ピピピピピ、とうるさい目覚まし時計を寝ぼけ眼で止める。
「……ねむ」
小さくあくびをして、洗面所へ。顔を洗い、しゃきっとしたら、今度は父の寝室に向かった。
当の父親は、目覚まし時計ががんがん鳴っているのに実に気持ちよさそうに寝ている。ほんの一年ほど前は、自分は入院していて、この人は一人暮らしをしていたはずなんだけど……。
「お父さん! ちょっと、起きてよ!」
そして、リリスは必死に父親を起こしにかかるのだった。
第32話「ある日のリリス」
「ったく。いい加減、自分で起きてよね」
右手でフライパンを操りながら、ウォードに文句を言う。
「んー、努力はしているんだがなぁ」
「努力だけじゃなくて、結果を出して」
一蹴。
実に容赦のない娘である。娘に怒られて小さくなっているウォードは、どこで育て方を間違えたのか真剣に考え出していた。
(いや……そもそも、あのルーファスがいなけりゃ、リリスはこんな風にはなってなかったはずだ)
一応、その娘はルーファスに命を救われたのだが、それとこれとは話が別だ。
(そうだよ。あいつを一度ぶちのめしたら、きっとリリスも目を覚ますはずだ)
いつぞやの番長と発想が変わらない。そもそも、あの性格はどうやっても変えられそうにないというのが、リリス本人を含めた周囲の見解である。わかっていないのは、実の父親をはじめとした少数だけだ。
「なにぶつぶつ言ってるのよ、お父さん。朝ごはんできたわよ」
白米に鮭の切り身、味噌汁に納豆という、東方はヒノクニの正しい朝食だ。
ウォードは、幼いころ、ヒノクニの剣術の達人に師事して20年ほど向こうで暮らしていたので、向こうの生活習慣が染み付いている。ちなみに、すでに死去しているリリスの母親はヒノクニの生まれである。
「……む、リリスもお母さんの味噌汁の味が出せるようになってきたな」
感慨深げに呟く。退院してからは、食事を整えるのはウォードと交代にやっているのだが、才能があったのかメキメキと腕を上げている。
「そう?」
言いつつも、台所で手を動かすのを止めないリリス。
「……ときに聞くが、それは何を作っているんだ?」
「見てのとおりお弁当だけど。あ、一応、お父さんの分もあるわよ」
と、ウォードに包みをポン、と渡す。
「そうじゃない。そっちの一段豪華なやつは一体なんだ」
「これ? ルーファス先輩に作ってあげようと思って」
ウォードの弁当の何倍も手の込んだ弁当である。父としてはやはり面白くない。
「……彼には確かガールフレンドが昼食は持ってきてくれていたような気がするぞ」
「リア先輩のこと? あんな人に私は負けないって」
自信満々。ますますもって面白くない父親。娘を渡してなるものかと、その鼻息は非常に荒い。
(よし……)
なにかを思い立ったようだ。
「リリス、お父さんちょっと用事があるから早めに出るぞ」
と、朝食をかきこみ、弁当を大切にカバンに入れて出発する。
「え、あ。いってらっしゃい」
そして、ウォードの向かう先は、ヴァルハラ学園男子寮だった。
ルーファスは、基本的に早起きだ。しかし、寝坊しない限り早朝の軽い訓練(ちなみに、その運動量はそこらへんの達人が裸足で逃げ出すほどである)をこなすから登校時間は標準だ。
なので、間に合った。
ルーファス・セイムリートと表札のかかった扉の横で息を潜めて刀に手をかけているのは、娘激ラブ親父。
もともと、彼の習得した剣術は暗殺を生業としているので、奇襲やら闇討ちやらは得意だ。……こんなところで、そんな理由で振るわれては技が泣きそうだが。
息を殺して待つこと10分。他の男子寮の生徒に不審な目で見られるのにも耐えに耐えて、その時を待った。
そして、ゆっくりと扉が開き……
シュッ!
「……朝っぱらから何の真似だ」
絶好のタイミングで放った居合いは、ルーファスに指だけで止められてしまった。
「相変わらず、化け物じみたやつだな。……だが、貴様の命運もここまでだ!」
もとより、この一撃で決められるなどと虫のいいことは考えてなかった。あっさりと剣を手放す。
間合いをはずして、懐に手を入れる。そして、棒手裏剣を取り出したところで、ルーファスが目の前に現れていた。
「ぬなっ!?」
予想をはるかに超えたスピード。確かに安全圏(と思った)ところまで下がったはずなのに、もう間合いを詰められた。
さっき、ウォードが手放した刀を構え、すれ違いざまに一太刀。
「ぐはっ」
崩れ落ちるウォード。一応、峰打ちなので死んじゃあいないが、あばらの一本や二本は折れた。
「ったく。朝から疲れさせるな」
ルーファスは吐き捨てて、ついさっき自分で打ちのめしたウォードを無視して学園へと急いだ。
リリスは走っていた。向かう先は保健室。
学校についたとたん、父のルーファス襲撃事件を聞いたからである。なんでも、あっさり返り討ちにあった父は保健室で治療中だと、クラスの寮生活者に聞いた。
保健室のドアを開けると、、腹の辺りに包帯を巻いたウォードの姿が。
「おお、リリス。心配してくれたのか? なに、父はこの程度でくたばったりは……」
最後まで言わせるつもりはなかった。
だだだ! と、治療中の父親に駆け寄り、そのままジャンプ。
「この……」
慌てて避ける校医を視界の端に捕らえつつ、限界まで捻りを加えたとび蹴りを、父親に容赦なくかました。ちなみに、包帯を巻いているところを意図的に狙った。
「くそ親父がぁぁぁ!!!」
めきょっ!
