黒い影と対峙するクレスは、背中に嫌な汗が流れるのを感じていた。

 魔物。名前だけは何度も聞かされている。レヴァ教の正典には何度もその言葉は出てくるし、そうでなくとも『侵食の尖兵』と言われる魔物は、人類の敵として、殆どの人間が知っている。

 しかし、実際に会ったことがある者、となると途端に数は減る。

 理由は簡単だ。魔物と会った者は、大抵死んでしまっているから。魔物を見たことがあり、さらに生きている者、となると、“侵食地域”の拡大を防いでいるファルヴァント王国の精霊騎士団か、神聖オレアナ国の法術士、そして両国が雇っている魔法兵団くらいのものだ。そういった、魔物と対抗するべく訓練を積んだ人間でないと、逃げ切ることすら出来ない。

 “彼ら”の生態はいまだに明らかにされてはいない。しかし、昔からの経験で、いくつかわかっていることがある。

 一つ。“世界の外側”からやってくる、人類の敵だということ。一つ。放っておくと、すぐに増えてしまうということ。一つ。剣や弓など通常の武器では絶対に傷つけることが出来ず、唯一ダメージを与えられるのは精霊による攻撃――つまり、魔法か法術だけであること。

 今、一番重要なのは三番目だ。

 この村で、魔法を使えるのはクレスだけ。法術は、ラス神父は使えないし、法術士ではないと言っていたからフィズも使えないだろう。

 いきなり目の前に魔物なんていう化け物が現れたことには驚いたを通り越して呆然としたが、しかしフィズの言ったことはしっかりと覚えている。

『わたしが戻るまで、ここでヤツの足止めをしろ』

 フィズは、みんなを逃がそうとしているのだろうか。しかし、コイツは放っておいたらどんどん増えていき、下手をしたらこの国全体が“侵食”されてしまう。

 ここで、倒すしかない。

 そして、それが出来るのは、この村において自分しかいない。

 正直に言えば、逃げたい。怖くて足が震える。どうして自分が、と怒りを覚える。

 しかし、だ。

 ここで逃げても、絶対に逃げ切れない。絶対に追いつかれて、殺されてしまう。

 突然襲い掛かってきた理不尽から逃げない理由は、それが全てだった。別に、この国を守るだとか、魔物は放っておけないとか、そういう大義名分は一切ない。ただ死にたくないから、目の前の脅威を払うだけ。

 多分、人間としてとても正しい理由でもって、クレスは目の前の魔物を打倒するべく、震える声で必殺の命令文(コマンド)を叩き込む。戦闘開始だ。

「“水の精よ”!」

 近くに川があるので、水の気を集めるのに苦労はない。出来うる限りの数を集め、それを意志の力で無理矢理留める。

 意志があるのか、ただの自衛本能か。集まっていく水の精霊に反応した魔物は、まるで滑るように迫ってくる。突然視界いっぱいに拡大してくる異形に、クレスの精神は一気に混乱する。

「っっ!? “弾けろ”!」

 突然の襲撃に慌てたクレスは、無様に転がって避けつつ、咄嗟に集めた水の精を開放した。

 せいぜい握り拳程度の水の散弾。普通の人間に当たっても痛みすらないくらいの貧弱な魔法。しかし、それがぺしゃ、と当たると、明らかに魔物は怯んだ。攻城砲の一撃にも何の痛痒も感じない魔物が、たかが水程度に。

 転がってうつ伏せに倒れた体勢のまま、自分の魔法の結果を見ていたクレスはそれを見て、恐怖が少し薄れる。魔物が、魔法に弱いというのは、どうやら本当らしい。

「よし、いけっ……!?」

 しかし、あの程度の魔法ではやはり大したダメージはないのか、魔物は続けて襲いかかってきた。鉤爪のように鋭く尖った指をクレスに叩き込もうと、疾駆する。

今度は、魔法を使う暇などない。魔法は、命令文(コマンド)を唱えなければならない、という決定的な弱点を持っている。逃げ回りながら、なんとか命令文(コマンド)を構成するしかない。

 二ワーズの魔法で――しかも、攻性を殆ど持たない命令文(コマンド)で、あれだけ怯んだのだ。魔法は、ワードが増えれば、倍々に威力は上昇する。大きな支配力を持っていても、精霊を呼び込む命令文(コマンド)がないと、意味がないからだ。無論、自身の支配力を超える精霊を呼ぶことは出来ないのだが。

……とにかく、クレスの最大の五ワーズの魔法ならば、かなりのダメージが見込めるはずだ。

「“地の精よ”!」

 ごろごろとみっともなく転がりながら魔物の攻撃をやり過ごし、なんとか一ワード目。片膝立ちに、右手を地面につけて唱えると、周りの土がクレスの意志に従って一箇所に集まっていく。

