「ふっ、朝日が眩しいわ」
文化祭が明けた一週間後のある朝。
精霊界で、徹夜の仕事をこなしてきたシルフィは、人間界に帰ってくるなり、そんな呟きを漏らした。
「いきなりなに言ってんだ?」
着替え中だったライルが、いきなり現れたそんなことを抜かしたシルフィに突っ込みを入れる。
「あ〜! それが、仕事をこなして疲れて帰ってきた従者に言う台詞!?」
「お前が従者って言うのも、激しく違和感を感じるんだが……」
ライルはこれから学園である。口煩い精霊に付き合って、遅刻するわけにはいかない。
適当に切り上げようとする気満々のライルを見て、シルフィはうがー、と両手を天に向けて上げた。
「なんかさー、もっとこう、労いの言葉とかかけることは出来ないの、マスターはっ!?」
「うわー、シルフィお疲れサマー」
「心がこもってなーーーい!!」
付き合ってられんとばかりに、ライルは手を振って、パジャマのズボンを脱ぐ。
一応、女性であるシルフィがいてもお構いなしだ。この辺、この二人の付き合いの長さが見て取れる。
「あー、そう言えばシルフィ。一応、お前の分の朝ごはんも作っといたんだが……」
皆まで言う前に、シルフィは台所に消えていた。
やれやれ、とライルは肩をすくめて、着替えを再開するのだった。
第162話「シルフィデビュー 前編」
「んぐ、んぐ……マスターの料理の腕も、随分上がったわねー」
口の端に付いたマヨネーズを舐め取りながら、シルフィは感想を漏らす。
本日のメニューはサンドイッチ。平凡なメニューではあるが、その分料理人の腕が光る。
特に目新しい具材を使っているわけではなかったが、どれもクオリティは高かった。恐らく、ヴァルハラ学園に入る前までのライルでは、作ることが出来ないレベルだろう。
「まぁた、マスターも無駄なところばっかり鍛えてんだから」
食後のオレンジジュースを飲みながら、シルフィは一人ごちる。
「なんか言ったか?」
すると、まるでそれが聞こえたかのように、準備を整えたライルが現れた。
「別にー。マスター、これから出かけるとこ?」
「ああ。今日は週番だから。……ルナと」
「ご苦労さんねぇ。またルナと?」
つい先日も、ルナにぶっ飛ばされたばかりだというのに。
有名な雑誌に、例のMMSのことが載ったのはいいのだが、同時にその記事のお陰でルナは『ダイナマイト・ガール』などというありがたくもない称号を得てしまった。そのきっかけとなったライルは、それはもう見るも無残な姿になったのだ。
「いや、まぁ偶然だし。前の件も、ルナはもうケロリと忘れてるし」
で、また次の怒りの種を見つけるわけよね? という台詞を、シルフィはそっと心の中にしまった。
どうせ言っても仕方のないことであるし、安心しているマスターを絶望の底に叩き込む趣味は、シルフィにはない。こういうときは、身構えさせず、遠くからじっと成り行きを見守るのが通なのだ。
「ふーん。ま、いってらっさい」
オレンジジュースを飲みながら、足をヒラヒラ振って見送る。
ぞんざいな扱いに、ライルは顔を顰めて、一言、
「……パンツ見えてるぞ」
「ぶっ!」
オレンジジュースを噴き出すシルフィをしてやったりという表情で見て、ライルは出かけていった。
「にゃろ。スケベになっちゃって……感慨深いもんがあるわねー。あのガキんちょが……」
何気なくスカートの裾を直しながら、シルフィは頬についたジュースを拭った。遠い目は、昔、ライルと出会った頃を思い出しているのだろうか。
ちなみに、ライル当人からすれば、シルフィの下着なんぞが見えても、シルフィがライルの裸見てもどうとも思わないように、まったく気にならないのだが、その辺は綺麗に無視しているらしい。
「さて、と。今日はどうしようかなー、っと」
手を後頭部にやり、空中で寝そべって、シルフィは考える。
