翌日。

 いくら気まずくとも、落ち込もうとも、朝は当然のようにやって来る。

 フィズと顔を合わせづらいクレスは、いつもより早く起き、パンを焼きに出ようとする。

「……あ」

「……む」

 しかし、お互い同じ事を考えていたらしい。

 思い切り、寝起きのフィズと遭遇してしまった。

 彼女は、身長ほどもある大剣――エレメンティアを手に、これから鍛錬のようだ。例の“侵食”の日が近いせいか、その佇まいはいつもより殺気立っている気がする。

「その……昨日は、ごめん」

 何を喋ったら良いかわからず、無言のフィズの視線に堪えかねたこともあり、そう言って頭を下げる。謝っているように見えて、これはただ単にフィズから逃げようとする心理の現われに過ぎない。

 クレスの葛藤など、知りもしない当のフィズは『ん』と短い一言だけを返して、すい、とクレスの脇を通り過ぎる。

 どこか足早。いつも、動作の一々にきびきびした印象を残すフィズだが、今のそれはなにか慌てているように見える。この場から、一刻も早く立ち去りたがっているような……

 それも当然か、とクレスは嘆息した。

 フィズの協力の要請を、完膚なきまでに断った。彼女の信頼を、真っ向から裏切ったのだ。冷たい態度も当然といえる。その位してもらわないと、クレスとしても逆に落ち着かない。

