいいかな。

「私も」
「お前、何本目だ? そろそろペース落とせ」
「いいじゃない」

 呆れるように僕はため息をついて、いそいそと新しい缶を取り出す霊夢を眺める。

 呆れるほど繰り返した、霊夢と二人の酒盛り。僕が泊まる夜は、大体半々くらいの確率で催される、小さな宴席。
 ほんの少しだけあった違和感――僕の一方的な戸惑い――もすぐに薄れ、夜は更けていった。



























 ……頭痛い。

 目が覚めて、最初に思ったのはそんなどーでもいいことだった。
 呑みすぎた次の日の鈍痛。薄れた記憶を辿ると、確か十本くらいビールを空けた覚えがある。

 その後、呑みが足りねえとか言って、日本酒を持ち出して……その後の記憶がない。
 この頭の痛みからして、随分呑んだようだ。

 やれやれ……水飲んで、風呂入ればマシになるだろ。

「ん?」

 寝起きなのと、アルコールがまだ残っているのとで、随分鈍い体を起こそうとするが、腹に妙な重みを感じて止まる。
 薄目を開けてみると、ちょっとビールっ腹になっている僕の腹部を枕にして眠る霊夢が。

「……一体どうしてこんな体勢に」

 っていうか、汗臭くないのだろうか。
 なんとか起こさないように気をつけて、霊夢の体を横に横たえる。

 ……はあ、昨日の妙な気持ちは、なんとか収まってくれたか。下手にあのまま駄目な方向に行ってたら、もう博麗神社に寝泊りは出来なくなるところだった。いや、僕の理性的に。

「ん……」

 と、霊夢は唸って寝返りを打つ。
 ……大丈夫、僕は平静ですよ?

 しかし、こいつもどういう身体の構造をしているんだか。昨日あれだけ呑みまくって馬鹿騒ぎしたのに、いい血色してやがる。
 目にかかった前髪をかき上げてやって、その寝顔を覗き込む。

 ……むう。唇、柔らかそうだな。……なんか、いい。

「はっ!?」

 またしても妙なことを考えそうになっていた!
 いかんな、やはり僕はどうかしているようだ。

 なにが、柔らかそうな唇だな、だ。僕はエロゲーの主人公じゃないんだぞ……自重しろ。
 大体、寝込みを襲うなんて最低だろう。

「……寝込みじゃなかったら、いいわけでもないけど」

 誰ともなく言い訳をして立ち上がる。

 とりあえず、風呂だ。汗を流してしまえば、こんな気持ちも綺麗さっぱりなくなるに違いない。

「……良也さん〜?」
「あ、霊夢、起きたか」

 今まさに部屋を出ようとしたところで、霊夢が寝ぼけ眼を擦りながら起き上がっていた。

「ふあ……昨日はちょっと呑みすぎたかしら」
「僕は最初からそう言っていた」
「まあいいわ。お風呂、先に入るの?」

 ああ、と頷いて、僕は部屋を出る。

 ……まさか、さっきの独り言、聞かれてやしないだろうな、と内心ビクビクしながら。




















 ―――――――で、事件が起きた。と、言うより、起こしてしまった。
 今思えば、ここまでが全て前振り。『ただの友人』だった霊夢を『女の子』として誤認(強調)しつつあった僕は、ここでとっとと外に帰るべきだったのかもしれない。

