その日は、クレス・ノートにとってなんでもない一日のはずだった。

 朝は日の出と共に起床。朝食を保護者である神父と一緒に摂って、午前中はそのまま畑の手伝い。昼食後の一番暑い時間帯は昼寝で過ごして、少し涼しくなったら近くの川に今日の夕食となる魚を釣りに行く。釣果は三匹。こりゃ、今日の夕飯は残り一匹の奪い合いだな、と呑気な思考で帰宅。

 そのまま家に帰って、料理など全く出来ない同居人に代わって包丁を振るうはずだった。

 そんな、なんでもないはずの一日は、たった一人の人間によって突き崩される。

「おい」

 呼びかけられる声に振り向く。

 いつの間に現れたのか、そこには一人の少女の姿があった。

 年のころは、クレスより三つ四つ下か。

 もう少し観察して見ると、その少女はクレスが見たことのないほど美しい少女だという事がわかった。ああ、いや。そもそもクレスは、年頃の娘などロクに見たことないのだが、それでもそう思えるのだから仕方がない。

意志の強そうな瞳、夕日に照らされて朱に染まった頬、固く結ばれた口元。夕暮れの涼しい風に長い栗色の髪を揺られながら立つその姿は、凛とした佇まいなのだが、どことなく可愛らしく見えるのは背が低いからだろうか。

クレスも見慣れているレヴァ神の紋章が刺繍された厚手の上着。裾から見える黒いズボンの口は擦り切れて、とてもこの少女が着るのにそぐわないが、それでもその背中に背負われているものに比べれば些細な問題だろう。

“それ”は少女に不釣合いな異様な威圧感を周囲に撒き散らしている。

 ――彼女の背には、剣が装備されていた。全長は少女の身長と同じほどの大剣。肩口から覗く柄には、見る角度によって色を変える不思議な宝石が象嵌されており、精緻な装飾が施されてはいるが、剣自体は充分実用に耐えうるものだろう。儀礼用にしては大仰過ぎる。

 そんな少女の風貌に面食らっていると、そんなこと知ったことかとばかりに少女が口を開いた。

「村の者だろう? 悪いけど、この村の教会がどこにあるのか教えて欲しい」

「あ、ああ。うん」

 混乱した頭を振り、なんとか状況を整理する。

旅の娘……だろうか。クレスの暮らすこの小さいスターニング村では、誰も彼もが顔見知りだ。そもそも、村の人間なら教会の場所を知らないという事はありえない。

 しかし、一人で?

 街道もたいがい物騒だ。一番近くの集落からでも、こんな子供と言ってもいい少女が一人で踏破するのは難しいだろう。背中の剣は、とてもではないが少女の細腕で扱えるとは思えない。

 そんなクレスの思考を、少女の鈴の鳴るような声が遮った。

「? どうかしたのか」

「な、なんでもない。教会だったよね。僕も帰るとこだったから案内するよ」

「そうか。ありがとう、助かる」

 軽く頭を下げる少女にドギマギしながら、クレスは少女と連れ立って歩き始めた。

 少女の歩幅はクレスよりずっと短いので、自然といつもより速度は落ちる。少女の体臭だろうか? ふわりと甘い匂いが鼻を掠め、クレスは顔が熱くなった。

 しばらく歩くと、民家が立ち並ぶ辺りまで来た。通りすがる家では、夕餉のいい匂いが漂い、楽しそうに談笑する家族の声が聞こえる。そんな日常の風景を、遠い世界のように感じながら、クレスは必死に会話の糸口を探していた。

 少女は無口な方なのか、前方を見つめて歩くのみで、クレスのことなどないものとして扱っているように見える。クレスとしては、居心地が悪い。

 なにか話題を……と逡巡していると、はたと基本的なことを聞いてないことに気が付いた。

「そういえば、君の名前は?」

 なんとか、不自然ではない表情を作れたと思う。

 聞かれた少女の方は、目をパチクリとさせ、不思議そうに首を傾げる。しばらくすると、ああ、と手を叩き、答えた。

「フォルトゥーナ。フォルトゥーナ・ルヴィズス。……呼びにくかったら、フィズでいい。親しい人はみんなそう呼ぶ」

 フィズ、とクレスは小さく口の中で呟いた。その響きは、少女の存在にしっくりと当てはまる。

「じゃ、フィズって呼ぶよ。僕はクレス・ノート。教会に居候させてもらってる」

「ん」

 コクと頷いてみせるフィズに、クレスは少し笑いが漏れた。

 当たり前だが、コミュニケーションは取れるようだ。まるで、少女が自分とは別の生物のように感じていたクレスは、ほっと一息つく。

「フィズはどこから来たの?」

 そうなると、元々好奇心の強いクレスは、いろいろ聞きたくもなる。この村も好きだが、外の世界にも憧れる若者だ。他のところから来た旅人に、聞きたい事は山ほどあった。

「セレナ島」

「セレナ島……って、うぇ? 精神殿がある、あのセレナ島?」

「それ以外に、セレナという地名はないと思うが」

 地図なんていう高価なものは見たことのないクレスだが、簡単な地理くらいは知っている。その知識に照らし合わせて、ここからセレナ島への距離を概算してみる。

「ここからだと、二期はかかるんだけど」

「そんなことはない。出立したのが、春の第三期水の三日だったから……一期ちょっとしかかかってない」

 指を立てて、それでも少し考えた末答えるフィズ。あまり頭の回転はよくないのかも知れない。

 その答えに、クレスは呆れた。

「十分長いよ。保護者の人とかいないの?」

「同行者がいると足手纏いになる。一人で来た」

「っぶないなぁ。運良くここまで来れたからいいけど、途中で盗賊とか魔物とかに襲われたらどうする気だったのさ」

 この国、サナリス王国は他の国に比べると平和な方だが、それでも町の外が危険なのには変わりはない。まだ人類の文明は、その生活圏の外まで及んでいないのだ。

「問題ない。わたしにはこれがある」

 フィズは、背負っていた剣を掴み、大の大人でも扱いに難儀するほどの大剣を一息で鞘から抜き放った。

「うわぁ……」

 クレスは、あまり武器に造詣はない。だが、それでもその剣が一級品であることは、刀身の輝きが物語っていた。肉厚の刃は、相応しい者が握ればフルプレートアーマーだろうと、固い鱗を纏った魔物だろうと一刀の元に叩き斬ることが出来るだろう。

 だが、それ以上のものがその剣にはあった。その煌きに世界の全てを写しているような、圧倒的な存在感。ただの剣にはありえない、神秘的な――あるいは、悪魔めいた――魅力。

 刀身を纏うその空気は、ある意味クレスにも馴染んだものだ。無論、これは少々次元違いに過ぎるが。

 それは……

「あ、これ見せちゃいけないんだった」

 まるで、叱られた子供が玩具を片付けるような慌てた様子で、フィズはその剣を布で包み、背中に固定する。はっ、と我に返ったクレスは、慌てて尋ねる。

「ちょ、フィズ。さっきの剣は」

「これは駄目だ」

 なにも言っていないのに駄目出しされる。余程大事なものなのか、フィズはクレスを正面から見据え、背中の剣を隠すようにする。

「い、いや。いいけどさ」

 本当は気になって仕方がないのだが、こんな叱られている子供のような顔を見せられては是非もない。

「……うん」

 フィズはコクンと頷くと、安心したようにまた歩き始めた。

「あ、教会ついたよ」

「見ればわかる」

 いつの間にか、目の前には素朴で小さいながらも、それなりに威厳のある建物が現れていた。