なんとも不可解な音色がしたとたん、ウォードは、泡を吹いて地に倒れ伏せる。
慌てて校医が駆け寄るが、彼女の回復魔法では骨折までは治せない。これだけの重症だと、痛み止めがせいぜいだ。
……まあ、心配はない。もともとの傷がルーファスのつけたものだ。彼は戦闘で傷つけた相手は、しばらく放置してからちゃんと治しているらしい。そんな生ぬるいことしているから連中が懲りないのだと思うのだが。
まあ、そのお人よしぶりに、今は感謝だ。
なんせ、勢いで蹴りを入れたものの、あまりに手ごたえがよすぎて、さすがにやりすぎたか? と思っていたところだ。
泡を吹いている父をちらりと見て、保健室を出た。
しかし、なんであんなに変わったんだろう。と、リリスは思う。
ほんの半年くらい前……リリスが入院していたときまで、ウォードはなんつーか、もっと真面目でストイックな感じだった……と思う。
非合法すれすれの仕事までして、リリスの入院費を稼いでくれて、生傷は絶えなかった。そんな父に感謝していたし、尊敬もしていた。
……が、今の有様はどうだ。
あれはあれで、自分のことを思っていてくれているらしいが、もう少し常識をわきまえて欲しい。
「ま、少しは懲りたでしょ」
……あんまり懲りてないと思うが。
「ルーファス先輩!」
リリスは昼休みが始まると同時に、ルーファスの元に駆けてきた。
そのルーファスはというと、リアと一緒に中庭に行く途中だった。手にある包みを見る限り、リアも弁当を作ってきたらしい。
「私、先輩にお弁当作ってきたんですけど〜」
なのだが、まるで意に介さない。
「ちょ……横から来てなに言っているんですか!」
「私、先輩にお弁当作ってきたんですけど〜って言いました」
「そういうこと聞いているんじゃありません!」
ずざっ、とリリスとリアが対峙する。
「お、おい二人とも? 喧嘩は止めたほうがいいと思うんだけど……」
だって、絶対俺にとばっちりが来るから。と、付け加える。
ルーファスの言葉は完全に黙殺された。一応、当事者のはずなのだが、完全に蚊帳の外だ。
「大体なんですか。その少ない弁当は。そんなんじゃルーファスさんを満足させられませんよ」
確かに、大きさだけならリアのほうがかなり大きい。ルーファスは意外に食うのだ。まあ、普段のエネルギー消費量がすさまじいし。
「中身に自身がないから、そうやって量を誇るわけですね」
カチン、と来たらしい。リアのこめかみに血管が浮かび、怒りのお〜らが放たれる。ルーファスは、自分に向けられたものでもないのに、恐れおののき、教室から出て様子を伺う。……もうこの男、完全にリアの支配下に置かれているのではないだろうか。
「よくもまあ、そんな事が言えますね。小学生のころからセイクリッド家の台所を預かってきたこの私を捕まえて」
「まあ、それじゃあ、小学生のころから料理をしていてまったく進歩がないってことですね」
「んなっ!」
教室の中の空気がどんどん険悪なものになっていく。普通の人間は、居心地悪いな、位にしか感じないが、ルーファスにとっては魔族の軍勢1万に囲まれるよりよっぽど怖かった(そして、それは実際に経験したことがある)。
そして、緊張感が頂点に達したとき、
「勝負です!」
と、リアが叫んだ。
「望むところですよ。リア先輩」
不敵に笑うリリス。
「「ルーファスさん(先輩)!」」
「は、はひ!?」
「「ついてきてください!」」
おとなしく従うルーファス。どことなく、雨に打たれた野良犬のような印象を受ける。
「……むーー」
そのなか、早起きができなくて弁当なんて作れないソフィアは不機嫌そうに頬を膨らませていた。
「「さあ!」」
二人の少女に弁当を差し出され、ルーファスは非常に困っていた。
「えーと……どっちがうまいか判定しろといわれても」
二人の勝負とは、つまるところそういうことだった。
「深く考えることはありませんよ。ルーファス先輩は、私のを食べて、一応、リア先輩のもついばんで、私の方がおいしいって言えばいいだけですから」
(ま、またそーゆーことを言う)
ちらりと、リアのほうに目をやる。
怒ってます。怒っていらっしゃいますよ。
「別に、この勝負は口でするものじゃないですよ、リリスさん」
「まあ、一理ありますね。さあ、ルーファス先輩。ぐいっと食べてください」