 ……まあ、いいけどね。今更。




















「はあ」

 なんだか色々あった気がしたがとりあえず縁側でお茶を飲むと落ち着く。

 酔いはとっくに覚めており、茶が美味い。
 隣には、お茶とお茶菓子を乗せたお盆を挟んで霊夢が。いつもの位置。だから全然気にならない。多分。

「良也さんのお茶の腕前も随分上がったわね……」
「お前が褒めるのも珍しいな……」
「褒めてないわよ。まだまだこれから。八十点ってトコロね」

 随分いい点数だ。
 自分で淹れても『今日は九十点ね……』と、僕からすれば非の打ち所のない淹れ方をしてて言うのだけれども。

 まあ、確かにあれが九十なら、僕のこれは八十がいいところだろう。むしろ、オマケしてもらっていると思ったほうが良いかもしれない。

「ふふ、僕がお前を抜き去る日も近いな」
「近くないわよ。むしろ、私が先に逝っちゃうまでに追いつければ良い方じゃない?」

 その、自分が負けるとも思っていない物言いに、ちょっとカチンとくる。

「ふっ、焦ってるのか? まあいい。もう一度淹れてきてやる」

 はっきり言って、霊夢の言うとおり、追いつける自信などまるでないのだけれども。言われっぱなしも癪だ。

「む、いいわよ。私が淹れて、差を思い知らせてあげる」
「いやいや、ここは僕が」
「順番でしょ、順番」

 んな順番、守られた覚えがない。霊夢の番は、僕が来ているときは八割くらいスキップされるというのに。
 こんなときだけ……と、思って、強引に急須を奪いにいく。

「あ、こらっ」

 同じく、霊夢も急須に手を伸ばす。
 僕の手の上に、霊夢の小さな手が置かれる。

 ……昨日と同じく、少しだけドキっとした。

「こら、良也さん。急須から手を離しなさい」

 でも、当の霊夢はまったく意識していない。悔しいというか、なんというか……一応、僕は年上だというのに。

「良也さんってば」

 ……しかし、あんな弾幕戦をしているとは到底思えないくらい小さな手だな。柔らかいし。

 などと、思っていたら、いつの間にか僕は急須から手を離し、霊夢の手を直に握っていた。

「? なにを」

 今朝方、一瞬目を奪われた唇が視界に入る。

 ……いけない、と思う暇もなく、僕は霊夢の手を引き寄せ、

「って」

 こっちに傾いてきた霊夢の顔を押さえ、その唇を奪っていた。

「んぅ」

 ……恥ずかしながら、初めてである。
 触れ合った唇は、想像していたよりずっと柔らかくて。……まあ、レモンの味とはいかなかったが、さっきまで食べていた饅頭の餡子の味が微かにした。

 全然ムードがない味だなあ……などとしばし感慨にふける。
 薄目を開けてみると、今までないほど近付いた霊夢の顔。改めてみると、こいつ妖怪なんじゃないかというほど整っている。

 霊夢は、割と美少女だったんだなあ、と初めて会った頃に思ったことを、再認識した。

 しばらくの沈黙。抵抗されないことに調子に乗って、舌を伸ばそうとしたあたりで自分のやっていることに唐突に気が付いた。

「――――!?!!!!?!?」

 霊夢を自分から引き剥がし、目を白黒させる。

 ふう、とため息をつく霊夢が、妙に落ち着いているようなのが悔しかった。

「あのね、良也さん?」
「ぎゃ、」

 なにかを言われる前に、すぐに空を飛ぶ。
 脇目も振らず、立ち止まらず全速力で逃げる。

「ぎゃああああーーーーーーっっ!!」

 叫んで、ぎゅっと目を瞑る。

 ……後ろで『逆じゃない?』と、霊夢が呆れたように呟くのが聞こえた気がした。



























「それで逃げてきたのか?」

 数十分後。

 どこに飛んだのか自分でもわからないうちに魔法の森に辿り着いた僕は、我ながら憔悴した感じで丁度近くにあった魔理沙の自宅を訪れていた。

 一人だけで頭を抱えて転がり回りたい気分であったが、自業自得な上逃げ出した自分が出来ることでもない。
 博麗神社に帰るわけにもいかず、このもやもやした気持ちを誰かに話したかったというのもあり、霊夢の一番の友人で、意外と義理堅くいい奴な魔理沙に相談したわけだ。

「……ああ。まあ」
「最低じゃないか?」

 はい、わかっています。という意志を込めて項垂れるように首を縦に振る。

「ったく。意気地がないとは思っていたけど、ここまでとは思わなかったぜ」
「……今だけは甘んじて受ける」
「まあ、とっとと帰って頭を下げるんだな。それ以外、アドバイスのしようもない」

 ……今あいつと顔を合わせると、顔から火が出るじゃ済まない気がする。
 しばらく落ち着かせてくれ、と蚊の鳴くような声で懇願すると、仕方がないなと魔理沙は了承してくれた。

 珈琲まで淹れてもらってそれをちびちび飲みながら、ぐるぐると混乱している頭を静めようと努力する。

「はあ……。大体、なんで今更なんだ? 襲う気が今まで少しでもあったなら、もっと早くに実行していそうなもんだが」
「自分でも、なんであんな行動に出たのかわからん」

 わかるのは、昨日から妙に僕が霊夢を意識していたこと。一つ一つなら大したことのないきっかけのようなものが積み重なって、ああなってしまったんだろう。

 そして、今僕は、霊夢をただの友人とは思えなくなってしまっている。昨日まであいつとどういう風に付き合っていたっけ?

