「ん……」

 甲斐は小さく吐息を漏らしながら、ゆっくりとベッドから起き上がり目を覚ました。
 甲斐はあの後通信してきた岡崎教授に後始末を任せ――やけにタイミングが良かったのでどうせ何かで見ていたのだろう――て、戻ってきたみ〜ことと共に家へと帰り、そしてその後疲労困憊していたために、み〜ことに勧められるままにすぐ泥のように眠ってしまっていたのだ。
 外はすっかり夜の帳が落ちて、真っ暗闇。まだ夜中というほどの時間ではなさそうだが、それでも随分な時間寝てしまっていたらしい。

「ふう……よっ、と」

 そして甲斐は小さく伸びをしてからすぐに立ち上がると、自身の部屋の中に置いておいた例の扇を手にして扉を開けると雛に力を渡すべく部屋を出た。
 元々甲斐は家へと戻ってきてからすぐに、消耗しているであろう雛に力を渡そうとしていたのだ。しかし明らかに疲れている上に怪我まで負ってしまっていた甲斐を心配したみ〜ことに止められ、さらに雛を見てくれたメリーに前のようにすぐに消えてしまいそうになるほど消耗はしていないからと諭されて、一旦それを止めて仕方なく休んでいたのだ。
 しかしそのお陰でもう体は全快とは言わずとも体力は戻っているので、雛はまだ寝ているかも知れないが取り敢えず力だけでも渡しておこうと考えて、甲斐はそのまま階段を降りると雛を寝かせていたはずの和室へと向かった。



◆◇◆◇◆◇



 み〜ことは甲斐の部屋の隣にある自分の部屋の中で、その優れた聴覚でもってして甲斐が起きたことに気がついていた。そして甲斐がすぐに部屋から出ていって、おそらくは雛の元へ行ったのだろうこともほとんど同時に悟る。
 しかし仮にあの扇を使っても大きな危険はないことは聞いていたし、さすがにここで過剰に心配して止めてしまうというのは無粋が過ぎるだろう。

(……もう博麗神社の場所もわかって、雛さんは明日幻想郷というところにお帰りになられるご予定。これ以上はきっと、心配でも何でもなくただの余計なお世話になってしまうのでしょうね……)

 そんなことを考えながら甲斐がとんとんと階段を降りていく音を耳にしていたみ〜ことは、一度小さくため息を吐くと万が一にも邪魔をしてしまわないよう、ベッドに横たわり意識を休眠モードに変更して静かに目を瞑った。



◆◇◆◇◆◇



 雛は少し前に目が覚めてから今の今まで、ずっと暗闇の中で自身の体にかけられていた布団をぎゅっと抱きしめながら、胸の奥から沸き上がってくる震えと一人戦っていた。
 その姿からはまるで、酷い寒さに襲われて必死に我慢しているかのような……あるいはまるで、強い孤独感に苛まれながらもそれに一生懸命抵抗しているかのような……そんな見る者全ての心を絞めつけてしまう、心細さを感じさせられた。

 あの時……、形式に捕まった時に彼女から流れてきた、その否定の精神。
 外の世界に常に満ちている、漠然とした"幻想全てに対する否定"とは違う……『鍵山雛』個人へと向けられた、強い否定と拒絶の意志。
 さらにはそれに存在が食われ、侵され、そしてなにより……己の全てを否定されていく、あの感触。
 それら全てが今もお前がここに存在することを許さないと声高に訴えかけているかのように思えてしまって、もう大丈夫なのはわかっていてもどうしても雛の心にこびりついて離れず強い震えをもたらしていた。

 恐怖とも孤独ともつかない、なんとも言いがたい寂しさのような……己自身を否定されてしまったことによる、どこか悲しみにも似た感覚。
 その感覚に打ちひしがれ、本当なら今すぐにでも誰かにすがりつきたくなるような強い不安を感じているというのに……しかしそれでも雛は神として培ってきた強靭な精神を以ってして、それら全てをどうにか押さえこもうと気力を振り絞っていた。

 自分からは何も返せていないというのに……甲斐にもみ〜ことにも、これ以上迷惑をかけられない。そしてなによりあの二人に、もう心配を掛けたくなかったから。
 だから雛は明日の朝になったらまたいつもの自分に戻っていられるように、ぎゅっと目をつむりながらもう一度布団を抱きしめ直して強く唇を引き結んだ。

 しかし、その時……

「雛、起きてるか?」

 雛が寝ている場合のことを考えて配慮したのであろう控えめな小さい声が、ぴったりと閉じられている戸の向こうから聞こえてきた。
 しかし雛はその呼びかけに、自分から返事をすることが出来なかった。
 今の自分の姿を見られたくない。弱っている自分を見ないで欲しい。だけどやっぱり、気づいて欲しい。"誰か"にそばに居て欲しい。
 そんな複雑な想いが雛の体を雁字搦めに縛り付けていて、その白く細い喉から声を出すことを許してはくれなかったのだ。

