瞼を照らす光によって、クレスの意識は徐々に浮上してきた。

 結局、あれから色々な意味で悶々として、なかなか寝付けなかったので、正直まだまだ布団にへばりついていたいのだが、そうも言っていられない。

 一度、気合を入れて、体を起こす。

「ふぁ……」

 欠伸を噛み殺しつつ、家の外へ。

 井戸から水を汲み上げ、顔を洗う。キリリと冷えた水によって、頭は一気に覚醒した。

「すぅぅ〜〜〜。はぁぁ〜〜〜」

 深呼吸を二度、三度。朝の空気を思いっきり吸い込むと、体が新しく生まれ変わったような感じがする。

 軽く柔軟をして、体をほぐすと、だいぶ本調子に戻ってきた。睡眠不足のせいか、少々体がだるいが、このくらいなら許容範囲内だろう。

 クレスは、台所に向かい、昨日から寝かせてあるパン生地を手に取った。

「行ってきます」

 ラス神父は、この時間にはまだ眠りの中なので、誰も受け取る人のいない挨拶。しかし、やはり出かけるときはこう言わないと落ち着かない。

「うん。いってこい」

 普段はそうなのだが。

 今日は、もう一人、起き出している者がいた。

「ふぃ、ふぃふぃ、フィズ?」

「ああ。おはよう」

 昨日、脱衣所を覗かれた記憶がフラッシュバックする。

 顔がトマトのように真っ赤になり、身悶えしているクレスとは裏腹に、フィズは完全に素だ。昨日、彼の真っ裸を目撃した者の反応ではない。せめて、もう少し慌ててくれれば、クレスもなにか反応のしようというものがあるのだが。

「あ、朝早いんだね」

「いや、やはり疲れていたのか、少し寝坊した。大体、お前の方が早起きだろう」

「そ、そっかぁ。あ、あははは」

 ぎこちない会話だとは自分でも重々承知しているが、顔が引きつるのが抑えられない。

「顔が赤いぞ。なにかあったか?」

「なにか、って……」

 段々と自分だけが慌てているのが馬鹿みたいに思えてきた。

「そういえば、出かけるんじゃないのか?」

「ああ。共同窯に、パンを焼きにね……」

 先ほどまでの爽やかな気分は吹っ飛び、なにか肩にずーんと重いものを感じながら、クレスは答えた。

「ああ、朝食の準備か」

「そう。この村じゃ、毎朝、共同窯で村のみんなのパンを焼いているから」

 都では専門のパン屋がいるという話だが、このスターニング村ではパン生地はそれぞれの自家製だ。それを、村の外れにある共同窯で焼く。あまり出来は良くないかもしれないが、各家庭で随分と味が違い、出来上がったパンを交換し合ったり、レシピを教えあったりするのが楽しい。

 そういった仕事は大抵女性の仕事なのだが……この家は男所帯だし、必然的にクレスがやることになる。お陰で、奥様方の評判は無闇に高い。

「じゃ、改めて。行ってきます」

「ああ」

 フィズがいることから、普段の二倍ほどの量の生地を抱えて、クレスは共同窯へと歩いた。

 村の外れ、とは言っても、同じく村の中心からは離れたところに位置する教会からはそれほど遠くない。五分も歩かないうちに着いてしまう。

幾筋かの煙が立ち昇っているのが見える。その根元では十人ほどの女性が楽しげに話していた。

「お早うございます」

「ああ、クレスくん。お早う」

「お早うー」

 挨拶をしながら、次に焼く釜の元へ行き、持ってきたパン生地を入れる。何人か分集まったら火をつけるのだ。

 それまでの間は、世間話をして過ごす。

 ……のだが、今日はなにやら趣が違っていた。奥様方は、クレスを遠巻きに見て、ひそひそと話している。

 なんだろう、と馴染みの一人に尋ねてみたら、

「昨日から教会にお客さんが来たんだって? なんか、村中の噂になってるよ。なんでも、綺麗なお嬢さんだとか?」

「そうですけど、一体誰に聞いたんですか?」

 いくら小さな村とは言え、昨日の今日だ。しかも、少なくともクレスは誰かに話した覚えはない。噂が広まるには早すぎる。

「ホリィちゃんが見たって話してくれてねー。なんか、遊ぶ約束したんだー、って嬉しそうにしてたわよ?」

「あ〜、そっか」

 ホリィは、明るくて人懐こく、まるで独楽鼠のごとくちょろちょろと走り回る子供だ。小さな子の少ないこの村では、大層可愛がられている。きっと、昨日のクレスの家から帰る途中、色んなところに寄って、フィズの事を話したんだろう。

