慎重に、丹念に、丁寧に、ハーヴェスタの秘跡の隠し部屋への封印式を開封していく。壁に刻まれた大きな幾何学文様を、ナイフで少しずつ削っていくこの作業は、神経を使う。初めて一時間も経っていないのに、体の中心からごっそりと体力を奪われてしまった感じだ。
これだけ大規模で複雑な封印式。並みのルインハンターだったら、とっくに手順を間違えて、カウンターの秘術でくたばっている所だ。いまだそうなっていないのは、偏に幼い頃からルインハンターとなるべく教育を受けた、この俺の素晴らしい技術+ご先祖様が残してくれた手帳に書かれた知識のおかげであることは言うまでもない。
だっていうのに、
「ウリ」
「リス」
「スリ」
「また『り』ですか? う〜……り、立体」
「いかり。船とかのあれですよ」
「また『り』〜〜!?」
などと、傍観者であるフィーとアルは、しりとりなんぞに興じていた。
そりゃあ、あれだ。さっきから俺は淡々と同じような作業を続けているわけだから、暇なのはわかる。わかるが、それならそれでもっとやるべきことは他にあるだろう。断じて、しりとりなんぞで遊んでいる時ではない。それくらい、この俺の額を流れる玉の汗をみて、察して欲しいのだが。
あ〜、つまり、なんだ。俺が言いたいのは。
いい加減、捻るぞてめぇら。
「おや」
そんな俺の殺気に気が付いたのか、次なる『り』を探してうんうん唸っているフィーを置いて、アルがこちらを向いてきた。
「ゼータさんもやりますか?」
「やらんわ!」
一喝して作業に戻る。
しかし、後ろで様々な単語をつなげていく二人がうっとおしくて、遅々として進まない。
三十分ほど経って、アルの執拗な『り』攻撃にフィーが膝を屈し、やれやれやっと終わったかと思うのだが、なんとフィーは、
「あ〜、疲れた。じゃ、もう一回やりましょうか?」
「ぅおい! まだやるのかよ!」
この暇人どもめ。
毒づき、無理矢理作業に戻る。……だが、集中力が完全に途切れたおかげで、これ以上やると失敗してしまいそうだ。
そうやって手を止めた俺の態度を、どう捉えたのかフィーがやれやれとため息をつく。
「なんだ、ゼータさんもやりたいならやりたいって言ってくださいよ。そんな、いかにも仲間はずれにして寂しいんですぅ、なんて顔しなくても」
「誰が、いつ、そんな顔をしたよ、おい」
一言一言に力を込めて、凄んでみせる。
「ほらほら、その顔。まったく、興味ない興味ないと言いつつ、内心仲間に入りたくてたまらない子供の顔ですね」
まったく怯まず、そんなトンチンカンな答えを返すフィー。アレだ。今更だが、こいつ俺の事を年上と思ってねぇ。でっかい子供を相手にしているかのようなこの対応。思わず顔が引きつっちゃいますよ?
「……とりあえず、今日はもう帰るぞ。この封印、解こうと思ったらしばらくかかりそうだ」
「しばらく、とはどのくらいでしょうか?」
撤収の準備を始める俺に、アルが尋ねてきた。この先にあるものは、アルも狙いまくっているのだから、当然と言えば当然なのだが。
「そういえば、賭けとやらはどうすんだよ? 見つけたのはフィーだぞ」
「そうですね。この事態は少々予想外でしたが」
「じゃあ、この封印を解ける俺の勝ちってことでいいな? よし、これで全部解決だ。さぁ、帰ろう」
一方的に話を打ち切って帰途につこうとする俺の肩を、アルがぐわしっと掴んだ。……ちっ、流石に簡単に見逃してはくれないか。
「ゼータさん、いくらなんでもそれはないんじゃあないですか」
「だけど、俺がいなきゃ、アルじゃこの封印を解くことはできないだろ? つーことで、俺の勝ちだ」
「いえいえ。王都の方から専門の人を呼べば解決する問題です」
「それも、すぐにってわけにはいかないだろうが」
アルが国の命令を受けているように、俺は俺で引くわけにはいけない理由がある。お互いにこやかだが、心の目で見れば俺とアルの間に火花が散っているのがありありと見えるだろう。
「二人とも、なにもたもたしてるんですか。帰るなら早く帰りましょう」
そんな火花は、そういうことに疎いフィーには見ることが出来なかったようで、俺たちをせかす。
「……わかりました。とりあえず、実物を見てから決めることにします。私が問題ないと判断すれば、ゼータさんに委ねますから」
「悪いが、見せるわけにもいかないな。大体、その言い方じゃお前に主導権があるように聞こえるぞ」
当たり前といえば当たり前だが。
こちらは、免許を持っているとは言え一介のルインハンター。あっちは、天下御免の国家公務員。隠密行動が主とは言え、有事の際には一般人の逮捕権もあるし……最後の手段として、物理的に俺を黙らせることも出来る。
「平行線ですね。また、後で話しましょう」
これ以上の議論は無駄だと思ったのか、アルは駆け足でフィーに追いついていく。
フィーがいてよかったというべきか。とりあえずここは引いてくれたようだ。
「……まぁ、問題あるかないかで言えば、間違いなくあるんだけどな」
ぼそりと呟いて、俺はゆっくりと二人の後を追った。
「へぇ、なにか見つけたんですか?」
「ええ。フェアリィさんのおかげです。なかなか興味深いものを発見しました」
料理をアルの前に並べながら、オリヴィアさんが笑顔で尋ねている。
ちなみに、アルの前には黒パン、子羊のロースト、サラダ、コーンスープ、赤ワインと見事なメニューが揃い踏みしている。同じテーブルに座っている俺の前には、昨日焼いた残りの硬くなったパンと奮発して追加したチーズと水しかないのに――なんだ、この落差は!?
