僕は大学を卒業した。

 ……一年留年して、結局卒業まで五年かかった大学。
 まあ、この年になって卒業に涙を流すなんてことあるわけもないが、それでも若干感慨深いものはある。

 しかし、そんな感傷に浸っている暇はない。大学を卒業すれば、次に進むところはお気楽な学生身分ではない。
 仕事をして、金を稼ぐ……社会人の仲間入りなのだ。

「とか言いつつ、学校だけどな……」

 ネクタイをきちっと締めて臨んだ入学式・始業式では、やはり緊張した。
 教育実習の時も経験したけれど、沢山の生徒の視線の集中する中で自己紹介――事前に練習しておかなければ、絶対に舌が回らなかったと思う。

 しかも、これがこれから日常になっていくのだ。早々に慣れないといけない。

 しかし、一つだけ安心材料がある。
 ……この学校、教育実習で来た学校なんだよな。私立なので公立とは別枠の採用試験はあったが、実習中にそれなりの評価を貰っていたこともあって、なんとかパスした。

 ……ふと思ったが、高宮さんのコネのお陰じゃないよな? そうだとすると、ちょっと凹むんだけど。

「どうかしたか、土樹先生?」
「あ、いえ、なんでもないです。広畑先生」
「そうか? ん、まあ、緊張するのもわかるけど、新任って言っても、生徒にとっちゃ先生だから。うるさく言うつもりはないけど、その辺は気を付けてな」

 はい、と頷く。

 広畑先生は、三十歳の数学教師だ。
 そして、今年度一年生のクラスを一つ受け持つことになり……僕は副担任として、サポートすることになるのだ。

 そんなわけで、現在担当の教室に向かってる真っ最中。ただでさえ広い校舎の、一番上の階だから少し遠い。

「わかんないことがあったら俺か……授業のことなら安藤ちゃんに聞いてくれ。教育実習の時一緒だったから聞きやすいだろ?」

 実習の時に世話になった安藤先生は、主に三年生の英語を担当している。僕は一年と二年をそれぞれ少しずつ。まあ、新米に受験勉強で大変な三年生を任せられないのだろう。

 ……そして、新任ということで担当の時間は少ない。その分、校外の研修なんかはかなり受けることになるみたいだけど。
 つっても、金も教員の数もあるお嬢様校だから、時間に余裕はある方で……公立とかに行った同じ大学の連中の奴らなんかは、入る前から大変そうな顔をしていた。そちらに比べれば大分恵まれている。

「ああ、そうだ。これを言っとくの忘れてた」

 広畑先生は階段の踊り場で立ち止まり、まっすぐに僕を見つめた。

「? なんですか。時間に遅れますけど」
「まだ五分はある。新入生同士、この時間に仲良くなるかもしれんし、ちょっとくらい遅れてもいい」

 ……いいのかなあ。

「こんなこと、言うまでもないことだと思うんだが……まあ、土樹先生は若い男だからな。釘を刺しといて、刺しすぎるってことはないだろ」
「あの、なにが言いたいか大体わかったんですけど」
「まあ聞け。いいか、周りは若い女だらけ。俺からしちゃあ子供だが、土樹先生にとってはそうでもないだろう? ないよな? ないって言え」

 その、僕は大学を卒業した時点で守備範囲を大学生以上に変えたんですが。
 そりゃ、まったくドキドキしないかと聞かれると断言はしかねるが、少なくともそんなよこしまな気持ちで生徒に接する気は微塵もない。

 微塵もない、が、

「……まあ、若干」
「だよなー。俺も、入ったばっかりの頃はヤバかった。女子高って、意外とガード甘いのな。ったく、生徒は女ばっかでも、教師は男もいるんだっつーの。まー、結婚したら大分落ち着いたが」

 ふう、と溜息をつく広畑先生の左の薬指には、キラリと光る指輪。
 あー、既婚者なのか。そういやー、考えてみれば就職したってことはそーゆーことも意識する年齢に入りつつあるってことなんだよな

 ……まあ僕はいいや、昨今は晩婚化が進んでるって言うし。

「若い女は確かに魅力的かもしれん。でも、襲うな。我慢しろ。どうしても駄目だったら俺に言え。いい店に連れてってやる」
「いや、大丈夫ですよ」

 ガードが甘くて若くて美少女な連中なら大分耐性があるので……。

「いいからはいって言っとけ。セクハラ教師、なんて新聞に載るの嫌だろ? うちの学校的にも勘弁だ」
「はあ……わかりました」
「すまんな。一応、入って来た男性教師にはみんな言ってるんだ。最近はそういうのすぐマスコミが嗅ぎつけるからなー」