「なんかあったのか?」
「色々。……ちょっと手が触れ合っちゃったり、服が乱れてるのを目撃しちゃったり。……あと、昨日酒盛りしてたら、ちょっとだけ変な風に話が行ったけど」

 割と真摯に相談に乗ってくる魔理沙に、昨日の出来事を話す。

「つまり助平心で、霊夢をそういう目で見るようになっちゃったと?」
「……うーん、なんか違う気がする」

 そりゃ、僕も男だから、気にならないわけではない。しかし、そういう意味だと弾幕ごっこの後は、負け側は大抵服が破れてたりするわけで……それを僕は何度も見たことがあるわけで。

 昨日の出来事くらいで僕の鋼鉄の理性に罅割れが入るとは思えないんだけどなあ。

「まあ、そうだな。大体、お前がそういう目的で行動を移すとしたら、まずは咲夜か鈴仙辺りだろ」
「お前……意外とよく見ているなあ」

 メイドにウサミミ。どっちも好きだしね僕。どっちもそんなこと考えただけで殺されそうな危険人物ではあるが。

「んじゃ、結論は一つだろ。お前、意外と霊夢にマジで惚れているんじゃないか?」
「は?」

 いやいやいやいやいや。それはない。突然、何を言い出すかな、魔理沙は。

 僕が霊夢に? ありえない。まだ下心オンリーと言ったほうが全然説得力がある。
 なにせ霊夢は――いや、特に嫌う理由もないけど、ないんだってば! 絶対っ!

「そ、そんなことはないっ!」
「良也。でも、このままってわけにもいかないだろ。謝るにしろ、告るにしても、早いところ帰ったほうが良いんじゃないか?」
「そうだけどさあ」

 魔理沙は現実的な提案をしてくれるが、どうも二の足を踏んでしまう。

 なにせ接吻だ。あの霊夢でも、怒っているのではないか。
 いや、怒っててボコボコにされるだけならまだいい。っていうか、怒っているのは間違いないにして……嫌われてやしないだろうか。

 なんてことを気にする時点で意識しているのはモロバレではあるのだが。

 でもなあ、そんなん本当に今更だよなあ。

 っていうか、我ながら霊夢のことどう思ってんだろ?
 初めて会ったときは、今じゃ珍しいリアル巫女で、ちょっと可愛いと思った。すぐにそれは、友人というか、妹というか、そんな感じに変わった。
 んで、幻想郷に来始めてからは一つ屋根の下で、男女のくせにどーとも思わず過ごして……で、昨日なんか変わった。

 忘れていたこと。あいつが女だってこと、久しぶりに思い出しただけで、まあ見事に変わった。

「あああ゛〜〜〜!?」
「……ウザいなあ。悩むくらいなら帰ればいいだろうに」
「すまないけど、もう少し悩ませてくれ!」

 まだ僕の中で整理は付いていないんだ!

「悩んだって解決する問題か? まあ、私も男女のことはわからんが、ここにいちゃいけないってくらいはわかるぜ」
「そんなん、僕だってわかってる」

 ギャルゲをプレイしまくった青春を送った僕を舐めるなよ。
 でもなあ、自分がリアルで体験したら、そんな経験は糞の役ほどにも立たない。……いや、当たり前だけどね。

「わかっているなら、とっとと行け」
「ま、待て。あと三十分待て。霊夢もまだ、冷静じゃないと思うし」
「あいつが、お前に接吻されたくらいで取り乱すか?」

 いや、取り乱すだろう普通。なにせ、顔見知りとは言え、恋人とかそういうのからは百億光年は離れた男からいきなりだぞ。
 ……ん? でも、全然慌ててなかったよな。多分、混乱しすぎてリアクションが薄かったとか、そーゆーのだと思うが。

 でも、あいつ普通じゃないしなあ……もしかしたら、キスとかに特別な意識なんてなく、単に口と口がくっついただけ、という認識かもしれない。

「そ、それならまだ大丈夫かも――!」
「なにに希望を見出しているのかは知らんが……。さっきのは冗談だ。まあ、霊夢の奴も、あれでなかなか乙女なところもあるからな。傷つけないように頼むぜ」
「……ですよね」

 ああ、そうだよ。別に、そんなこと期待はしていなかったよ。こっちに来る間だけとは言え、一緒に暮らしてんだし、霊夢のことは魔理沙ほどじゃないけど知っている。

「で? そろそろ行くのか?」
「……もう少しウジウジしていってもいいか?」
「あー、もう」

 魔理沙に、首根っこを引っつかまれた。な、なに?

