ホリィが帰った後、クレスは夕飯の支度をしていた。

 今日は思わぬお客が来たので少し多めに作らなければならない。先程釣ってきた魚を焼き、ハーブや野菜を煮込んだソースをかける。サラダとスープを手際よく作り、朝作ったパンの残りを軽く温める。

 ちょっとしたご馳走だ。

 パンが少ない気がするが、それは神父に割を食ってもらうことにしよう。

 うむ、と一つ頷くと、クレスは自分とフィズの皿に黒パンを三切れ、神父の皿に一切れ並べる。

「できたよー」

 教会の方に行き、聖書を読み耽っている神父に告げる。手をヒラヒラさせて、本当に聞こえているのか、いまいち疑わしい様子で了解の意を伝えるラス神父だが、聞こえていなくともクレスは一向に構わないので無視する。

 次はフィズを呼びに行かなくてはならない。

 客室の前まで来て、少し気合を入れる。生まれてきてから今まで感じたことない種類の緊張感を抱きつつ、かすかに震える手でノックする。

 ややあって、中から返事が来た。

「誰だ?」

「僕。クレス。夕食が出来たから呼びに来たんだけど」

「ああ、少し待ってくれ。すぐに行くから」

 中から動く気配がして、ガチャリとドアが開く。

 一瞬、クレスの思考は止まった。

「ん? どうかしたか?」

「あ、いや、なんでもない」

 誤魔化すように手を振る。

なんのことはない。ただ、フィズが旅用の分厚い外套を脱いで、少し薄着になっていただけだ。

そろそろこの地方は暑くなる時期なので、フィズの格好は薄手のシャツ一枚。ほっそりとした肩や、少し力を入れただけで折れそうな鎖骨が覗いている。そればかりではなく、慎ましく膨らんでいる胸の形も見て取れた。……まさか下着つけてないんじゃ?

(って、なにジロジロ見てんだ僕は!)

 ハッ、と我に返ったクレスは、慌てて目を逸らす。同時に、頭に浮かんだ妄想も振り払った。

 そんなクレスの不審な挙動をフィズも見ていたはずだが、無遠慮に自分を見ていたクレスのことなどまったく気にしていない様子だ。

「それで、夕飯はどんなのを作ったんだ?」

「え? ま、まあ簡単なものだよ。口に合えばいいんだけど」

「そうか」

 あまり会話を繋げる気はないのか、フィズの言葉はいつもそっけない。あまり表情の変化もないので、ともすれば冷たい印象を受けることもある。

 とっつきにくい、というのか。先ほどの自分の邪な妄想を見咎められなかったのは幸いだが、それはこちらにまったく興味を持っていない証拠でもある。

 クレスはため息をついて、台所に入った。作った食事をテーブルに並べ、席に着く。

「神父は?」

「ああ、まだ教会の方じゃないかな。聖書読んでた。いつも呼んでも、来るのは遅れるんだから、いいよ。先食べちゃおう」

「わかった。じゃあ」

 フィズは胸の前で手を組んで、レヴァ神に感謝の祈りを捧げる。信者が食事前にする儀式のようなものだ。教会に住んでいるくせに、あまり信心深いとは言えないクレスは滅多にしないが、フィズに習って、久方ぶりにすることにした。

 うろ覚えの聖句を唱え、形だけの祈りを終える。

「いただきます」

 祈りを終えたフィズは、手を合わせて食事に入る。あまり使い慣れていない仕草でナイフとフォークを取ると、まずは魚に向かった。

 食事はいつもさっさと済ませてしまうクレスだったが、今はじ〜っとフィズの様子を観察する。口に合わないようなら、早めに意見を聞いて改善しなくてはならない。やはり遠くから来ている関係上、こちらの味付けに馴染んでいないだろうし。

 そんなクレスに気が付いているのか気が付いていないのか、黙々とフィズは食べている。

 クレスの心配は一分も経たないうちに解消された。その小さい体のどこに入るのか、見ているこちらが気持ちよくなるほどの食べっぷりだった。大口を開けて食べ物を頬張るフィズは、表情の変化はあまりないものの、そこはかとなく幸せそうである。ただ、少し行儀が悪い。