昨日徹夜だったから寝てもいいのだが、昼間に寝るのはシルフィのポリシーに反する。そもそも、精霊に睡眠は必要ではない。……寝起きは悪いが。
「テキトーにぶらつくかぁ……それもなぁ」
いつも通りの行動にしっくりこず、シルフィは、ん〜、と唸った。
「暇ねー」
話す人間がいないと、いつも暇だ。シルフィが日常的に話す人間なんて仲間の精霊を除けば、ライルか、彼の友人たちくらいしかいないが、昼間は彼らは授業を受けている。散歩をするのは好きではあるが、時々気分の乗らないこともあった。
今日が、丁度そんな気分だ。
徹夜明けのお陰でハイな気分になったのだろうか。なんとなく、高揚して、散歩なんていうのんびりした趣味に興じる気が起きない。
むしろ、こう、アグレッシブに。賑やかな方面での娯楽が欲しい。
「私も、ソフィアみたく学校に通ってみようかな」
言うだけならタダなので、数百年くらい前ヴァルハラ学園に通った経験を持つ同僚を思い浮かべて、そんなことを言ってみる。
無論、シルフィには無理だ。
人が苦手だというのは、ほぼ全ての精霊に当てはまる。人間が――例えは悪いが――ゴキブリなどを生理的に嫌うようなものだ。理由などはない。精霊と契約する素養を持つごく一部の人間とその近くの者を除いて、精霊が人と親しくすることはまずないと言っていい。
シルフィとて、例外ではない。
人に見られていると思うと、こう背筋がゾゾッとくるのだ。
「ん、でも直接顔を合わせなければ……オモシロイことに」
きゅぴーん、と閃くものがあった。
くふふふふふふ……と意地の悪い笑みを浮かべ、シルフィはいそいそと精霊界への門を開くのだった。
「……なぜ俺がこんなところに?」
校庭にやって来たシルフィの隣に立つ男が、首を傾げて自問する。特に感情は篭っておらず、純粋に疑問に思っている感じだ。
「まぁまぁ、細かいことは気にしない」
「精霊王が現世に降り立つことは、細かいことではないと思うぞ」
黒の長髪。黒曜石のような瞳。漆黒のローブ。と、全身を黒で固めたその美丈夫は、シルフィの同僚にして闇の精霊王、カオスであった。今までライルたちと出会った連中と違って、威厳だけは溢れている。が、無論その姿が誰か他の人間に見咎められることはない。余程、精霊に対しての親和性が高くないと、見ることは叶わないだろう。
「別にいいじゃない〜。今日は仕事もないんだし」
「……ないからこそ、今日はゆっくり過ごす予定だったのだが」
「たまには私の遊びに付き合ってくれてもいいじゃない」
心底嬉しそうに語るシルフィに、カオスははぁ、とそうとは知れぬ程度にため息をついた。
「お前のマスターに同情するよ」
「なんで? こんなに激プリチーな精霊が契約してあげて、しかも今から遊んであげようとしているのに」
「お前が、そんなだからだ」
突っ込み厳しいわねー、とまったくこたえた様子のないシルフィは、さぁ、とカオスを促した。
「カオスさん、よろしくー」
「わかっている」
カオスは、シルフィの影に手を翳すと、短い呪文を唱えた。
すると、平面であった影が、徐々に盛り上がってきて、やがて完全な立体へと変貌を遂げる。ほぼ、人間モードのシルフィと同程度の身長に成長したその影は、段々と色が付いてきて、すぐにシルフィ本人とそっくりになった。
「おー、すごいわねー。そっくし」
「お前から写し取った影だから当然だ」
「もう動かせんの?」
「ああ。知ってのとおり、“それ”は術者と似た形をした使い魔のようなものだ。お前の意志どおりに動く」
ふむ、と顎に手を当てたシルフィは、おもむろに手を動かす。
すると、影から実体化した“それ”も同じように動いた。