「ま、魔理沙?」
「いい加減にしろ。無理矢理引っ張っていくぜ」

 と、箒に跨る魔理沙。……ま、まさか――!?

「ま、待て魔理沙! まだ僕は落ち着いていな……」
「行くぜっ!」
「いって言っているのにぃぃぃぃーーー!」
















 キィィーー! と風を切る音が耳を撫でていく。
 魔法で、高速移動のときの風圧を誤魔化しているらしいのだけど、それでも魔理沙のスピードだと相当の負荷がかかる。

 でも、その速度は圧倒的だ。博麗神社に着くまでに僕が悩む時間なんて、ない。

「ほいっ! 蓬莱人一人お届けだぜっ」

 魔理沙はブレーキをかけ、その勢いのまま僕を放り出し……格好良く去っていく。
 ……なんだ、あのギャルゲの親友ポジな女は。

 てん、てんてん、と僕は博麗神社の境内に放り出され、

「てて……」
「あら、おかえりなさい、良也さん」

 そんな、いつもの声に出迎えられた。

「た、だいま」
「もう。なにいきなり逃げ出しているのよ。お昼御飯、自分で作る羽目になったじゃない」

 ……嫌になるくらい普通だ。これなら、まだ弾幕で出迎えられた方がやりやすかった。

「なあ、霊夢……。その、悪かった」
「なにを謝っているんだか」

 呆れて、霊夢はため息をつく。

 そうだよなあ……謝るくらいなら、やらなきゃよかったのに。どうして僕はあんな行動に出てしまったんだろう。

「別に、良也さんのせいだけじゃないから、気にしなくても良いわよ」
「……は?」

 霊夢の意外な言葉に、間抜けな声が出てしまう。
 いや、あれは間違いなく、僕のせいで間違いはないと思うんだけど。

「あの時ね、躱そうと思えば、十分躱せたわ。良也さんを吹き飛ばしても良かったわけだし」
「……いや、吹き飛ばすのは良くないと思うけどな」
「でも、別にいいか、って思っちゃったんだから。だから、別に良也さんは気にすることはないの」

 思っちゃったんだからって、そんな簡単に。
 ま、まさか霊夢も僕のことを……? と、容易に勘違いできる状況ではあるけど、でも恥じらいとかは全然見て取れない。

 な、なにを考えているかわからん。

「え、えっと? つまり、どういうこと?」
「どういうことにして欲しい? 私は別に、どういうことでもいいわよ。……なかったことにする?」

 な、なかったことにしてもいいの!?

 よ、よし、それじゃあ、なかったことに……

「……ぁ」

 してくれ、と言おうとしたんだけれども、どうも言葉が出てこない。まるで声帯が麻痺してしまったように。
 ……勿論、現実にはそんなことはない。単に、僕がどういう言葉を発したらいいか、混乱しているだけ。

 ホワイ? もしかして僕は、なかったことにしたくないとでも言うのか。
 いやいや、でも霊夢とは良き友人のまま過ごしたい。それには、今日の出来事は邪魔にしかならないわけで……

「どうするの?」

 こちらを射抜くように見つめて問いかけてくる霊夢は、悔しくなるくらいいつもどおりで。

 僕はますますどう答えたらいいのか、悩む羽目になった。

 ……大体、どういうことでもいいってなにさ。僕のことどうでもいいのか、そうじゃないのか、はっきりして欲しい。
 嫌われてはいないと思うんだけど、霊夢って割とここら辺どうでもよさそうだし。