 世知辛い世の中だ、と呟く広畑先生。
 しかし、その言い方だと、そーゆーことをしたいように聞こえてしまうんだけど……

「俺からはそれだけだ。じゃ、教室行こうか」
「はい」

 頷いて、再び階段を登り始めた。


 ……ちょっと、毎日はこの階段キツいなあ。



























 新入生最初のホームルームは無事に終わった。

 基本的には広畑先生が仕切ってくれて、僕は教室の後ろで見ていただけだけど、特筆すべきこともなく割と淡々と進んだ。
 今日入学したばかりの一年生である。当然、初々しい緊張みたいなのは見えたけど、自己紹介で『ただの人間には興味ありません』なんてネタを飛ばす生徒もいなかった。

 ……その自己紹介をされていた場合、僕は名乗り出るべきなんだろうか?

「やめといた方がいいか……」

 うん、そうそう。

 なんて、職員室で僕にあてがわれた席で、一人頷いた。

 以前使っていた人が綺麗好きだったのか、新品と見紛う机。まだ教本と筆記用具くらいしか無いけど、周りの人を見るに私物の持ち込みもある程度は自由っぽいので、そのうちなにか持ってこよう。

「土樹先生、ちょいいいか」
「あ、はい。広畑先生」

 後ろから声をかけられて、慌てて立ち上がる。

「あー、別に座ったままでもいいけど。……で、だな。土樹先生、英文学部の顧問だって?」
「はあ……安藤先生は別の部活と兼任だったらしいですし、僕が専属で付くことになりましたが」

 そうなのである。
 教育実習中、任せられていた英文学部に、僕は正式に顧問として就任することになった。

 安藤先生は、英語部と兼任でやっていたらしいが、ほとんど見ていなかったそうな。

「そっか……じゃあ、気を付けてくれよ」
「は、はい?」
「短かったけど、実習の時見てたんだろ? じゃあ、わかると思うが」

 ……まあ、普通の部活は悪魔召喚を実践しようなんて思わないよな。

「三年だった部長の西園寺は卒業したけど、あそこは色んな意味でヤバい。なにせ、安藤ちゃんが兼任する羽目になったのだって、その前の顧問が……」

 と、そこで言葉を区切る広畑先生。
 な、なんだ? その前の顧問が……なんだって?

「まあ、西園寺の奴が卒業したから大丈夫だとは思うが」
「で、ですよね」

 考えてみれば、あそこの部活は総勢三人。しかも、西園寺以外は割と普通……だ。うん、普通普通。ちょっと口が軽くて噂好きの藤崎と、日本でも有数の企業の社長令嬢。そんだけ……そんだけさ。はは。

 でも、その前の顧問がどうなったかは聞きたい。

「でもなあ、あそこは一つのジンクスがあってな。絶対に一人はヤバイ奴が在籍しているらしい。西園寺はいなくなったから、今年あたり入部する奴が『そう』かもな」
「ま、マジですか?」
「まあ、噂だ。でも、土樹先生が来てくれて助かった。あの部活の『ヤバ系生徒』、西園寺をああまでうまく扱った人だからな。いや、頼もしい。凄く頼もしい。だから頑張ってくれ」
「……もしもし、広畑先生。もしかして、僕が採用されたのって」
「ん? はは、そりゃ考えすぎだ。だから考えるな」

 ちょっと!?
 いやまあ、流石に冗談だと思うが……

「はははは……じゃあ、そゆことで。まあ、あそこは休みの日は部活しないし、楽だぞー。普通の生徒だけなら。だけだといいな」
「……そうなることを祈りますが、無駄な気がします」

 こういう時の自分の巡り合わせの悪さはとっくに悟っている。

 溜息が重くなるのを自覚しながら、僕はよろよろと授業計画を立てることで現実逃避するのだった。
























 次の日の放課後。
 顧問として、久方ぶりに英文学部の部室に行くと、見覚えのある二人に出迎えられた。

「あ、こんち、つっちーせんせ。久し振り―」
「……藤崎、久し振りだな」

 相変わらずのあだ名である。まあ、いいけどね。

「あの、こんにちは、先生」
「ああ、し……じゃなくて高宮」

 二年に進級した栞ちゃん改め高宮も、ぺこりと頭を下げてくる。

 ……んー、実はあの後も、二、三度、高宮さんに誘われて、高宮には会ったことあるんだよねえ。まあ、年明けてからは会ってないから、久し振りではあるんだけど。

 流石に学校では栞ちゃんとは呼べない。呼んだら妙な勘ぐりを受けること間違いなしだ。その辺は分かっているのか、一瞬不満そうな色が見えた高宮も、すぐに元の表情に戻った。