 フィズの周囲の人は、テーブルマナーも教えていないのか? と思いはしたものの、味に不満はなさそうなので一安心だ。

 クレスも食べ始め、半分ほどを平らげたあたりで、

「…………」

 自分の分を食べ終わって、クレスの食事を物欲しそうに見ているフィズに気が付いた。

「……足りなかった?」

「いや。普段より少ないから、少々物足りないけど。考えてみればもう歩き詰める必要もないんだから、適切な食事量だと思う」

 そういえば、フィズはここまで旅をしてきたんだった、とクレスは今更ながらに納得する。大きな街ならともかく、こんな小さな村には馬車の定期便など走っていないから、少なくとも近くの町からここまでは徒歩で来たはずだ。そりゃあ、エネルギーも多く必要だったろう。

 ただ、旅の最中は、普通そんなに沢山の食料は確保できない。

「参考までに聞きたいんだけど。フィズは、旅している間なにを食べていたの?」

「食事か? そうだな……基本的に、そこらの獣を仕留めて、丸焼きにしていた。それと、自生している果物とかな」

 猪が美味だったぞ、と嬉しげに語るフィズに、クレスは肩にずっしり重たいものが落ちてきた気がした。

 よりにもよって、獣の丸焼きと来た。そりゃあ力はつくだろうが、少し豪快すぎないだろうか。焼いた猪にそのままかぶりつくフィズのイメージを振り払いながら、クレスは残っている一食分を指差す。

「……神父の分、食べていいよ。明日からは量を増やすから、今日はそれで我慢しといて」

「だが、いいのか? それでは、ラス神父が……」

 などと言いながらも、ちらちらと神父の食事を見る目はせわしない。

「いいよ。すぐに来ないのが悪いんだ。それに、冷めちゃうしね」

「そうだな。冷めてしまっては、おいしくなくなってしまうし」

 大義名分を手に入れて、フィズは堂々とラス神父の分に手をつける。最初は遠慮がちだったが、すぐに食べるスピードは上がった。五分もしないうちに、テーブルの上の料理はすべて綺麗に片付けられる。

「それじゃ、片付けるから。フィズは部屋でゆっくりしてて」

「手伝おうか? ご馳走になってばかりでは悪いし」

 控えめに申し出るフィズに、クレスはゆっくりと首を振った。

お腹が膨れて機嫌がいいのか、フィズが少し饒舌になっているのを嬉しく思いつつ、柔らかに微笑んだ。

「いいよ。台所狭いから、二人ですると余計に時間かかる。それに、慣れてるから。フィズは今日到着したばかりなんだから、ゆっくり寝てよ」

「そうか。それじゃ、お言葉に甘えて……ああ、いや。その前に一つ聞きたいんだが」

「ん?」

 クレスは食器を片付ける手を一旦止めた。

「汗をかいて、気持ち悪いんだが。水浴びはどこですればいいんだ?」

 あまりといえばあまりのことを問われ、危うく皿を取り落とすとこだった。

「……あ、ああ、うん。そうだよね、そりゃそうだ」

 言葉尻が不自然になっているということを自覚しながら、クレスはカクカクした動きで食器を流しに入れる。落ち着け落ち着け、と己に言い聞かせつつ、意識して明るい声を出す。

「一応、内風呂があるから、それ使って。すぐ湯を用意するから」

「そうか。湯につかったことはあまりないが、クレスがそういうなら頼もう」

 彼女の故郷であるセレナ島では、あまりお湯につかる習慣はないのだろうか?