「……分けてあげましょうか?」
「いらんわ!」
哀れむような目でそんな事を言うアルの提案を突っぱねる。正直、かなり惹かれたのは事実だが……ここで素直にそれを受け入れるということは、決して負けてはならない何かに膝を屈してしまうことのような気がする。貧乏人には貧乏人のプライドがあるのだ。
「プライドじゃお腹は膨れませんよ」
ウェイトレスとして風月亭の中をちょこまかと動き回っているフィーが、俺の傍に来た時、ぼそっと呟いた。
なにか言い返そうにも、すでにフィーは追加の酒の注文を受け取って厨房の中に入っていってしまっている。湧き上がる怒りのぶつけどころを失った俺は、微妙に顔を引きつらせながらもその場に佇むしかない。
「いやはや。相変わらず、フェアリィさんはゼータさんには容赦ありませんねぇ。的確な急所をずばりと貫いています」
「全然的確じゃねぇよ!」
本当は、心を読んでいるんじゃないかって言うくらい的確だったが、とりあえず反論しておく。
「さて……とりあえず、話の続きと行きましょうか」
アルの顔が引き締められる。それだけで、アルの印象が好青年から危険人物へとシフト。こいつ、実は二重人格なんじゃねぇか? と疑いたくなるほどの変貌振りだ。
「私にも一応、義務と言うものがありまして。ハーヴェスタの秘跡にあるものが何かを見極めて、必要なら持ち帰らないといけないんですよ。これはわかってもらえると思いますが」
「わかるけどさ。なにもなかったってことにして、大人しく帰るのが一番だと思うぞ? 誓って言うが、アレは王国に利益をもたらすものじゃない」
欲しがることは欲しがるだろうが、結局制御できなくて暴走させてしまうのがオチだ。
「それを信じろとでも? 悪いですが、直接この目で確認しなくては、無理な相談です。その上でゼータさんに委ねるかどうかを判断……と、これは昼間も言いましたね」
そう、ほとんど昼間の焼き直しだ。
「ああ。俺は駄目だと言った」
「理由は? 本当に、私――いや、国にとって無意味なものなら、見ても問題はないでしょう? その時は、ゼータさんに任せると言っているんですから」
「見ること自体に問題があるんだよ」
こんなことを言っても、わかってもらえるとも思えないが、あそこにあるものの説明をするわけにもいかない。言っても信じないだろうし。
案の定、アルは納得していない様子で、こちらを睨みつけている。……つーかそんな、寿命の縮むような裏稼業の人の視線を向けないで欲しい。多少ヤクザな商売をしているとは言え、俺はごく普通の人間なんだから。
「……ええい、飲め、貴様!」
「は、はあ?」
アルが頼んだワインの瓶を空け、グラスに無理矢理注ぐ。
「さあ、俺が酌してやったんだから、いやとは言わせないぞ。さあ飲めやれ飲めぶっ倒れるまで飲め!」
「ちょ、ゼータさん誤魔化そうとしていませんか!?」
一気に普段の好青年の顔に戻ったアルは、慌ててつつ抗議してくる。だが、そんなのは黙殺だ。俺の縮まった四日と十六時間二十分三十九秒分の寿命をこれ以上縮められては敵わない。
「おーいっ! みんなっ。今からここに居るトッポい兄ちゃんがイッキするらしいぞっ!」
とりあえず、他の客どもを煽る。酒が入っているオヤジたちは、おおーやれやれー! と俺の思惑通り野次ってくれた。
周り中に騒がれて腹を括ったのか、アルは苦い顔のまま一気にグラスの中身を煽った。
「ふぅ、まったく。……わかりました。とりあえず、食事をしてからにしましょう。冷めてしまっては、作ったオリヴィアさんに悪いですし」
「そうだそうだ。冷めちゃ、美味しくなくなるしな」
「ゼータさんのは冷めても味が変わらないメニューですけどね」
やかましい。
こそっ、と現在のねぐらである屋根裏部屋から抜け出す。
