「美月くん……その、“アレ”なんだったの?」
クリフとの死力を尽くした戦いは十分ほど続き、バテたクリフが『俺、いちぬーけた』と戦術的撤退を果たした。あっけにとられていた葵だったが、なんとか正気に返ると、恐る恐る、といった感じで真希に話しかけた。
「ああ、“アレ”ね。アレは僕の使い魔で、クリフっていう吸血鬼」
「つ、使い魔って主人に対して攻撃するもんなの?」
「普通はしないけど……」
普通じゃないんだから、仕方ない。と、真希は疲れたように呟いた。
「でも、吸血鬼って確かA〜Sランクの危険種じゃなかったっけ?」
退魔士が強さによってランク分けされているように、退魔士が相手をする妖怪・悪霊にも祓う難易度によってランク分けがなされている。吸血鬼は、その知性、力からかなり上位に位置する魔物なのである。
「そうだよ。ただ、敵になった場合、ね。吸血鬼って、知性も人間と同じようにあるから、人間との間に不可侵条約を結んでいるんだ。単体の力はあっちが上だけど、人間は数が多いから、真正面からぶつかったら勝ち目がないと思ったんだろうけど。その条約によると、こっちが“献血”に行かせている人間の血以外は吸っちゃいけないんだけど……」
「あいつ、もろ私の血を吸おうとしていたけど?」
「そうなんだよ」
真希はクリフに対する不満やら恨みやらをたっぷり込めたため息を吐いた。
「あいつは他の吸血鬼より吸血衝動が強くて、人界に来て吸いまくったんだ。で、僕が討伐命令を受けたんだけど……」
思い出す。
あの時、二、三手合わせをした後、クリフはこんなことをほざき始めた。
『俺、疲れたから降参。で、どうだ。物は相談なんだが、俺、今暇しててな。お前んとこに厄介になってもいいか? なんか、色々楽しそうだし』
……なにを言われたのか、最初はわからなかったものだ。
それから紆余曲折を経て、クリフを使い魔にすることになってしまった。
「な、なんで?」
「なんでと聞かれても。あいつ、気紛れだからなあ」
未だ持って、なぜクリフが自ら使い魔になったのかはわからない。まあ、理由を求めること自体が間違っているのかもしれないが。なにせ、クリフの行動原理の八十%は本能とその日の気分が占めている。
「……もっと割合、大きいか?」
「何の話?」
「いや、なんでもない。修行、始めようか」
言うと、真希は、道場の隅のほうに置いてあったホワイトボードを取り出し、椅子と机を引っ張り出してくると、ペンででかでかと『対妖怪戦闘術〜基本編〜』と書いた。
「今日は、本当に基本的なことから始めようと思う。テキストは、これ」
「……なにこれ?」
「『退魔士心得』……っても、内容はほとんど形骸化しているけど、新人さんにはちょうどいいと思う」
「てゆーか、なんで机でお勉強なの?」
「この前も言ったでしょ。まず、神楽さんには具体的な技術よりも、基本的な知識とか心構えとかが決定的に欠けてるんだよ。まずはそっちから覚えなきゃ」
なにか文句を言いたくなった葵だが、以前の痛恨の失敗があるため、なにも言えなかった。
「まず、これは基本中の基本なんだけど……妖怪を調伏する際は、基本的に多人数で行動することになってるんだ」
「ふーん」
「ちゃんと聞いて。美月一刀流って、単独での行動を前提にしてるから、僕はほとんどソロだけど……やっぱり、それなりに強力な魔物を相手にしようと思ったら、チームを組む必要がある」
「はーい。先生しつもーん」
「……なに?」
「ほとんどの退魔士って、一人ないし二人程度で活動しているって聞いたけど、その辺どーなんですかー」
あまりやる気の感じられない声。
葵の気質からしてじっとして勉強なんて無理がある、と思っていたので、心の中でため息をつくだけにしておいて、真希は質問に答えた。
「形骸化してるって言ったでしょ。まあ、理由は、単純に、多人数で行動すると、生活できないからだよ。僕らの仕事って、単価は高いけど、数が少ないからね。たくさんの人たちと分けると、絶対にやってけない。だから、必然的にそうなるんだけど……あんまりいい傾向じゃないね」
「……生々しい話ね」
「まあ、退魔士っつっても人間だからね。生活があるし」
「あー、なんかやる気なくした……」
もともとないくせに。
「ぼやかないぼやかない」
なんとかなだめすかして、真希は授業を進めていこうとした。多分、ずっとこんな感じになるんだろうなあ、という、確かな予感を感じながら。