「でも、仕方ないよな」

 だが、それ以外どう対応したらよかったのか、と聞かれれば、返答に困る。例え言い方を変えたとしても、断る事に変わりはない。

 自分は自分の命が一番可愛い、平凡な一般人なのだ。できれば争いとは無縁の生活を送りたいと思っているし、事実フィズが村に訪れなければそうなっていただろう。

クレスにとってフィズは、日常に紛れ込んだどうしようもない異分子なのだ。フィズの事を、好ましいとは思っていても。

暗い顔になりながら、クレスはパンの生地を抱えて窯へ歩いていく。

通りすがる村の人たちに挨拶することも億劫で、会釈だけで済ませる。

普段は礼儀正しい教会の息子の元気のなさに、すれ違った人は心配そうに話しかけるが、それに答えるだけの元気はクレスにはない。

パンを焼いている間も、いつもなら他に焼きに来た人たちと談笑するのだが、今日は話の輪から少し距離をとって、ぼーっと窯の様子を見ていた。

「ちょっと、どうしたのさ?」

 世話好きなおばさんの一人が話しかけてくる。今までどおり、なんでもないです、と答えようとし、

「どっかーーん!」

「うわっ!?」

 突然、後ろから押されてつんのめった。

「うわっ、うわっ!? な、なんだ、ホリィ!」

 バランスをなんとか保って、猛然と振り返る。

 そこには、犯人のこまっしゃくれた子供が、えへっと笑いながら舌を出している。

「いや、えへじゃなくて。いきなりなんなんだよ」

「え〜。だって……」

「だってじゃない。なんでいきなりタックルされにゃならんのだ」

 拳骨をホリィの頭に置き、ぐりぐりと押す。

「うあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」

 痛そうな、それでいてどこか楽しそうな悲鳴(?)を上げるホリィ。

 適当に反省したころあいを見計らって、拳をどける。

「ったく。なんなんだよ、お前は」

「だってー。なんかね、こっち来る時フィズお姉ちゃんと会ったんだけど」

「……フィズと?」

 ピクリ、と反応してしまう。それを目敏く見つけたホリィは『やっぱりっ!』と叫んで二度目のタックルを仕掛けてきた。

 さすがに、見えていたらクレスとて子供の突撃程度軽々いなせる。向かってくる小さな体躯を適当にはたきこみ、怪我をしないよう細心の注意を払いながら転がせた。

「なんだ、フィズがどうかしたか? それは、このタックルと関係あるのか?」

 まだホリィの闘志の炎は消えていない。油断なく次の攻撃に備えながら、問い質す。

「なんか、フィズお姉ちゃん元気なかった。おっきーい剣持って、こう、ぶんぶん振ってたんだけど」

 可愛らしく、両手を右に左に振りながら、ホリィは説明する。ちなみに、ぶんぶんなどという可愛らしい擬音で表現できるような生易しい鍛錬ではなかった。

 そんな風に、事実を微妙に自分視点で説明するホリィの話を要約するとこうだ。訓練中のフィズに出会ったホリィは、まずおはようと声をかけた。いつもなら、すぐに気がついて挨拶を返してくれるのに、フィズは三度呼ぶまで気がつかず、挨拶もどこか張りのないものだった。どうしたの、と尋ねると、いや別に、と答えられたのだが、しつこく問い質すと『クレスの奴が……』なんて言って、難しい顔になった。

「……それで?」

 説明しつつも二度三度と攻撃してくるホリィをかわしながら、続きを促す。

「クレスお兄ちゃん、フィズお姉ちゃんになんかしたんでしょう! あたしが、天に代わって天誅を!」

「憶測だけで行動するのは良くないぞ」

 八度目の突進を躱す。さっきから必死で突撃してくるホリィだが、その攻撃は見事なまでに直線的だ。今日び、猪だってもう少し曲がってるだろう。当然、クレスは余裕綽々で対応できる。

「じゃあ、違うの?」

「……いや、違う、とは言い切れないかもしれないが」

 痛いところをつかれ、一瞬うっと詰まる。

「ほらやっぱりっ!!」

 その一瞬の隙を突き、ホリィが今までにないスピードで接近し、

「うお、っととと!?」

 頭から、クレスの腹に突っ込んできた。勢いを殺しきれず、クレスは尻餅をつく。

 流石に顔を顰めて、クレスは厳しい声を出した。

「コラ。危ないだろ」

「エヘヘ」

「……ったく」

 悪びれもせず笑うホリィに嘆息して、その頭にぽふっと手を乗せた。

 そのまま髪を梳いてやると、微妙に癖のある短髪が指に絡みつく。それが気持ちいいのか、ホリィはまるで猫のように目を細めた。

「あのねー。なにがあったのかは知らないけどさー。お兄ちゃんとお姉ちゃん、仲良くしていた方がいいよー? クレスお兄ちゃんが悪かったんなら、すぐ謝ってさー、また遊んでよ」

「そうだな……」

 どうやら、この子供はクレスを元気付けようとあんなにもはしゃいでいたらしい。

 どっちが年上なんだか、と自分を叱咤しつつ、励ましてくれた礼にと、クレスは続けて髪を撫で続ける。

「んふー」

 この娘にとっては、兄と姉が喧嘩しているような気分なのだろう。生まれた頃からホリィの兄貴分を自負しているクレスはもとより、短い付き合いながらもフィズとは相応の関係を築き上げている。

 今は昔、まだホリィが物心をつくかつかないかくらいに家を出て行ってしまった、実の姉の代わりに。

 嫌な顔を思い出して、クレスは思わず呻いた。と、同時に今自分がいるのは共同窯のところだという事を、今更ながら思い出す。

「相変わらず、仲がいいねぇ」

「……いえ、別に」

 からかうような響きの混じった声に、クレスは曖昧に言葉を濁して誤魔化す。

「さて、と」

「あ、フィズお姉ちゃんに謝りに行くの?」

「いや」

 立ち上がったクレスは、首を振る。

「別に、僕は間違った事を言ったわけじゃないって思ってる。もちろん、フィズも正しい事を言っていると思う。だから、単純に謝るようなことはしたくないんだ。きっと、それは間違いだと思うから」

「んん?」

「ま、そんなわけで、今は僕に出来ることをして、関係の修復を計ろうかってね」

「できること、って?」

 決まっている、とクレスは窯の方に近付きつつ、事も無げに答えた。

「美味しいご飯を作って、フィズに『おかわり』って言わせることさ」

 

 

 

 

 村中に頭を下げながら、いつもより多い食材を集めつつ、クレスは自分の発想にため息をつく。

(食べ物で釣る……って、いくらなんでも安直過ぎないか?)