「“集い”」

 さらに集まる土の量が増える。

 その頃、人間と同じような体躯を持つ魔物は、攻撃を外してたたらを踏んでいる。いくら超常的な存在とは言え、この世の理に支配されないわけではないらしい。あれだけのスピードで走れば、勢いで体勢を崩すのは当然。

 それでもやはり、人間とは基本性能が違う。腕で無理矢理泊まったかと思うと、たった一蹴りで、五メートルは離れていたクレスに肉薄してくる。

「あっ……!」

 振り回された魔物の腕に吹き飛ばされる。川原の砂利の上を転がり、そこかしこに擦り傷が生まれる。肌が露出している腕が特にひどく、決して浅くない傷も多い。叩きつけられたので、打ち身になっているところもあるだろう。

 だが、命の危険から興奮状態にあるクレスは、それに痛みを感じない。天地が逆転したような感覚の中、必死で口を動かす。

「“固まり”」

 三つ目。その意図するところを正確に伝えられた精霊たちは、ただの土くれから、より密度を増して強度を高めていく。形状は円錐。これも、クレスのイメージ通り。魔法は、基本的に命令文(コマンド)以上に、術者の意志によってその形態を変える。

 その頃、転がっていたクレスはやっと止まり、ふらふらと立ち上がった。

「#%$#%#!」

 意味不明の言語らしきものを口にしながら、魔物が一足飛びに間合いを詰めてくる。

 “彼”なりに、クレスの魔法に脅威を感じているのか、やけに人間的な、慌てたような仕草だ。ひぅ、と恐怖の声を上げる暇もあればこそ、クレスは避けようとして、倒れこみそうになり、

「ぐがっ……!?」

 とてつもない力で、首を掴まれた。息が詰まる。意識がふっと遠くなり、魔法を維持する集中力が途切れかける。

 必死で魔物の腕を掴んで抵抗しようとするが、絞められる力は一向に弱まらない。どころか、どんどん強くなっていき、首にその指がめり込んでいく。このままでは窒息する前に、首の骨が折れそうだ。

(やっぱり、駄目、なのか)

 なけなしの勇気を振り絞って立ち向かったものの、やはり魔法が使えるだけの一般人では、魔物を打倒することはできないのか、と絶望する。

 無力感が体を包む。ここまで彼を突き動かしてきた熱いものが、急速に冷え込んでいく。ズキズキと、今更擦り傷が痛んできた。

 ふと、涙が流れる。

 死にたくない、死にたくない、死にたくない。

 心が叫ぶ。クレスの理性も全力で賛同した。

 こんなところで、理不尽に死にたくない。こんな化け物に殺されるなんて、許容できない。まだ……まだ、何もしていないまま、死ぬなんて絶対に、嫌だ。

 諦めかけた精神が首をもたげる。

「つっ……」

 首に食い込んでいる魔物の指を、無理矢理引き剥がしにかかった。

 全力。それでも、ほんの僅かに圧力を弱めることしか出来ない。

 しかし、僅かにでも空気が流れれば、

「つら……」

 あと、たった一言、叫ぶことが出来れば、魔法は発動する。今まで生きてきた十七年と、これから在る何十年かの未来。それを考えれば、たった一言だ。

 クレスの全てが、その一言を叫ぶために動く。生命の危機に肉体はリミッターを外し、ほんの数瞬、ありえない力を生む。精神はいつになく冴え渡り、魔法の威力を高める。

 そして、瞳はこれから打倒する敵を全力で見据えた。

「つ――――――“貫け”!」

 その声は、何時になく高く響いた。

 土の円錐――否、槍はその宣言の直後、秒と待たずに魔物に迫り、

「#%!&*&<#&―――――!!!」

 耳障りな絶叫と共に、クレスの首にかかった圧力は消え去り、彼は地面に倒れこんだ。

 半分暗くなった視界で、クレスはなんとか自分のした結果を見つめる。

(やっ……た)

 魔物は、腹のところを背中から円錐にぶち抜かれている。下手をしたら、魔物につかまれていたクレスも貫かれていただろうが、そうはならなかったのは結果オーライだった。

「あ、れ?」

 しかし。

 やはり、魔物とは通常の生命から一線を画した存在らしかった。

 重要な内蔵器官が詰まっているはずの腹部を貫かれていながら、まだ殺戮の意志に衰えが見られない。

 魔物は、倒れ付しているクレスに、無慈悲にその腕を振り上げる。ダメージからか、それともクレスの時間感覚が狂ったのかそれはとても遅く見えた。

 あぁ、死ぬな、とクレスが加速した思考で認識する。もう指一本動かせない。目の前の脅威を退ける術がない。

 そして、魔物は無抵抗な獲物へと掲げた腕を一気に振り下ろし、

「クレスっ!」

 風のように飛び込んできた影に、頭部を切断された。