「ん……やっぱり寝てるのか」

 そして甲斐は一向に返事が返ってこないことからそう考えて、小さく呟きを漏らした後音を立てないよう静かに和室の戸を開いた。

「甲斐……」
「あれ、雛? なんだ、起きて――」

 その後甲斐が部屋に入ってきたのを確認して、ひっそりとその姿を見上げながらポツリと名前を呟いた雛と目が合った、その瞬間……甲斐は計らずも目を見開いて絶句してしまう。
 それから暫くの間、甲斐は眉尻を下げた曖昧な表情で……そして雛は未だ微かに震えながら、何かを言いしたそうな……それでいて強い迷いと躊躇に苛まれている複雑な表情を浮かべて、無言で見つめ合っていた。

「――」
「……」

 その時甲斐は……無言で雛の吸い込まれるような綺麗な瞳から目が離せなくなりながら、同時に深く悲しんでいた。
 ただただ雛が苦しんでいるように見えるのが悲しくて……そしてその表情に、その姿に、その揺れる瞳から伝わってくる感情に胸が締め付けられて……それをどうにかしたかった。
 だけどそのためにどうすればいいのかわからなくて、どうすればその震えが止まってくれるのかもわからなくて……そして言うべき言葉も、甲斐にはどうしても見つけることができなくて……

 だから――

「か、甲斐……!?」

 気づけば甲斐は、雛を優しく抱きしめていた。

「……ごめん。嫌だったら、振りほどいてくれて構わない。それだったらもう、雛には触らないようにするから……」

 甲斐にはこれ以上、何もせず見ているだけで居ることが耐えられなかった。だから何の考えも配慮もなしに、気持ちが溢れてただ心のままに行動してしまっていた。甲斐の今のその言葉は、それを自覚していたために出たものだったのだ。
 だけど雛はそうはしなかったし、出来なかった。

「あ……」

 雛はただただ、安心していたのだ。
 まるでぽかぽかと暖かい、陽だまりの中にいるような心地いい温かさ。
 今雛の心の中は、まるで先程まで感じていた冷たい心細さを打ち消すかのように、真逆の温かい気持ちで一杯に満たされていた。

(ああ……私は今、世界にいだかれているんだ)

 お前はここにいてもいいのだと、世界甲斐がそう伝えてくれていた。
 そして雛はどうして甲斐のそばに居れば自分の力が減らないのか、そして厄がどうして甲斐には意味がなさないのかを本当の意味で理解した。

 『全てを許容する程度の能力』

 それが甲斐の保持している、能力の名前だったのだ。

 そして――

 『門倉甲斐』は現実も幻想も……あらゆる全てを受け入れている。

 あらゆる全てを受けいれているということは、それ即ち世界全てを受け入れているということでもあった。つまり……世界全てを受け入れているということは、『門倉甲斐』は個でありながらあらゆる個を受け入れる全であり、世界と等しいということでもあったのだ。

 よって転じて、それは――

 『世界と等しくなる程度の能力』

 でもあると言えた。

 世界はあらゆる個を円環のごとく循環させ、受け入れて許容する。
 それこそが『門倉甲斐』という全でありながら人間であるという個を失わない不思議な存在の、本質であったのだ。

(それは……)

 それはなんて、温かい力なんだろうか。
 ただそこに優しく在るだけの、自分のためではなく自分以外の誰かのための力。
 この能力は、甲斐自身には何も齎さない。だって甲斐は『門倉甲斐』という自分を絶対に捨てず、そしてそれ故に全てを受け入れられるのだから。

 じしんを捨てず、しかしそれでも全てせかいを許容し受け入れる。

 それは絶対的な受身の力であり、不変の器があるからこその受容の力。
 故に『門倉甲斐』はただの人間であると同時に、ただただ全てを受け入れて、ただただそこに存るだけの世界なのだ。

 そして雛は甲斐に体重を預けて身体を凭れさせ、静かに目をつむりながらその美しい眦から一筋涙を零した。

(きっともう、私は世界の何処に居たって絶対に……寂しいなんて思わない)