 思いついたときは素晴らしいアイデアだと思われたが、あまりにもフィズの事を舐めた懐柔方法だと言わざるを得ない。あれだけ明確に拒絶しといて、美味しそうな匂いでも嗅がせれば近付いてくるとでも思っているのか?

 ……思っている。間違いなく。

「だって、前喧嘩してたときも、なんだかんだでご飯だけは食べていたし」

 自分に言い訳するようにそんな事を言いながら、クレスは次の農家に向かう。

 あまり遅くなるわけにもいかない。パンは暖かいうちの方がずっと美味しいので、手早く調理を済ませる必要があるし……しまった、こんなことなら家を出る前に下拵えを済ませておくんだった。

 あっちを立てればこっちが立たず……と、クレスは懊悩する。

 こういうとき、もう一人ぐらい人手がいれば大助かりなのだが、生憎と心当たりはない。神父は、台所には完全に立ち入り禁止にしたし、ホリィはまだ手伝いより足手纏いになるレベル。フィズ本人に頼むのは腕以前の問題で、他の知り合いの女性たちも自分たちの朝食の準備に忙しいだろう。

 結局、自分一人で用意するしかないわけである。

 駆けずり回って、なんとか食材を揃え、ダッシュで教会に戻り、台所に飛び込む。

「……遅いぞ、クレス」

すでに帰ってきたらしいフィズが、声をかけてくる。普段よりずっと遅い帰宅のクレスに、視線を一つやって文句を言う。

「ごめん。ちょっと待ってて」

 その言葉も、相変わらず張りのないものだったが、クレスは元気よく返して厨房に立つ。

 今まで培った全ての技術を叩き込む勢いで、朝食を作っていく。

 食材をトントンと切る音。鍋をぐつぐつ煮込む音。フライパンを炒める音。

 途端に、良い匂いが漂い始め、その香りに惹かれたのかフィズがひょいと顔を出した。

「何を作っているんだ……?」

「まぁ、出来上がるまで待っていてよ。なるべく早く仕上げるからさ」

「……朝食にしては、随分豪華に見えるんだが」

「うん」

 頷きながらも、鍋をかき混ぜる手に淀みはない。ちょっとした合間に、野菜を手で千切ってボウルに放り込んでいく。

「ちょっと、ね。昨日は、フィズを怒らせちゃったみたいだし、お詫びってわけでもないんだけど……」

「……なにを言っている。わたしは、怒ってなどいない。お前の言い分の方が筋が通っている。訓練も受けていない魔法士を実戦に投入しようとしたわたしの方がどうかしていた」

 そっぽを向きながら、そんな風に言うフィズは、クレスから見るとどうしても怒っているようにしか見えない。

 しかし、それを指摘するとますます意固地になりそうだったので、クレスはあえてそれを否定するような事をせず、素直に頷いて見せた。

「わかった。じゃあさ。村を守ろうとしてくれているフィズへの激励、ってことでどうかな?」

「べ、別に、これがわたしの務めだというだけだ。このような事をする必要は……ない」

「そっか。でも、途中まで作っちゃったし」

「……早くしろよ。腹が減った」

 クレスから逃げ去るようにフィズは顔を引っ込めた。

 だけれども、クレスはしっかり見ている。フィズが、豪勢な料理を目にした途端、目を輝かせていた事を。

 やはり間違っていなかったと一人得心しつつ、次の仕込みに入る。

「でも……」

 『村を守ろうとしてくれている』とは、自分で言ったことだが……逆に言えば、フィズが守らなければ、あるいは守れなければ、村は壊滅してしまう。そして、フィズは今回の仕事が、初めてだと言っていた。

「大丈夫、なのかな……」

 フィズがいる、リビングの方を見る。

 漠然とした不安が、クレスの中にわだかまり始めた。