黒スーツの女――形式優希(かたしきゆうき)はどこまでも冷静に、鋼の意志を以て自身を制御していた。
 感情を力とするのは精神を糧とする幻想ばけものの側の十八番。現実の側に属し常にそれを心がけている人間として、理性を忘れる訳にはいかないのである。
 冷徹に、理知的に、そして何より理性的に。何故なら知性こそが現代において現実から幻想をほぼ完全に排斥するに至り、人の世をここまで発展させてきた我々の最大の武器にして力なのだから。
 しかし自身を制御をしているということは、即ち制御しなければならない感情を今も変わらず有しているということでもある。
 つまり形式は、実は心の底では苛立っていたのだ。
 そこには彼女の根底に眠る、様々な想いが原因としてあった。それはまるで感情の坩堝のごとく、形式の腹の底へと沈殿し渦を巻いていく。

 かつて彼女が幻想郷へと迷いこんだ時の記憶を発端とする、幻想の存在全てへの憎悪。
 もはや世界からほぼ排除できていたはずの幻想の存在が、まだ外の世界に隠れ潜んでいたことに対する苛立ち。
 結界の向こう側を殲滅しようという自分たち強硬派の意見を一顧だにもせず、過去にあの胡散臭く憎らしい妖怪の賢者と結んだ不可侵条約を未だに守り続ける上層部の弱腰への不甲斐なさ。
 己だけではそれを成せず、しかも今回実質的にはたったの二人を相手にしただけでほぼ全滅にまで追い込まれてしまった弱い自分とその部下に対する怒り。
 そして――此方側に属しているはずの人間が、向こうの存在を何故か助け守ろうとしたことに対する強い軽蔑の気持ち。

(門倉甲斐は報告通りなら、岡崎夢美と関わりがあるだけの何も知らない一般人……少なくとも、表の人間であることは間違いなかったはずだ。だというのに、あの近接格闘能力はなんだ? それに何故――)

 そして脳裏に甲斐に対する疑問と怒りが浮かび上がったその瞬間……、けたたましい音と共に激しい衝撃が形式の運転していた車を襲いその思考を強制的に中断させた。



◆◇◆◇◆◇



 み〜ことに搭載されている飛行ユニットは岡崎教授謹製の特別な装置であり、そしてそのためその機能や性能も少々特殊な物であった。

 ――重力制御式任意落下装置

 それがみ〜ことに搭載されている、飛行ユニットの名だ。
 普通重力というのは、常に地面に向かって下に働く力である。しかしこの装置は、任意に自分にかかる重力の方向を変更することができるのだ。
 要するに真上に飛ぶ時は空に落ちて、前に飛ぶ時は前方へと落ちて自身の落下エネルギーによる加速で空を飛ぶのである。
 この装置の利点は、物体の質量や大きさによって必要になるエネルギーの量が変わらないことだ。例えば仮定としてこの装置で船を空に浮かそうと考えたとしても、人一人分飛ばすのとかかるエネルギー量はほぼ変わらないのである。
 ただしみ〜ことの体は元々戦闘を前提にはしていないため、これとは別の推進力は保持していない。この装置を使って落下速度以上の速さで飛ぶためには、それとは別の推進力がオプションとして必要となってしまうのが難点だった。
 そのためみ〜ことは、形式の運転している車を補足すること自体はその高い身体能力によって苦労していなかったのだが、それ以上……中々車に追いつくことは出来ておらず、今より距離を引き離されないように追跡することが限界だった。

 だがここで、形式が拐った相手が雛であったことが甲斐たちにとっての追い風となる。

 その時雛を乗せて人気の少ない裏道を走行していた車は、雛に触れたことで形式に移ってしまった厄に齎された不幸によって、交通事故を起こして派手に横転し無人の工事現場へと突っ込んだのだ。
 しかも雛の体は形式の能力によってその周囲の空気が固められていたので、それがまるで防護膜のようになってその身体を守ってくれていた。
 本来それは拘束用のものだったのだが……形式にとっては不本意なことに、そのお陰で雛は横転した拍子に車から放り出されてしまったというのに、傷ひとつ負わずに済んでいたのだ。

 ただ、あくまで人である甲斐には上空からその状況を正確に把握することなど当然できようはずもなかったので、

「おいおい、冗談だろ!? いや、そんなことより――早くあそこに降りて、み〜ことはそのまま雛の保護と手当を! 俺があいつの相手をして引き付けるから、それが終わったらすぐに家に連れて行ってやってくれ!」

 とすぐに慌ててほとんど叫ぶようにみ〜ことに指示を出した。
 が、しかし甲斐とは逆にその優れた視力と分析力によってその時目に映った全ての光景をほぼ正確に捉えていたみ〜ことは、慌てず騒がずしごく落ち着いた冷静な態度で、

「どうか落ち着いて下さいませ、甲斐ぼっちゃま。どうやら雛さんには外傷はないようですので……もちろん急ぎはしますが、そこまで慌てる必要はございませんわ」
「……そっか、無事なのか。良かった……」

 み〜ことのその、まるで疑う必要のないであろう落ち着いた声を聞いた瞬間、甲斐はほとんど無意識にほっと胸を撫で下ろしながら小さく独りごちた。
 すると今度はみ〜ことが、

「ですから今はそれよりも、あそこに到着するまででいいので……どうしてあの女と相対するのがわたくしではなく甲斐ぼっちゃまなのか、そう判断した理由を教えてくださいませ」

