機は熟した。下校中の綾音を捕まえて、彼は話しかけた。
「どうも、はじめまして。私は……」
「あ、私の事をつけまわしていたストーカーさん」
瞬間、彼はずしゃあ! と倒れこんだ。
「なに倒れているんですか。ストーカーさん?」
「ち、ちがう! 私は断じてストーカーなどではない」
慌てて立ち上がり、乱れた服装を正す男。深呼吸を繰り返し、落ち着きを取り戻して行く。
「私の名前は、ジークという。突然ですまないが、お嬢さん、私についてきてもらえないだろうか?」
「嫌です」
「ま、まあ、こんな事言われても困ると思うが、君に危害は加えないと約束する。私に出来る範囲なら礼もしよう。だから、どうか……」
「嫌と言ったら嫌です。大体、なんですかあなたは。一体、何が目的なんですか?」
返答に困るジーク。彼の個人的な予想では、彼女はクリフの恋人だ。その恋人を倒すためです、と素直に言ったところで、ついてくるとは思えない。
「いや、その……」
「あー! その顔はなにかいやらしいことを考えている顔ですね?」
「ち、違う! 勝手な憶測で適当な事を言わないでくれ」
「じゃあ、なんなんですか?」
「だから、それはだな」
ごにょごにょと言いよどむジーク。その様子を見て、綾音はますます不審げな顔つきになる。
「なんだかよくわかりませんけど、私、帰りますね」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
慌てて、小走りで逃げようとした綾音の腕を掴む。綾音は、一瞬おびえたように身をすくませると、
「きゃ……」
か細い悲鳴を上げながら、
「うおっ!?」
自分を掴んでいるジークの右腕をとって、投げ飛ばした。真希直伝の護身術の一つである。思いっきり、頭からアスファルトの地面に叩きつけられるジークを見て、さすがの綾音も、やりすぎたかも……と、汗を流した。
「あの〜?」
「む、む〜ん……」
やばい、意識が飛んでる。どくどくと、頭から血も流れている。
こりゃやばい、と綾音は慌ててカバンから可愛いストラップのついた携帯を取り出した。
「え、えーと。こーゆー場合は110……え、119? そ、それとも、177だっけ!?」
見事なまでにパニクっている。その状態のまま、『117』をプッシュしようとした綾音の指が、何者かに押さえられる。
「ひっ! ぞ、ゾンビぃ!?」
「なにうえ!?」
なぜと聞かれても、頭部から洒落にならない量の血を流しながらものっそりと起き上がる人に対する、ごく常識的な反応だと綾音は思う。
「い、いや。こほん……。私はゾンビではなくて吸血鬼だ。そこらへん、間違いの無いように」
「は、はあ。吸血鬼?」
「そう。吸血鬼の真祖。数多ある夜の眷属のなかでも、随一の力を持つ一族だ」
そう言って、うっとりとするジーク。どうやら、自己陶酔型らしい。
「そうですか……それじゃ、私はこれで」
「待ちたまえ」
再び逃げ出そうとした綾音を、これまた再び捕まえる。反射的に、また投げ飛ばそうとした綾音だが、さっきの光景がフラッシュバックして、動きが止まる。
「私の目を見たまえ」
「え?」
一瞬、目を合わせてしまう。
ドクン、と心臓が一際大きく跳ねたかと思うと、ジークの赤い瞳に吸い込まれるような感覚が全身に襲い掛かる。頭の中は霧がかかったようにぼやけ、気がつくと、綾音は指一本、自分の意思では動かせないようになっていた。
「ふう。手こずらせてくれたな」
「…………………」
なにか言い返そうにも、口すら満足に動いてくれない。かろうじて、うめき声のようなものが出るくらいだ。意思とは無関係に足が動き、歩き出す男の後を追う。
「さてと……あいつを呼び出す算段をしなくてはな」
既にジークが何を言っているのか、聞く事は出来ても理解することができない。ぼやけた意識の中で、綾音はジークの言っていた事を思い出していた。
(吸血鬼って……本当なんですかねえ)
その思考を最後に、綾音は完全な操り人形となった。
「はっ!」
葵の蹴りを、余裕を持って捌く。葵の体が流れるのを見逃さず突きを繰り出すが、ぎりぎりのところで防がれてしまった。
(ふーん)
一旦間合いを空けながら、真希は心の中で感嘆していた。
たった数日の訓練ながら、葵の動きはそこそこさまになってきている。もともと、運動神経は悪くなかったし、無茶な訓練にも文句を言いながらもよくついてきた。並の相手なら、自分の身くらい守れることだろう。