 ああ〜、悩む。

「……ちなみに、霊夢はどんなのが希望?」
「私に言わせるの? 情けない人ねえ」

 うっさい。

「そうね。別に、本当にどれでもいいんだけれど」

 うーんと、と霊夢は少しだけ悩むそぶりを見せて、言った。

「でも、美味しいものが食べたり呑んだりできなくなるのは困るわね。だから、とりあえずここに通うのは止めないで欲しいわ」

 ほんの少しだけ、背中を押された気がした。
 もしかして、全部見抜かれているんじゃないかなあ、と情けない気持ちになる。

 そもそも、答えは保留してもう少し冷静になってから考えたほうがいいんじゃないか、と僕の中の弱虫な部分が叫ぶが、そもそもこんなのは勢いと直感が重要なんだ。

 それに、嫌ではない。それだけは確信を持って言える。

「それじゃあさ」

 そして、僕は、その言葉を霊夢に贈った。

 ――ほんの少しだけ、嬉しそうに見えたのは、気のせいじゃないと信じている。


























 ……なんてことがあって、もう一ヶ月。

 僕と霊夢の関係に目立った変化は見当たらない。
 相変わらず、僕は週に一回か二回くらい幻想郷に通い、お菓子を売り捌き、博麗神社でお茶を飲んでいる。

 微かな変化は、と言うと、縁側で並んでお茶を飲む僕と霊夢の間にお盆がなくなり、ほんの少しだけ距離が近付いたことか。
 たまに触れ合う腕にドキドキするという付き合いたての中学生のようなイベントをこなしたり。

 ……まあでも、やっぱり落ち着くことに変わりはないんだけどね。

「良也さんと懇ろになってもう一ヶ月、か」
「改めて言うな。恥ずかしい」
「初心ねえ。良也さん、もう二十歳をとっくに過ぎているんだから、もう少しデンと構えたら?」
「やかましい。二十歳は過ぎていない。僕は永遠の二十歳だ」

 いや、本当に。

「……便利な体質ね」
「僕も思った」

 でもなあ、誰かと付き合うなんて今までなかったんだから、勘弁して欲しい。
 キスだって、一回目の僕が我を忘れてやったのと、告白直後に霊夢からされたのっきりだし。……あん時はビックリしたけど『お返しね』と言われたら文句など言えるはずがない。

 あれからは、なんとなくそんな空気にならなくて、僕と霊夢はほぼいつもどおり過ごしている。

「それにしたって、もう一ヶ月。いい加減に慣れたらどう?」
「うーん、別に、付き合い始めたからなにをどう変えるってわけでもないだろう」

 僕はこのままでもじゅーぶん幸せだが。

「……変わらないって、言い切ったわね、また」
「いやまあ。でも、前よりは霊夢にドキドキしているのは、変化といえば変化だ」

 我ながら、こいつにそういう気持ちになるのは、違和感バリバリなのだが、してしまうのは仕方がない。
 やれやれ……

「……まだるっこしいわね」
「はい?」
「良也さん。閨の準備をしてきなさい。私は水浴びしてくるから」

 ……え?

 閨? 水浴び? 霊夢はなにを言っているのでしょう。わかるけどわかりたくないぞー。

「もういい加減、はっきりさせときたいのよ。ってことで、さっさと準備、お願いね」
「いや、待て!」

 待て待て待て。

 それってつまりー、その。

「なによ。こういうのはさっさとやったほうがいいじゃない」
「いや、だからっ! 僕はまだそんな気はねぇ!」

 だって、霊夢ってばまだ子供っぽいところが残ってるし!

「……そういえば、紫が言っていたわね。いやよいやよもなんとやら、って」
「あのスキマぁ!」

 なにを教えてやがるんだ!?
 勿論興味深々だし、したいと思っていることは事実ではありますけどねっ!

 でも、霊夢とそういうってのは、まだ僕の心の準備が整っていない! なんてーのか、まだ『こいつと付き合うって正気か僕?』なんて自問自答することがあるというのにっ。

「れ、霊夢! 僕は帰る! また今度土産持って来るから!」
「あ、ちょっと」

 止める霊夢を振り切って飛ぶ。
 振り向いたら、そのままズルズル流されそうだったから。しかも、嬉々として。

 『逆じゃない?』と、いつかと同じ台詞が後ろから聞こえたが、僕は無視をした。













 まあ、そんな風に色々あったけど。
 今は楽しいから、いいとしている。



戻る?