「ほい、マスター。これ、私からの愛情よー」
と、朝っぱらからシルフィが戯けた事を言って、ぽいっとこちらにピンク色の包みを放り投げてくる。
「……なにこれ?」
「なにって、チョコレート」
はて、なぜチョコレート、と考えて、ふと思い出した。
そう言えば、今日は二月十四日。俗に言う、バレンタインデー。
菓子業界の陰謀か知らないが、この国では、この日に親しい人や想い人にチョコレートを贈る風習が根付いている。
「ああ、あんがと」
「これで、最低一個は確保できたわねー。ウシシ、自慢してもいーわよ?」
「……やめとく」
別に、僕にそこまでの自己顕示欲はない。包みから箱を取り出し、中のチョコレートを一つ口に運ぶ。
……手作り。意外だ。
と、ほのかな幸せを僕はかみ締める。
……この時は、思っても見なかった。今日という日が、あんなタチの悪い日になるなんて。
第181話「バレンタインの悪夢」
「な、なんだ……?」
シルフィのチョコレートを食べつつ、登校してきたライルは、教室内で倒れている二人を見つけて慌てて駆け寄った。
「ど、どうしたの、アレン、クリス!?」
遠巻きに気まずそうに見守るクラスメイトが気になったが、友人二人の安全の方が先だ。
なにやら、二人の顔色は土気色に染まり、死相が現れている。恐る恐る心臓の鼓動音を確認。……一応、脈はあった。
「ああ、ライル、おはよう」
「おはよう、ってルナ。今はこの二人が……」
「ああ、大丈夫よ。少し疲れているだけでしょ」
この惨状を疲れているだけと表現するルナにビビりつつ、ライルははたと嫌な予感に包まれた。
倒れている二人に外傷はない。だが、クリスはともかくとして、アレンが怪我もなく昏倒するとはどうしても思えない。年がら年中元気すぎるほどに元気なアレンをここまでダウンさせるウイルスなど、とんと聞いた事もない。
だが、唯一例外が存在している。
「あ、そうだ、ライル。これ」
ルナが鞄から一つの包みを差し出す。
なにやら、朝にも見たような光景。決定的に違うのは、その包みの中から瘴気が漂っていることだ。恐ろしいことに、この前行った魔界のそれよりずっと禍々しい。
「る、ルナ。な、なにかな、それは……?」
「なにって、チョコよ、チョコレート。バレンタインデーでしょうが、今日は」
はい、と渡そうとするルナだが、ライルは頑なに拒む。引き攣った笑みで、恐る恐る尋ねた。
「その、去年までは、既製品をくれてたと……思う、んだけ、ど?」
「あら。手作りだってよくわかったわね」
わからないはずがないのだが、ルナはどうも自分の料理について鈍感なところがある。
だが、そのような瘴気のみならず、腐臭……のような不快な匂いを漂わせていれば、すぐにそうと知れた。
「まぁ、ちょっと気が向いてね。作ってみた。お菓子は始めて作ったから、ちょっと手間取ったけどね」
ちょっと手間取ったのか。ソレはつまり、よりルナの手が多く入っているという事で……
「念のために聞くけど……アレンとクリスにも、あげたよね?」
「そうよ」
「食べたの?」
「食べさせたわよ」
一体どのような手段を用いてあの凶器の物体を二人の口に入れたのは定かではないが、間違いない。
このままここにいれば、あの口に出すのもおぞましい食べ物と称するものを食べなければいけない。
「い、いやぁ。実は、朝シルフィから貰っちゃって、あんまり食べる気しないかなぁ、な〜んて」
言い訳の材料を提供してくれたシルフィに感謝しつつ、ライルはそう言って逃れようとする。
「そう? じゃあ、これはまた後で……」
「そうは……」
「いかないよ」
と、そこで倒れていた二人がゾンビのように起き上がった。