 まぁ、それはそれで、説明する手間が省けた、とクレスは苦笑する。

「ええ。昨日の夕方、うちに来ました。なんでも、教会の人らしくて。フォルトゥーナ・ルヴィズス、っていう子です」

「へぇ」

「ちょっと無愛想ですけど、いい子だと思いますから」

「クレスくんがそう言うなら、安心だけど……。一度、集会に顔を出してもらったほうがいいんじゃないかしら?」

 スターニング村の集会は、月に一回、教会で行っている。主に、村の親睦を深めるのが目的で、ぶっちゃけて言うと集会とは名ばかりの乱痴気騒ぎである。丁度、一週間後に、次の集会は行われる。

「そうですね。話しておきます。……っと、そろそろ、この窯に火を入れますよ」

 話しているうちに、数人分のパン生地がクレスの入れた窯に揃っている。

「“火の精よ”“燃やせ”!」

 指先に集まった火の精霊を使い、窯に火を付ける。

「いつものことながら、便利ねぇ」

「あまり、朝から使うべきじゃないんですけどね。つい、楽で」

 苦笑する。手っ取り早いのは確かだが、これから一日、色々な場面で魔法は使う。節約しながら使わないと、すぐにバテてしまうのだ。肉体的な疲労とは違い、魔法の力――魔力は、寝ないと回復しないので、いつも気を使う。

 昨日、風呂を沸かすために使ったが、普段はそんな余裕など残らないのが普通だ。

「そういえば、今日は土地を広げるんじゃなかったっけ? 新しく、都から買ってきた種を植えるとかで」

「そうなんですよ。あれは、一発で疲れるから、嫌なんですけどね」

「ったく。うちの宿六ども。クレスくんがいなくなったら、どうする気かしら。たまには、自分らでやれってーの」

 腕を組んで、夫の悪口を言う女性に、クレスは笑いながら、

「まぁ、別に僕は村から出て行く気はありませんし。少なくとも、あと何十年かは大丈夫ですよ」

 と、フォローするのだった。

 

 

 

 

 

 まだ熱々のパンをかごに入れて持ち帰る。

 都会で流行っている白パンのような洗練された味はないが、雑穀を混ぜ合わせて作ったクレスお手製の黒パンも、これはこれで味わい深いものがある。それが焼けたてならなおさらだ。

 日々、配分を研究し、最近やっと納得のいく味が出せるようになった。欲を言えば、火加減にもこだわりたいところだが……みんなで使っている窯なので、あまりわがままを言うわけにもいかない。燃料もタダではないのだし。

 帰りに、何件かの家に寄る。鶏を育てている家と、牛を飼っている家。いつも通り、いくつかの卵と牛乳、バターを譲ってもらい、代わりにパンを手渡す。フィズが来た事で少し多めに頂くことになったが、馴染みのおじさんたちは快く譲ってくれた。

こういう小さな村では助け合いの精神が重要。家畜は、育てるのに手間がかかるので、いくつかの家が専業でやっているのだ。その代わり、その他に関しては、他の村人が手伝うことになっている。

 そして最後に、家の前で育てている野菜をいくつか見繕って収穫して、台所に帰った。

「? フィズは、いないのか」

 出かける前には確かにいたフィズがいなくなっている。ラス神父は、朝食の匂いが漂ってくるまで起きてこないし、台所にはクレス一人だ。

「部屋に帰ったのかな」

 あとで呼びに行けばいいか、と思って、朝食の準備に入る。

 準備と言っても、パンとバターを切り分けて、収穫した野菜をサラダにし、あとは卵を茹でるだけだ。牛乳も木のコップに入れて、三つ並べる。

 ゆで卵も三つくらいならすぐにできる。小さな鍋を火にかけ、ぽいぽいぽい、と卵を放り込んで待つこと十分。その頃には、パンの香ばしい香りを嗅ぎつけて、ラス神父が起きてきていた。

「お早う。クレスくん。ああ、今日も美味しそうですね」

「神父。言いながら、早速食べようとしない」

「いいではないですか。私は、昨日のお昼を食べてから、何も食べていないのですよ。いい加減、限界です」

「僕はいいけど、フィズがどう言うかな。昨日見た感じだと、どうも食事に関してはうるさそうだよ」

 フィズの名前を出すと、ラス神父はぐぅ、と押し黙った。やはり、フィズには弱いようだ。

 しかし、同時にぐぅ、と情けない音がラス神父の腹から聞こえた。

「……クレスくん、やはり私はお腹が空いた」

「ちょっとフィズを呼んでくる」

 ラス神父のすがるような声を黙殺して、クレスはフィズの部屋に向かった。

 部屋の前に立つと、昨日よりはマシなものの、やはり緊張感が先立つ。しかも、昨夜の出来事がどうしても忘れられないせいか、知らず顔が赤くなってきた。

 しかし、フィズ本人がこれっぽっちも気にしていないのだ。こっちばかり気にしていても仕方がない、と朝一でフィズに会ったときと同じ考えでもってクレスは自分を鼓舞し、ノックをした。