風月亭の二階は客室が揃っているが、泊り客を起こさないよう、廊下を慎重に歩く。深夜だから、というよりアルに気付かれないようにだ。
夕食の時、俺はアルのグラスにワインを注ぎまくった。少し飲んだらすぐに追加する。そんなことを繰り返していると、自然とアルのペースも上がっていった。一本空けると、俺は本人の了解も取らず追加のボトルも注文した。
結果、アルは四本のワインを飲み干す羽目になった。きっと明日は二日酔いだろう。
クククク、俺の計略とも知らず、今頃は部屋で寝こけているに違いない。
漏れ出る笑いを抑えながら、それでも慎重に風月亭から出る。
空には、冷えた色をした月。昼間より少し肌寒い空気に身を震わせて、俺は深夜のハーヴェスタの町を歩いた。
目的地は言うまでもなく歓楽街。大人の時間はまだ始まったばかり――って違うわ!
「秘跡だよな、秘跡」
なんか、ちょっと思考がピンク色に染まったが、頭を振ってその考えを追い出す。
第一、俺に女を買う金などない。行った所で、すげなく追い返されるのがオチだ。てか、そもそもあんまり興味ねぇ。さっきのは魔が差しただけ。いや、女に興味ないからって、別に男に興味があるわけではないですよ?
……誰に言い訳してんだ、俺は。
深夜でもなお明るく、喧騒が終わることのないハーヴェスタの町の歓楽街に背を向け、俺は歩き出す。
幸いにも、誰にも会わず町を出ることに成功する。森まで続いている道を、月明かりを頼りに辿る。
やがて、秘跡のある森の前に着いた。
あとは森を突っ切るだけだが、さすがに少々尻込みしてしまう。夜の森は、星の僅かな光すら入らない魔境だ。ランタンがないと、足元もロクに見えない。この森には悪霊が出るんだぞー、とかそんな与太話を信じるほど子供ではないが、かといって進んで入りたいわけもない。それでなくても、夜の猛獣の危険度は昼間のそれとは比べ物にならないというのに。
「……でも、行かなきゃなぁ」
夜のうちに秘跡の封印を解いて、中のものを破壊する。俺の貧相な頭では、そのくらいしかアルを出し抜く方法を思いつくことは出来なかった。
欠伸を噛み殺しながら、森に侵入した。
普段の三倍くらい気を張って秘跡に向かう。途中、二度ほど肉食の動物が近くを通り過ぎたが、なんとか俺は捕食対象にはならなかったらしい。もう既に腹を膨れさせていたのだろう。
さらに、道に迷いそうになること三度。いつも通っている道とは言え、これだけ暗いと勝手が違う。
そして、秘跡に到着。慣れたと思っていたのだが、やはり夜の秘跡はより不気味だ。入り口が奈落への落とし穴に見える……というのは言いすぎだろうか。
俺の人生史上、多分もっとも長い夜はまだ始まったばかりだった。
「むう、やっぱりムズイ……」
そして、昼間の続きとばかりに封印の術式に向かう。
千字近くに及ぶ秘術文の一つ一つを削っていく作業は、精神をも削る。一回でも順番をミスったら、そのままドカンと来る緊張感。流れ出る汗を拭った。
眠気と疲労でミスりそうにもなるが、なんとか気合で押さえつける。これさえ乗り越えれば、エヴァーシン家のノルマを果たすことが出来て、あとは自由に出来る。実家の武器商売を継ぐ気はこれっぽっちもないから、恐らくルインハンターを続けることになるだろう。
今とは違う、きちんと金も稼げる秘跡に入って、ウハウハの毎日。毎日の食事も、パンが一個から二個に増やすことが出来るかもしれない。もしかしたら、卵をつけることが出来たりもしちゃうかも? そんな素敵な未来を想像して、やる気に変える。
「いやぁ、夢が広がるなぁ!」
「広げる前に、ツケは払ってくださいね」
ぴきっ、と俺は固まった。手元を狂わせなかったのは運がいいとしか言いようがない。
聞こえるはずのない声が、なんか今俺の鼓膜を震わせたような?