ずい、と二つの弁当箱が差し出される。
リアのやつはボリューム満点。さらに、ルーファスの嗜好を彼自身以上に把握しているので、ルーファスの好物ばかりだ。にもかかわらず、栄養バランスもとれているあたりがすごい。
そしてリリスのほう。量こそ少ないが、その分、手の入れようはリアをはるかに上回っている。見た目も気を使っているらしく、彩り鮮やかだ。
おそらく、味も甲乙つけがたいものだろうということは想像に難くない。
「「さあ」」
だけど、だ。
どちらかを選んだ場合、確実にもう一方は怒る。そういう事態は避けたい。
引き分け、なんてので納得するわけはないし……
「じゃ、俺、腹減ってないから」
と、嘘をついて、逃げた。そろそろ腹をくくったらどうだ、と思っているのは作者だけではあるまい。
「「あっ!?」」
すでに、リリスたちの視界にルーファスの姿はない。無意味なところにその高い能力を使う男である。
ぽつん、と取り残される二人。
「「ふ、ふん! 今日のところは引き分けにしておいてあげます!」」
ハモってしまった。さっきまでの、『さあ』とかいう短文じゃなく、長文で。
居心地悪げに、相手を見据える二人。
やがて、どちらともなくその場から去っていった。
私は授業を聞き流しながら、考えていた。
無論、ルーファス先輩のことである。付け加えるなら、どうやってモノにするかである。
いくらアタックをしかけても、今日みたいにはぐらかされる。まあ、あの性格が原因で、私がここに入学するまでリア先輩とくっつかないで済んだ、とも考えられるのだが。
しかし、考えてみると、敵はリア先輩のみだ。
ソフィア先輩は、本人はどう思っているか知らないが、ルーファス先輩は姉というか妹というか……異性というより、家族として扱っている。あまり信憑性のない情報だが、同じ村で育ったというのが大きいのだろうか。
そして、サレナ先輩。私自身もあこがれるほど毅然としてカッコイイ人だが、ルーファス先輩を取られる心配はなさそうだ。なんせ、恋愛感情とは無縁っぽいし。
そのほかの有象無象は無視。
そうやって考えてみると、私とリア先輩の一騎打ちである。
付き合いの長さではあちらに分があるが、それもせいぜい一年ほどの差に過ぎない。そして、こちらには若さとパワーがある。
総合でこっちが有利だ。あの人に、ルーファス先輩がぜんぜん頭が上がらないところが少し気になるが……なに、あの人は女性全般に弱いのだ。気にする必要はない。
ならば、次はどんな手でいくか……。
と、考えを巡らせるリリスだが、一つ間違いがある。
ルーファスが女性に弱いのは確かだが、リアのそれは弱い、というレベルではない。
ルーファスはリアに服従している、といっても過言ではないだろう。まあ、本人が聞いたら猛反発しそうな話だが。
閑話休題。
続いてリリスが思いついた策が、放課後、ルーファスを捕まえるというものだった。
無論、寮生活のルーファスと一緒に下校、なんてできないから、その足で遊びにいくなり、自分の家に連れ込むなり、いろいろできる。
とまあ、そんなことを思いつつ、校門でルーファスを待っていると、現れたのは、リアと連れ立ったルーファス。
そう! 今日はリアの担当の日だったのだ!
とか、そーゆーことはまだ知らないリリスはいきりたち、ルーファスへと向かう。
「ちょっと……」
「死ねぇ! ルーファス・セイムリート!」
向かって、話しかけようとした瞬間、黒い影が校庭の木から落下した。
「……まだ懲りないのか! おっさん!?」
その影――ウォードのするどい一撃を紙一重でかわしつつ、距離をとるルーファス。
「当たり前だ! 治療なんかして、後悔させてやろう!」
と、ウォードが向かっていく。
ぴくぴく、と拳を握り締めるリリス。一体、どこまでじゃますれば、この親父は満足なんだ? 娘の初恋を邪魔するとは、父親として失格だ。
適当にあしらわれているウォードを親の敵を見るような目で(いや、おかしな表現だが)見据えて、リリスは飛んだ。
本日二回目の台詞を、のどから搾り出しながら。
「このくそ親父がぁぁぁぁぁ!!!」
その日、ウォードが目覚めることはなかった。
余談だが、今日のことをきっかけにリリスがルーファスの放課後の当番制を知り猛抗議して、サレナの分の一日を奪い取った。