「…………」

 もう一度。

「……フィズ?」

 返事がない。じっ、と気配を伺ってみるが、そもそも部屋に誰もいない気がする。

 少し逡巡してから、クレスは思い切って扉を開けた。

「は?」

 パタン、とドアを閉める。

 一瞬、すごい光景が見えた気がした。さっきのはなんの幻覚だ? と、クレスは現実逃避をする。

「……あ〜」

 しかし、見ないままにしておくことは、クレスには不可能だった。なんていうか、主夫的に。

 痛くなっていく頭を抑えながら、意を決してもう一度ドアを開ける。

 そこに広がっていたのは、混沌としか表現できない惨状だった。

 まず、床には服が散乱している。中心にあるズタ袋から手当たり次第に引っ張り出したのだろう。それにしても、もう少し纏めると言うことが出来なかったのだろうか。

 そして、ベッドのシーツは見事にしわくちゃになり、服と共に床に転がっていた。敷布団は敷布団で、ベッドの上で捻られている。カーテンに至っては、なぜかちょうちょ結びにされていた。

 決して、散乱している衣類は多くないのだが、部屋も狭いので、ものすごく散らかっている印象がある。確か、昨日の時点ではきちんと整理整頓され、シーツも皺一つない状態だったのだが。

「フィズが、散らかした、の、かな?」

 震える声で、クレスは声に出して確認する。

 しかし、わざわざ確認するまでもない。昨日から、この部屋の主は転がっているズタ袋の主でもある、フィズになったのだ。彼女以外の誰がこの惨状を作り出せるのか。まさか、泥棒が出たわけじゃあるまいし。

「……案外、ズボラなんだな」

 なんとか、そう結論付けた。ズボラの一言で片付けられないものを、この部屋の様子から感じ取ったが、あえて無視する。未だ、クレスの中には、突然村にやって来た少女に対する幻想めいたものが残っているのだ。こういう現実は、見てみぬ振りをするに限る。

 一応、後で注意しておくことにして、クレスはその場を後にした。あまり見ていると、精神に障害が起こりそうだった。

「どうしたんだい。フォルトゥーナ様は?」

「いや、部屋にいないんだよ。どこ行ったんだろ」

 少なくとも、家の中にはいないようだ。そうすると、外に出た事になるのだが……と、考えたところで、家の裏にある井戸の辺りから、水が流れる音がした。

 ラス神父は目の前にいるし、村の人がわざわざ外れにある教会の井戸を使いに来るとは思えない。と、なると、犯人は決まったようなものだ。

 クレスは、台所の窓から、ひょい、と井戸のある場所を覗き込んだ。

「フィズ?」

「ん? どうした、クレス」

「どうしたって、どこ行ってたんだよ。もう、朝食の準備は出来て……」

 と、そこでクレスは気が付いた。

 フィズは、井戸の水を頭から被っている。多分、汗でも流しているんだろう。そして、フィズが着ているものは、薄手のシャツ一枚。当然のように、シャツはぴったりと肌に張り付いてしまっている。

 今は背中を見せているので、まだ被害は小さいが……これは、マズイ。

「ああ、すまない。日課の鍛錬をしに行ってたんだが」

「う、うわああああ!? ふ、振り向いちゃ駄目ええええええ!」

 光速で視線を逸らして、バタバタと家の奥に走る。

 数秒もしないうちにタオルを引っつかんできて、窓からフィズのところに投げた。目をきつく閉じて。

「は、早く拭いて! そして、着替えて!」

「わかった。じゃあ、食事はその後に頂くとしよう」

 わしゃわしゃと髪を拭きつつ、フィズが玄関に向かう。

「神父も! フィズ、ここ通るんだから、目を閉じて!」

「ど、どうしたんだい、クレスくん。フォルトゥーナ様が、なにか……」

「いいから! 神罰が下るよ!」

 それは大げさだが、神父もクレスの本気がわかったのか、渋々と目を閉じる。それを確認してから、クレスも再び目をきつく、きつく閉じた。このまま失明してしまえと言わんばかりに。

「なにをしているんだ、二人とも」

 それを見たフィズは、そんな言葉を漏らして、部屋に帰っていく。

 遠ざかっていく気配を感じて、クレスはやっと肩の力を抜いた。

「ま、ったく。少しは、恥じらいとか持って欲しいなぁ」

「……ははぁ、なるほど。クレスくんは水を被ったフォルトゥーナ様の艶姿を見ていられなかった、というわけかな」

「そういうこと」

「なるほど。確かに、あの方はどこか浮世離れしているしね。しかし、それはともかくクレスくん」

 ラス神父は、訳知り顔で頷き、それは脇に置いておいて、と手を動かした。

「結局、私はまだ朝食にありつけないのかい?」