「ま……」
攻撃に関してはまだまだだ。防御をメインに鍛えたせいもあるだろうが、防御技術に比べて攻撃があまりにお粗末だ。おかげで、攻撃後の隙を簡単につくことができる。
今も不用意な攻撃のおかげで、腕をとれてしまった。
「ほいっ、と」
足を引っ掛け、腕を軽く極めながら投げ飛ばす。受身はとったようだが、直後に真希の足が顔のすぐ隣を踏み抜いた。
すぐそばで弾けた衝撃に、冷や汗を流しつつ、葵は真希を見上げた。
「った〜。さっきのはいけると思ったんだけど」
「まあ、もう少し慎重にいくべきだね。あと、フェイントもいれなきゃ。攻撃が正直すぎるんだよ、神楽さんは」
「はあ……」
葵は疲れたように立ち上がり、道場の真ん中に移動して行く。
「ああ、神楽さん。今日はこれで終わりにしよう」
「……え?」
葵は時計を確認する。まだ六時。いつもは八時くらいまでやるのだから、半分くらいしか終わっていない。
「そんな変な目で見なくても。そろそろ疲れが溜まることだし。それに……」
「それに?」
「……まあ、色々だよ」
言葉を濁す真希を訝しげな目で見るが、修行が早く終わるのは葵としても大歓迎である。ちょうど、今日は見たいドラマもあったことだし……
「ああ、術の勉強はちゃんとやっといてね」
「……美月くん。それ、疲れとれない」
「そう? まあいいや。とれなくても」
「まあいいやで済ませないでよ……」
葵としては、学校が終わったあとの貴重な時間を修行なんかで潰されるのは甚だしく不本意なのである。将来のためだと、頭では理解しているが、感情は納得してくれない。
ぶっちゃけて言うと、そろそろストレスが爆発しそうなのである。
「じゃ、僕は用事があるから。ちゃんと柔軟はやっといてよ」
「……は〜い」
やる気の無い返事を返す。
「美月くん。用事って、仕事?」
「企業秘密だよ」
それはすでに白状しているようなものだ。
まあ、自分に声をかけないということは、それほど厄介な仕事ではないんだろうと思い、葵は特に追求することはしなかった。……真実は、むしろ逆だったのだが。
葵が勝手な想像をしていることを、真希はなんとなく察していたが、特に突っ込むこともなく、道場から出て行く。
今晩はこの前見つけた棺桶の主の捜索だ。魔力が高まる満月の夜なら高い確率で見つけられることだろう。まだこの街に滞在しているのならの話だが。
道場の入り口のところには、すでにクリフが待っていた。いつになく真剣な顔である。
「なんだ、クリフ。まだちょっと早いんじゃないか? まだ、日は残ってるだろ」
西の山に隠れかけているが、確かに陽光が街を照らしている時間だ。今晩探しに行くターゲットは真祖だというから、もちろん活動することは可能だろうが、わざわざこんな時間に出歩くとも思えない。ヴァンパイアからすれば、早朝のような時間なのだ。
「ちょっとまずいことになった」
と、一枚の紙片を渡してくる。なにか、文字が書いてあるが、外国語らしく読めない。英語なら少しは読めるが、これはまた違う言葉のようだ。
「……なんだ、これ?」
嫌な予感が急加速していく。心臓の鼓動が早まり、背中を嫌な汗が流れる。
「いいか、よく聞け。綾音ちゃんがさらわれた」
その言葉を聞いた瞬間、真希の思考が急速に戦闘モードに移行していく。先ほどまでとはまるで違う口調で、真希はクリフに尋ねた。
「……だれに」
「どうやら、件の吸血鬼とやらは、俺の追っ手らしくてな。名前はジーク。まあ冴えないおっさんなんだが……どこをどう勘違いしたか、綾音ちゃんを俺の恋人だとかほざいている」
うつむく真希の表情は、クリフからは見えない。
「それで、人質にとられちまったらしい。八時、お前の通ってる学校で待っているそうだ」
無言で真希が家の中に入っていく。クリフも黙ってそれについて行った。
「……で、そのジークとかいうヴァンパイアの力量は?」
「俺より大分上、だな。俺の倍は生きているから、あのおっさん。だがまあ、お前と俺二人でかかれば倒せると思うぜ。……人質さえとられてなければ、の話だが」
「そうか」
神棚に供えてある刀を手に取る。ゆったりした仕草で抜き放ち、その重みを確かめるように、二、三度振る。
「……上等だ」
顔を上げた真希の表情は、酷薄な笑みを浮かべていた。