「いやー、せんせが顧問ってば、うれしーな」
「……そりゃどうも」
「あ、あたし部長だよ、部長。よろしく」

 親指を立ててウインクしてくる藤崎。
 ……どう考えても部長には向いていないが、この部のメンバーは現状藤崎と高宮だけ。くっ、仕方ないのか。

「ところで――」

 ぐる、と部室を見渡す。

 英文学……という名の通り、備え付けられた本棚には、外国語の本がぎっしり詰まっている。……『外国語』である。英語だけでなく、ドイツ語とかもある。……それくらいならまだしも、古ラテン語なんて誰が読めるんだ。

 また、空きスペースの棚には、怪しげなオカルトグッズが並んでおり……要するに、僕が実習していた時と変わらない蔵書とアイテムがあるわけだ。

「……あれ、西園寺の私物じゃなかったっけ?」

 確か、そんなことを言っていたような。オカルト系は、西園寺が持ってきたって。

「ん? 違うよ。一部は西園寺先輩のだけど、他はこの部に代々置いてあるやつ。ああ、西園寺先輩もここに置いてたのは寄付してったから」
「代々……」

 つーことは、代々そーゆー人種がいるってことか。
 ……うわ、嫌なこと聞いた。

「ふ、藤崎先輩。やっぱり怖くないですか、これ。倉庫にしまった方が」
「ん〜? そう?」

 魔導書なんかは、いくつか本物も混じってる。いや、もちろん写本だけど。
 そりゃ、嫌な雰囲気の一つや二つするだろう。

 オカルトグッズは……もう見るからに、だしな。あの栄光の手なんて絶対レプリカのはずだけど、ちょんぎられた手なんて見た目からしてアウトだ。

 西園寺がいたころは遠慮していたみたいだけど、持ち主がいなくなったんだから高宮が嫌がるのもよくわかる。

「だけど、大丈夫だ、高宮ちゃん! こーゆーののプロのせんせがいるから!」
「あ……そうですね」

 ……いや、そこで『そうですね』とか安心しないで欲しいんだけど。僕は人よりちょっと霊力が強くて魔法が使えるだけの教師なんだからさ。

「ま、それはそれとして……流石に二人っきりは寂しいし、新入生をGETしないとね〜。つーことで、ポスター作ってきましたっ」
「手早いな……」
「あ、せんせ。後でコピー機使わせて」

 ああ、コピー機の使用は教員の持ってるカードが必要なんだっけ。

「いいよ。どんなの作ってきたか、見せてもらってもいいか?」
「あ、わたしも……」
「いいよいいよ、どぞどぞ」

 と、藤崎が鞄から取り出したポスターは……

「……おい」
「ん? なーに」
「僕の記憶が確かなら、この部は『英文学部』だったと思うんだが」
「えー、そうだっけ?」

 なんで、ポスターにデカデカと『オカルト部!』ってあるんだよ。『占い、魔術、心霊現象に興味のある人は来てネ』って、ここは英語の文学書を読み解く部活じゃなかったのか?

「ま、ここはもう学校中で『オカルト部』で通ってんかんね。英文学部なんて、先生くらいしか言わないよ。英語の本の原書を読みたい人は、素直に英語部に行くしね」
「……うわー」

 駄目駄目だ。いや、もう駄目駄目だ。
 建前的には、英語部が話す方優先……歌とか、英会話とかをする部活で、こっちが本を読む部のはずなのに、全くもって機能してねえ。

「おおっと、つっちーせんせが来たんだから『本物の魔法先生がいます』って書いた方がいいかな?」
「やめてくれ」

 頭のイタイ先生だと思われるだろうがっ! だいたい魔法先生って。僕は昨今インフレが極めて激しい某バトル漫画の主人公じゃないんだぞっ。英語教師ってところしか共通点がねえ。

「藤崎先輩。それは漫画が……」
「高宮、わかるのか」
「え? あ、その……はい。漫画は、けっこう好きです」

 いや、確かに『花と○め』を読んでいそうな雰囲気だけど。

「ん、まあ書き直すのも面倒だし、これでいこうか。よっし、西園寺先輩がいなくなったけど、新生オカルト部、ここに始動だぁー!」

 手を突き上げる藤崎。
 一拍遅れて、高宮が『お、お〜』と手をあげる。

 僕はと言うと……やれやれ、と肩を竦めるのが限界だった。







 こうして、僕の教師生活は、不安を抱えながらもスタートすることとなった。
 ……さて、どうなることやら。



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