そんなこんなで数日が過ぎた。
「ククク。真希のやつめ。いつも邪魔ばかりしやがって。そろそろ、俺も我慢の限界だよ〜っと」
道場をちらりと見て、真希が授業をしている様子を確認してから、クリフはすすす、と美月家の敷地を移動して行った。
今は夕方。多少、日が差しているが、昼間のそれとは比べるべくもない。この程度の日光では、クリフの力を削ぐことは到底不可能だ。
いつもこの時間は、葵のお勉強タイム。真希もあれで教育熱心だから、クリフのことに気付いてはいないだろう。
クリフは細心の注意を払いながら、真希の家と隣の家との仕切りを飛び越えた。
隣は、綾音の家である。
「さて、と。綾音ちゃん、待ってなさいよ〜。このクリフさんが今行くからね〜っと」
クリフの狙いは、綾音だ。
前々から彼女の血は狙っていたのだが、真希に阻まれ、今まで実行できなかった。ついでに言うと、もし成功しても後が怖かった、というのもある。
だが、それがどうした。
いい加減、真希の血も飽きた。使い魔としての契約に一応縛られている立場だが、クリフほどの力の持ち主ともなると、その程度気合で無視できる。
桜庭家の玄関に立った。クリフは美月家の居候、と認識されているので、訪れてもそれほど不審には思われない。そして、桜庭家は共働きで、今いるのは綾音だけのはずだ。
それを頭の中で確認して、一つ頷くと、呼び鈴を押そうとして、
「……あれ?」
当の綾音が、美月家の門の前に立っているのを見つけた。
垣根が低いため、頭だけが見えたのだが、綾音の表情はなにやらかなり怒りに染まっている。
どうせ、真希がなんかしたんだろう、とクリフは大して深く考えずに、桜庭家の敷地から出て、綾音に声をかけた。
「や、綾音ちゃん。ちょうど君に用事があったんだ」
だが、返事がない。
「綾音ちゃんってば。残念だけど、真希は今、彼女と仲良くやってるところで、綾音ちゃんは邪魔になるから……」
俺とちょっと話でもしないか、と続けようとしたところ、綾音は壮絶な形相で振り返り、
「あ゛!? なにか言いくさりやがりましたか、クリフさん?」
怖っ。
「い、いや。なにも」
「なら、いいですが」
「あ、綾音ちゃんはなにをしているのかな?」
「ちょっと、真希さんの浮気現場を押さえに来たんですが」
事も無げに言う。
「浮気って……さっき、変な事を言った俺が言うのもなんだが、違うと思うぞ」
あの二人がしているのは『修行』だ。今日は頭の体操をするとか言っていたが、それでも、色気のある展開になるとは思えない。
「ええ、知ってます。なんでも、三年の神楽先輩は、真希さんのところに剣道を習いに来た、と学校で聞きました」
「ま、まあ、そんなところだと思うぞ」
「その話を流したのは、稲山さんです。真希さんは、おそらく偽装工作のために稲山さんに頼んで、そういう話を広めたに違いありません。真希さんがやりそうな手です」
すごい疑われようである。さすがに、クリフは真希が哀れに思えてきた。
「真希さんのことは信じてますし、大好きですけど、やっぱりこういうのはいけないと思うんです」
いや、ぜんぜん信じてねーじゃん、と突っ込むのは心の中だけにしておいた。
そこで、自分の目的を思い出す。
怒りで周りが見えていないようだし、今のうちに拉致って、美味しく頂いてしまおう、と考え、道場のほうに歩いていてこちらを見ていない綾音に手を伸ばす。
「クリフさんも協力してくれますよね?」
慌てて手を引っ込めた。
「い、いや。俺は……」
「してくれますよね?」
有無を言わせない口調だった。あまりの迫力に、思わずたじたじになる。
「どうせ、いつも暇しているでしょう。さあ、行きますよ」
見かけからは想像もつかないほどの力でぐいぐいと乱暴に引っ張られる。
「ちょっと待てって」
「あ〜、御託はいいですから。早く台になってください。この道場の窓は高いんですから、私じゃ届きません」
「いや、だからな」
「さっさとかがむ! ちなみに上向いちゃ駄目ですよ。私、スカートなんですから」
そんな事を言いつつ、綾音は足を払った。前に倒れそうになったところで、とっさに手をつく。なにか文句を言う前に、背中に立たれてしまった。
そういえば、護身技を少し真希が教えていたな、と思い出す。
「お、おい、こら!」
「上を見ないでって言ったでしょ!」