 だって自分の居場所は甲斐の隣にいつでもあって、そして甲斐は世界なんだから。







「……甲斐」

 甲斐はずっと顔を俯けていた雛が不意に顔を上げて声をかけてきたことに反応して、

「……ん? なんだ、雛」

 と優しく囁くように聞き返した。

「ありがとう。もう私、大丈夫だから……」

 そう言われて意識を向けてみると、確かに何時の間にか雛の体の震えはもう止まっていた。そしてそれを確認すると、甲斐は小さく頷いて微笑を浮かべ体を離す。

「雛。悪かったな、いきなりこんな事しちまって」
「いいえ……謝らないで。嫌だったら甲斐の言う通り、とうに振りほどいてたもの。むしろ、その……」
「?」

 そこで甲斐が首を傾げると、雛は頬をほんのりと赤らめさせながら、まだどこか潤んだままの瞳で真っ直ぐに甲斐の目を見つめ返した。

「嬉しかったというか……私、安心してたもの。上手くは言えないけど……色々あって、ホントは心細かったの。だから……。それにもしかしたら、明日帰ることも寂しかったのかも知れない。ここに居るのは思いの外、楽しかったから……」
「そっか」

 そして甲斐はもう一度微笑んで、ぽんと優しく雛の頭を撫でた。

「まあでも、仕方ないさ。出会いがあるってことは、いつか必ず別れることもあるんだからな。だけどまあ、だからこそ一度別れた人と再開する楽しさとか、また誰かとの新しい出会いがあるんだと思うよ」
「だから、『去る者追わず、来る者拒まず』?」
「ああ、そういうこったな」

 そう言って甲斐がニカッと笑い返すと、雛も柔らかく目尻を下げて微笑んだ。

 そして二人の間に、沈黙が流れる。

 だけどそれは、何も語らずともとても穏やかな時間だった。
 窓から差し込む柔らかな月光と、静かな静かな夜の静寂。
 それはまるで花火が終わった後のような静けさと、ほんの少しの寂しさを含んで……だけど二人とも真っ直ぐに、前を向いて佇んでいた。

「あ、そう言えば……」
「え?」
「いや……元々俺、また雛にこの扇子で力を渡すためにきたんだったって思いだしてな」
「ああ、それで……」

 雛は不意に沈黙を破った甲斐の言葉に合点が行ったように頷いた後、小さく首を横に振って、

「大丈夫よ、甲斐。心配してくれたみたいなのは嬉しいけど……それは必要ないわ。幻想郷に帰れればすぐに回復することはできるし……仮にそうでなくても少なくとも、こっちのように急に力が無くなってしまうようなことはないもの」

 と言葉を告げるが、しかし甲斐は当然のごとくそれに頷かなかった。

「あん? やだよそんなの。やっぱ別れのときは気持ちよく、ってのが一番だろ。雛がふらふらになってるのを知ってんのに、それをそのままほっといて気持ちいい別れなんてできないだろうしな」
「嫌だって……。甲斐、ホント貴方って人は……」
「? なんだ、俺なんか変なこと言ったか?」

 甲斐はその何処か呆れたような言葉に首を傾げるが、雛はそれに満面の笑みを返して、

「いいえ、なんでもないわ。甲斐は本当に、いつでもどこでも変わらないんだなって思っただけ」

 そう明るく口にしながら甲斐の頬に顔を近づけてそっと唇を落とした後、きょとんと目を丸くした甲斐の顔を見てくすりとイタズラっぽく微笑んだ。














 そして、翌日。甲斐と雛が出会ってから六日目の土曜日のこと。

「ここでもう、大丈夫。力のことも心配ないから、後は私一人で行くわ」
「ん、そっか。了解。まあそれじゃ、また外に来ることがあったらいつでも家に遊びに来いよ」

 甲斐と雛は外の世界の博麗神社の石段の前で、別れの挨拶を交わしていた。

「ええ。その時は必ず、そうさせてもらうわね。……それにしても本当に、甲斐にもみ〜ことにも、何から何までお世話になったわ」

 雛はどこか遠くを見るようにしてそう口ずさむと、すぐに甲斐とまっすぐに向き合って深く頭を下げお礼の言葉を口にする。

「ありがとうございました。み〜ことにも、後で私がそう言ってたって伝えておいて」
「ああ、それを伝えるのは構わねえけどな。でもまあ、礼には及ばねえさ。我が門倉家のモットーは――」
「『去る者追わず、来る者拒まず』だから気にするな、でしょ?」
「はは、そういうこった」

 そう言ってからからと明るく笑う甲斐に、雛も「ふふ」と柔らかな微笑を返した。

「それじゃあそろそろ……、さようなら。――いえ。またね、甲斐」
「おう。またな、雛!」

 そうして二人は軽く手を振ると同時に背を向けて、雛は一段一段ゆっくりと石段を登っていき、甲斐は少し後ろのほうで待っていたみ〜ことと共に駅へと向かって戻っていった。





「あ……」

 雛が石段を登りきり、そして神社の鳥居をくぐったその瞬間……明らかに空気の質がそれまでとは違うものになった。外の世界とは違う……幻想に対する否定のない楽園のような世界、幻想郷。
 さらにその正面には、赤と白の巫女服に身を包んだ少女――『夢と伝統を保守する巫女』博麗靈夢の姿。

「あら? 貴女は――」





 ――完?――



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