「あ、アレン? クリス? 二人とも、大丈夫なの?」
「そんなことはどうでもいい」
「ライル……君、今一人だけ逃げようとしたね?」
なにやら殺気を漂わせている二人に、思わずライルは一歩引いてしまった。
「な、なにを……」
「せっかく女が作ってくれたんだ。食べないと、男がすたるよなぁ? ライルぅ?」
「そうだね……ルナ。きっとライルは照れているだけだから、ちゃんと食べさせてあげようよ」
「そうね」
一瞬で意見を翻すルナ。
にやり、と笑うクリスに、ライルはコノヤロウと殺意を抱いた。
「な、なに言ってんだよ……クリス。適当なことは……」
「うん。ごめんね、ライル。僕たちは、こう思ってるんだ」
まだ顔色が悪いくせに、やけに爽やかな笑顔を浮かべつつ、クリスははっきりと言い放った。
「僕たちより不幸になって」
「おおおおおぉぉーーーーーいいいいぃぃぃーーー!?」
随分と理性がぶっ飛んでいる台詞を吐くクリス。アレンも、訳知り顔でうんうん頷いている。
ヤベェ、とライルは危機感を抱いた。どうやら、この二人は暗黒面にとらわれてしまっているらしい。ルナはルナで、ウキウキとチョコレート(仮名)を取り出して『さぁ食べなさいよ』などと極上の笑顔で死を囁いている。
「う……」
『さぁ!』
三人がハモる。
いたたまれなくなったライルは、どうすりゃいいんだよ、と頭を抱えた。
「う、うわあああああああああああ!!!」
とうとう絶叫して、硝子を割って窓から飛び出した。ここは四階。地上までかなりの距離がある。
(なに? マスター。自殺願望でもあるの?)
「あそこにいるほうが自殺行為だ!」
落下中、軽口を叩いてくるシルフィを叱り飛ばし、高速で接近してくる地面に手を向ける。
「風よ!」
瞬間、ライルの身体を押し上げる上昇気流が発生する。最近、使うことも少なくて忘れがちだが、意外とこういう小技が得意なのだ、ライルは。
地面に衝突寸前、落下速度はほぼゼロになり、安全無事に着陸する。そのままクラウチングスタートの体勢に移行。一秒の遅滞もなく、そのままロケットスタートを敢行した。
(マスター、どこ行くの?)
「逃げる! 最速で! とりあえず今日中は! 力を貸してお願いプリーズ!」
(なっさけな……)
呆れつつ、シルフィは自分の力を持ってライルに追い風を与える。
風精霊の力により、更なる加速を得たライルの身体は、常人には殆ど見えないくらいのスピードで以ってヴァルハラ学園から離れていった。
「チィッ!? 追いかけるよアレン!」
「合点!」
素早い逃走にも動揺することなく、クリスが追撃をかける。ライルと同じように窓から飛び出し、着地。
「ルナッ! ちょっと待ってて! ライルの首に縄つけて連れて帰ってくるから!」
「いや、あのさあんたたち……」
ルナの声も完全無視して、アレンとクリスは駆けていく。
あまりの展開に、流石のルナも呆然としてしまった。
「……なんなのよ、一体」
クラスメイトたちは、ルナのその疑問に、級友の友情で以って尊い沈黙を保った。みんなとばっちりは受けたくないのだ。
「みんな、おはよう。おや、ルナさん、どうかしましたか腑に落ちない顔をして」
「……いや、アンタが登場したことが腑に落ちないんだけど」
「はっはっは、これは手厳しい。確かにめっきり影は薄くなってしまいましたが、これでも元々はメインキャラ予定だったのですよ?」
いきなり登場してメタな事を言うのは、グレイ・ハルフォード。
知らない人に説明しておくと、ルナに惚れている貴ぞ以下略。
「へぇ。そーだったの?」
「らしいですよ?」
まったく会話についていけないクラスメイトたちを尻目に、グレイは優雅な仕草でルナに近付いていく。