げしっ、と頭を踏みつけられた。もう、されたい放題である。なんとなく、力ずくで逆らうことができない。
「あっ! 内側から閉じてある! これはもう、なにかいかがわしいことをしているに違いありません! クリフさん。状況証拠は揃いました。突入をかけますよ!」
クリフの背中から飛び降りて、綾音はクリフを引きずりながら道場の入り口向けて走り始めた。まるでいのししの様な突進である。猪突猛進、という言葉が自然と口に出てきた。
(真希……俺が悪かったから、この子なんとかしてくれ……)
滂沱の涙を流しつつ、真希に助けを求めるクリフだった。
バンッ! と乱暴に道場の入り口が開かれる。
一瞬、あっけに取られた真希だが、それが綾音だと確認してからの行動は凄まじかった。
まず、ホワイトボード一杯に書かれた文章を全て消した。さらに、ホワイトボードを蹴って、道場の隅においやる。返す刀で、葵が手に持っているテキスト『退魔士心得』を蹴り上げ、空中でキャッチすると、懐にしまいこんだ。椅子と机もいつのまにか消えうせている。
それに留まらず、どこからともなく竹刀を二振り取り出すと、片方を葵に握らせ、自分は構える。
ここまで電光石火の早業。扉が開かれてから三秒と経っていない。葵も綾音も、なにが起こったかわからないようで、目をぱちくりさせている。
「あ〜、神楽さん。竹刀の握り方はそうじゃないよ。こうだって。あ、綾音。見学に来たのか?」
「えっ? えっ?」
わざとらしい解説なんぞを付け加えつつ、真希は葵の握り方を訂正する。
直接、手を触れた真希に、ピクリと反応した綾音だったが、それよりも追及すべき問題があった。
「で、真希さん。ほんのついさっきまで何をやってたんですか?」
「なんのことかな? ずっと神楽さんに剣道の基礎を教えていただけだけど?」
「さっき、なんかすごいスピードでなんかを片付けていたでしょう。見えなかったけど」
「はぁ? なにを言っているのか、さっぱりわからん。綾音の気のせいじゃないか?」
じとーっと睨まれるが、そこは長年の付き合い。ぼろを出すようなへまはしない。実は、綾音からは見えない後頭部のあたりに、でっかい汗が流れているのだが。
ただ、真希が悟られなくとも、そのすぐ向かいにいる人物はそうもいかない。
「あ、あの〜、美月くん?」
「神楽先輩がすごく挙動不審ですが?」
くそっ、と内心で舌打ちする。
綾音の性格からして、こうなることは十分予想していたのに。神楽さんに説明して置けばよかった、と後悔先に立たずを体現していると、今度は、なぜか引きずられているクリフが、
「大体、もう何日か経っているのに、いまさら竹刀の握り方ってのもおかしいよな」
オーマイガッ!
綾音の目がますます不審げになる。真希はそそくさと視線をそらし、クリフに向けて小動物程度なら殺せるくらいの殺気を向けた。が、そんなことを気にするわけもなく、クリフはけっざまーみろ、という顔をして悠然と睨み返す。
「さーてと! 基本の構えから始めようか!」
強引と言わなくても強引だが、真希はくるりと回れ右をすると、無理矢理修行を始めるのだった。
美月家を見つめる一対の瞳は、驚愕に染まっていた。
「……なんと」
先ほどのやりとりを思い返す。
自らの標的が、年端も行かぬ少女に足蹴にされていた。
以前、あの家の人間があの悪魔と戦っていたのは、訓練かなにかだろう、と思うのだが、今回のこれは毛色が違う。明らかに、あの少女は奴と対等、もしくはそれ以上の関係だ。
「恋人……か?」
頭を振る。ありえない。
やつは女性を、獲物かなにかとしか認識していない、はずだ。はずなのだが……。
人は変わるものである。人ではないが。
「なるほどな」
はっきりと、男の中ではそう結論付けられた。真実からあまりにもかけ離れている結論だが、男の中ではそれが真実となった。
そして、考える。
自分一人では、とてもあの人間と組んだ奴にはかなわない。
だがしかし、奴が気にかけている、おそらくは脆弱な少女を人質に取れば、どうなるだろうか?
男は、自己嫌悪に陥った。それは、誇りが許さない。……が、自分一人の矜持のために達成可能な任務を放り出すわけにもいかない。
「仕方がない、か」
深い。深いため息をつく。
もう少し綿密な調査をすれば、標的の周囲の人間関係をはっきりと把握できただろうに。夜行性の彼には少し無理な話であった。