出来損ないのからくり人形みたいな動きで、ギギギと後ろを振り向く。
「こんばんは、ゼータさん。夜中に宿を抜け出るのは感心しませんよ」
そこには、風月亭の自分の部屋で寝ているはずのフェアリィさんが屹立していらっしゃいやがりました。
「おまっ、なんでここに!?」
「それはこっちの台詞です。なんかゼータさんが家から出てくから何事かと思えば、ここに向かってたんですから」
どうやらつけられていたらしい。気付かなかったとは、不覚としか言いようがない。猛獣などの気配に気を向けていたからだろうか。
「だけど、途中で引き返せよ。夜の森が危険って事くらい、お前もわかってんだろ?」
意識して、やや厳しい口調にする。実際、命の危険もあったはずだ。運良く辿り着けたからいいものの、途中で獣に襲われても決しておかしくなかった。俺が気付かなかったのも悪いが、こいつは危機感が足りない。
「それなら大丈夫です。こんなこともあろうかと、今回は獣避けの匂い袋を持ってきましたから」
「……それだって絶対じゃないだろ」
フィーが懐から取り出したのは、ツーンと来る匂いを発する袋。嗅覚の敏感な獣はこの匂いを嫌い、まず近付かないという一品だ。
「ったく。とにかく、来ちまったのは仕方ない。一人で帰れって言うわけにもいかんし……とりあえず、昼間みたいに暇潰してろ」
「はーい」
邪魔なのは自覚しているのか、意外と素直に引き下がる。ってか、なんでこいつはついて来たんだ。帰ったら、やはりガツンと叱ってやらねばならないだろう。
……そーゆーのは苦手なんだがなぁ。
しばらく無言の状態が続く。フィーがこちらをチラチラと気にしている気配は感じるが、無視する。用があるなら、そのうちあっちから話してくるだろう。
「……ゼータさんは」
ほれ来た。
「ゼータさんは、その向こうにあるものを手に入れたら、王都に帰るんですか?」
「は? なんで俺の実家が王都にあるって知ってんだ?」
俺は話した覚えがないぞ。
「アルさんといろいろ話してたじゃないですか」
そういえば、アルに王都の様子を聞いたりしていた。ちょっと生まれ故郷の様子を聞きたかったからなんだが……
「聞き耳立ててたのか?」
「はい」
あっさり肯定しやがった。盗み聞きはよくないと思うぞ、フィー。
「それに、なんでもゼータさんがこの秘跡に篭っているのは、なにかが隠されているから、ですよね?」
「それも聞いてたのか。……まぁ、そうだ。多分、この向こうにあるだろ。封印さえ解けば、手に入るはずだ。まぁ、その事に関してはお前の強運に感謝だな。フィーが見つけなきゃ、しばらく見つかんなかっただろうし」
「別に、強運なんかじゃないです」
なにかフィーが言った気がしたが、うっかり聞き逃してしまった。
「え? なんだって?」
「なんでもありません。それより、その封印って、解くのにどれくらいかかるんです? 一ヶ月くらいですか?」
「阿呆。この俺を舐めるなよ。今晩中にケリをつけてやる」
「そう、です……か」
なにやら意気消沈した声を出すフィー。
「なんだよ、どうした。なにか俺、お前を困らせることでも言ったか」
「別に。ちょっと眠いだけです」
そっぽを向くフィーは、どう見ても眠そうには見えない。いや、眠いのかもしれないけど、さっき見る見るうちに沈んだのはそんな理由じゃないはずだ。
「嘘付け。なにが気に入らなかったんだ? ほれ言え、やれ言え。このままじゃ気持ち悪いだろうが」
「もう、しつこいですよ。このセクハラ大魔神さんが!」
「セクッ!? お前なぁ。いつ俺がセクハラしたよ」
しかも全然話が繋がってねぇ。
「わたしのスカートの中覗いたり、胸触ったりしました」
「どっちもすぐお前報復に出ただろうが……てーか、お前が勝手にしたんだろうが!」
少なくとも、どちらも俺の意思は介入していなかった。まぁ、ラッキーとは思ったが、それだけ。俺を欲情させるには、フィーは少々年齢が足りない。俺は年上好きなのだ。オリヴィアさんは勘弁だけど。
「一万歩譲ってそうだとしても、さっきのしつこさはそれだけで十分セクハラです」
「冤罪だ! 再審を要求するー!」
「ゼータさんとわたしの間では、わたしが常に正しいんです、正義なんです」
どこのトンデモ理論だ、それは。
そんな感じで言い争っているうちに、いつの間にか最初の論点が曖昧になっていた。
……本当、なんで気落ちしてたんだろ、フィーは。
まぁ、俺がそれを知るのは、もうちょっと後だったり。