 そもそも、スターニング村以外の入浴習慣など全然知らないクレスは、そんな疑問を抱きつつ慌てて濡れた手を拭く。

「う、うん。ちょっと待ってて」

 大急ぎで浴室に入る。すでに浴槽に水は張ってある。あとは火にかけるだけだ。普段なら薪を使うのだが、フィズも疲れているだろうと、手っ取り早い方法に切り替える。

 精神を集中。頭の中が白んでいく感覚と共に、クレスの霊的な視覚に普段は見えない者たちの姿が浮かんでくる。それらは、かつてレヴァ神が世界を創造した折に生み出したもの、この世界のすべての運行を司っている“精霊”と呼ばれる存在だ。

「“火の精よ”」

 クレスが言葉に自らの力を乗せて発する。クレスの命令文(コマンド)を受けた火の精霊たちが活性化し、赤い光として肉眼でも見えるようになる。空中に浮かんでいるそれらは、さながら蛍のようだ。しかし、その光は蛍のように弱弱しいものではない。一つ一つが力強い輝きを発している。

「“熱せよ”!」

 クレスの更なる命令文(コマンド)。その言葉に込められた意志を正確に汲み取り、火の精霊たちが浴槽の水に殺到する。そして、命令に従い、その水の温度を上げていく。

 これが魔術と呼ばれるものだ。命令文(コマンド)を組み合わせ、精霊たちを使役する術。行使には術者のイマジネーションが強い影響を与えるので、やりようによってはこんな風に使うことも出来る。

 二ワーズの魔術を使ったクレスは、湯気を出す風呂を見て満足すると、一つため息をついた。片手を湯につけると、ちょっと熱めのいい温度だ。

 早速フィズを呼びに行く。

「沸いたよ。入ってきなよ」

「もうか? やけに早いな」

「まあ、ちょっと裏技使ったからね。あ、風呂場は突き当りを左だから」

 曖昧に笑って誤魔化すクレスを、フィズはちょっと不審そうに見るが、すぐにどうでもよくなったのかふいと視線を逸らした。軽くクレスに会釈すると、スタスタと浴室に向かう。

「は、あ」

 完全にフィズの足音が消えた辺りで、クレスは大きくため息をついた。緊張の糸が切れ、どっか、と椅子に座り込み、テーブルに突っ伏す。

「なんていうか、疲れた」

「どうしたんですか、クレスくん?」

「……神父」

 見ると、いつの間にか読んでいた聖書を小脇に抱えて、ラス神父が台所に現れていた。その瞬間、クレスの思考は日常モードに入る。

「ところでクレスくん。私の分の夕食はどこかな?」

「ああ、ないよ」

 きょろきょろと台所を見渡す神父に、クレスは冷たく言い放った。

「な、なんですとー!?」

「フィズがね。見た目よりずっと健啖家だったみたいで。神父の分もペロリ」

「くっ」

 フィズが原因だと知ると、神父も強くは言えないらしい。クレスは改めて、この神父があの少女を恐れているということを確認した。

「仕方ない。クレスくん、なにか軽いものでも……って、どうしました?」

「ねぇ、神父。フィズって、どういう人なのさ」

「どういう、とは?」

 どこか、惚ける様な空気。長年の付き合いから、それはわかったが、特に気にすることもなくクレスは重ねて問う。

「だって、あんなに神妙にする神父は初めて見たしさ。フィズは仕事、って言っていたけど、それに関係しているの?」

 ラス神父は、しばらく困ったように顎を撫で、

「いえ。クレスくんが気にする必要はありませんよ」

 そんな、答えになっていない答えを返した。

 珍しい。ラス神父がこういう風に誤魔化すときは、もっとふざけているのに。飄々とした瞳の奥に、なにかを隠している。それを感じつつ、それでもここでなにかを聞き出すのは無理だろうとクレスはそれ以上聞くことはしなかった。

しかし。

 きしり、と。頭の奥で、なにか嫌な予感がもたげてくるのを感じた。

 フィズ自身に問題があるわけではない。少々無愛想だが、根はそんなに悪い子じゃないと思う。

 ただ、このどちらかというと閉鎖的な村にやってきた異分子。それが、なにか悪いことの前兆だという考えが、どうしても拭えなかった。