「ときに今日はバレンタインデーですね。下駄箱を見てみると、チョコレートで溢れ返っていて大変でしたよ。おお、ルナさんも私に用意してくれたのですね? しからば失礼して頂きます。ぱくっ……きゅぅ」
ルナが反論すらできないほどの早業でライル用のチョコレートに手を伸ばしたグレイは、登場してから一分足らずで速攻倒れこんだ。
クラスのみんなは、無茶しやがって、と偉そうながらも憎めない三枚目貴族に黙祷を捧げる。
「そういえば、ライルの奴、もう逃げる必要ないんじゃないのか?」
男子の一人が、ふと呟く。
元凶たるチョコレートは、既にグレイの尊い犠牲によりなくなった。しかし、ライルにそれを伝える術は残念ながら、ない。
「ふっふっふ! 容易い! 誰も僕のスピードについてはこれない!」
(ビビッてるのはわかるけど、何時になく妙なテンションね……)
あわや音の壁を突き破るのではないかというくらいのスピードでヴァルハラ学園から逃走したライルは、とある公園内で潜伏していた。
とりあえず、今日は学校はサボり……もとい、身の安全の確保のため専守防衛という名の自主休校。今日が終われば、バレンタインデーという悪夢の日は終わる。ええい、一体どこのどいつだ。バレンタインデーにチョコレートを贈るなどという風習を作った奴は。俺の前に出て来い、そしてこの拳で折檻してやる。
などと、いささかならずぶっ飛んだ思考が絶賛空回り中。
はっきり言うが、朝っぱらから公園で体育すわりをしてそんなことをぶつぶつ呟いている様は、不審者以外の何者でもない。
「見つけたァ!」
「もう逃がさないよ、ライル!」
「アレン!? クリス!? もうこんなところに!」
慌ててライルは飛び起きた。
「どうしてここがわかったのさ!?」
「勘だ!」
「勘だね!」
まだルナのチョコのせいで顔色が悪いくせに、やたら元気な二人であった。もしや、あのチョコの含まれるルナ成分(仮名)のせいで、彼女の特殊能力ライルレーダーが乗り移ったのかもしれない。
「ね、ねぇ。二人とも止めようよ。そんな、親友を悪魔に売り渡すような真似」
じりじりと間合いを詰めてくる二人を牽制しながら、ライルは情に訴える作戦に出た。
「親友なら、苦楽は共にしないとなぁ?」
「人間、時には自分の味わった苦しみを、他人にも味わわせてやりたいときだってあるんだよ?」
外道である。だがしかし、ライルには彼らを攻める権利はない。仮に立場が逆だったとしたら、多分彼もそうした。
「クッ、言いたいことはわかるけど、僕は嫌だっ! というわけでさらばっ!」
なんか変なスイッチがキマってる二人と争うのは得策ではないと判断したライルは、反転して逃げを打つ。
先程と同じように風精霊魔法で極限まで加速したスピードならば、あの二人に追いつかれない自信はある。実際、それは正しい。だが、
「ぶべっ!?」
公園から出ようとした瞬間、なにか見えない壁にぶつかる。
「えっ!? なに、ナニコレ!?」
「悪いけどライル。公園に入る前に結界を張らせてもらったよ。僕の許可なく、ライルはこの公園から出ることはできない」
結界の構成は頑強で、ライルの知識では解除することは不可能に近かった。だが、力技でなら……と思ったところで後ろからアレンが襲い掛かってくる。
「悪いがライル! 俺の精神の安らぎのために、ちょこっとチョコを食ってくれ!」
「ジョークは凄く寒いけど、本気だね!? ってか、真剣を持ち出してくるなぁあああああああああああ!!!」
あまりに鋭い剣閃に、防戦を余儀なくされる。
結局、この日一日、三人は醜い争いをして、結果ライルはボロボロになったとかなんとか。