これは、影を媒介にした闇の精霊魔法の一種で『影人形』という。闇の精霊たちが、被術者の影に宿り、その姿を写し取って実体化するというものだ。ちなみに、本来の用途は戦闘における囮である。
「声はどうするつもりだ?」
「ふっふん。声なんて、空気の振動。風の精霊の分野よ。んなもん、お茶の子さいさいだっつーの」
「……そうか。それはそうだな」
試しに、シルフィが口を開いて声を出すと、その声は人形の方の口から発せられた。
「よっしゃ、これで完璧。行けッ、私二号!」
シルフィが命じると、二号はすたすたと学園に向かって歩いていく。
これからの混乱に思いを馳せて、シルフィは嬉しそうに笑った。
「面白いわー、これはきっと面白いに違いないわー」
「シルフィのマスター。すまん。俺は俺で、色々しがらみがあるのだ」
カオスは一人目を瞑り、見知らぬ男の冥福を祈った。
それは、一時間目終了後の休み時間に起こった。
「やっほー、マス……じゃなかった、ライルー! 来ちゃったー!」
しーん、と教室の中が静まり返る。見知らぬ少女の登場に、クラスのみんなは揃って固まっていた。
ライルたち四人は、また別の意味で固まっていたが。
『おい、誰だあれ?』
『ライルくんの名前を呼んでたわよね』
『つか、何年生? 中等部じゃねぇの?』
『でも、けっこう可愛くねぇ?』
こそこそと噂話を始める生徒に、その少女――シルフィ二号は計算どおりとばかりににやりと笑うと、ツカツカとライルの方に歩いていく。
「し、シルフィ? あんたなんで……」
「やっほ、ルナ。あんたも元気そうね」
「そうじゃないだろ! お前、人前には姿見せないんじゃ……な、い?」
普通に挨拶をするシルフィに、ライルが思わず突っ込みを入れる。が、その突っ込みは、段々尻すぼみになり、ライルは怪訝そうに眉を潜めた。
「あ、気付いた? この体、本体じゃないのよね。本物は、校庭」
声を小さくして、シルフィが校庭の一点を指差す。
ライルが見ると、そこには見知らぬ男と並んで立つ二人目のシルフィが、にこにこと手を振っていた。
「なぁっ!?」
「視覚だけこっちに移して動かしてんだけど、結構難しいわねー。ま、文字通り分身なんだから、すぐ慣れるだろうけど」
ライルは頭を抱え、どうしたものかと懊悩する。
「つまり、お前は人形みたいなものか?」
「そそ。まぁ、自分の体と同じような感覚で動かせるけどね」
「それで、人前に姿現しても大丈夫なのか?」
「当たり前じゃない。“これ”は私じゃないんだし」
随分とあっさりしている。どういう基準になっているんだろう、とライルは不思議に思った。
「でさぁ、マスター。どんな設定がいい?」
「設定?」
二人が声を潜めて話している間、何事か興味津々のクラスメイトたちは、なんとか話を盗み聞きしようと近付いているのだが、ライルは気付かない。
「故郷の友人? 生き別れた妹? 街で偶然出会った娘?」
「なんだ、何の話だ?」
なにやら嫌な予感を加速させつつ、ライルは問い返す。
「ん〜、どれも弱いかなぁ。もっとこう、パンチ力のある……」
悩むシルフィの視線が、ふとアレンに向かう。なにを思いついたのか、彼女はそれでにんまりと笑った。
「うん、それがいいか」
「だから、何の話を――」
「皆さーん!」
頷いたシルフィが顔を上げて、教室全部にそれはそれは魅力的な笑顔を振りまいた。どこか、嘘っぽいのが混じっているのに気が付いたのは、シルフィと付き合いのある四人だけである。
「はじめまして! 私、こちらのライル・フェザードの許婚の、シルフィリアと言います! 気軽に、シルフィって呼んでネ」
瞬間、教室内が凍りつく。
一瞬の静寂。しかし、決壊はすぐだった。
『え、えええええええええええええええ!!!?』
ちなみに、一番大きな声を出していたのはライルだったのだが、当然のようにそれに気が付いたものは誰もいなかった。