 と先の指示に対して感じた不満混じりの疑問をぶつけて来たので、甲斐はすぐに落ち着きを取り戻して「ああ、分かった」と相槌を打つと、それを頭の中で簡潔に纏めながら早口に説明し始めた。

「まず一つ目の理由は……み〜ことがあいつに決定打を与えるには、さっきの様子を見た限りじゃそれなりに時間がかかりそうだったから。そして二つ目は、雛をいつまでも外に居させるのは危険だしまずは家に連れてくことを優先すべきだと思ったから。そして最後に当然の話だけど、その場合俺よりもみ〜ことの方が遥かに早く雛を連れて家に帰れるだろうからってのが、だいたいのおおまかな理由だな」
「ですが……確かぼっちゃまのそばに居れば、それだけで雛さんは外にいても大丈夫なはずでは? それならわたくしがあの女と戦っている間、ぼっちゃまが雛さんを守っていて下さればそれで事は済むはずです」
「だけどその場合、み〜ことを掻い潜ってまた雛に何かされる可能性もゼロじゃないだろ? さっきのあれがただの煙幕だった以上、多分向こうにはこっちを殺したりするつもりはないはずだ。なら今は、何より現在進行形で力を失くしていってるはずの雛の安全を確保するのが一番じゃないか?」

 既に先ほど岡崎教授から通信で、残りの相手は彼女のみであることは聞いていたので……もはや彼女が車という移動手段を失った以上、このまま上手く一度引き離す事が出来れば門倉家が安全地帯も同然であることは間違いないはず。故に雛の安全の確保には、そうしたほうが確実なのは確かだろう。

「むう……」

 しかしそれでもみ〜ことにとっては、仮にどんな理由があろうとも絶対的に、甲斐の安全が最優先であることは変わらないのだ。だからすぐにはそれに頷けず暫く渋っていたのだが、いくら思考を巡らせど甲斐を上手く説得できそうな理由も良案も思いつけず、しかもそうしている間にとうとう地面についてしまう。

 み〜ことは危地において最もしてはいけないことが、判断に迷いそれに縛られ動きを止めてしまうことであることを知っていた。
 なので結局きちんとした反論が出来なかった以上すぐに甲斐の言う通り動かざるをえず、内心でこんな時でも冷静に的確な判断をしてしまう己の頭脳を恨みながら雛を瞬時に抱えると、即座に家へと向かって飛行ユニットも併用しながらもはや自動車もかくやというスピードで駆け自身の体を加速させた。

「甲斐様、どうかご無事で! 雛さんを家までお連れしましたらまたすぐに戻って参りますので……それまでは絶対に、もたせていて下さいませ!」

 そして甲斐はそのみ〜ことの去り際の言葉に無言で頷きを返しながら、ドアを壊して車から這いでてきた形式を真っ直ぐに見据えて身構えた。






 形式は車から抜けだした後注意深く周囲を見渡し、そして雛の姿が何処にもないことを確認すると、

「貴様……、門倉甲斐。そうか、わざわざここまで追ってきたのか」

 すぐにこちらに顔を向けてそれはそれは忌々しそうな表情を浮かべると、甲斐の事を睨みつけた。
 そしてその後またすぐに元の無表情へと戻ると、次の瞬間――

「ふっ……!」

 鋭い呼気を吐きながら、素早い足取りで滑るように近づいてきた形式の回し蹴りが飛んでくる。

「――っ!? いきなりかよ、危なっ!」

 甲斐はそれに多少意表を突かれ面くらいながらも、咄嗟に受け流して前の黒服と同じように形式を地面に倒れさせようとする。

「ちっ、その技……厄介だな」

 が、形式は甲斐のそれを事前に見ていたので、体制を崩された瞬間に能力を使って擬似的なエアバックを形成。それを利用して反動をつけながら飛び起き一度距離を取ると、動きを止めて見に入る。
 そして甲斐も形式が動かないのなら自分から何かをする理由はない――そもそも甲斐には自分から責められるほどの実力がない――ので、同じく動きを止めて注意深く形式の様子を伺った。

 硬直状態。この場で油断なく対峙している二人の一方には攻める理由も手段もなく、そしてもう一方も攻めあぐねている以上、そうなってしまうのは必然とも言えるだろう。
 そしてそれから暫くの間二人は互いに沈黙を守っていたが……先にその状態を破ったのは、またしても形式の方だった。

「なら飛び道具なら、有効か?」

 形式はボソリと呟きを漏らした後ズブリと砂利の混ざる地面につま先を勢い良く埋めて、そのまま土混じりの砂利の硬度を操作しながら甲斐に向かって蹴り上げた。

「やっば!?」

 そして当然そんなものをどうにかすることはできない甲斐は、慌ててその場から飛び退き避けようとする。しかしそうしている間にも形式は次弾の用意をしていて、甲斐はそのまま狙いを定めさせないように動きまわり逃げることしか出来なかった。
 それから数度それを繰り返し、時折飛んでくる塊を一部受けて体に痣をつけながら、息を荒げて走りまわっていた甲斐の体力が限界へと近づいてきた頃、

「? はあっ、はあ……」

 突然形式が散弾のように土と石の雨を飛ばすのを止めたので、二人は再び動きを止めて睨み合う。
 とその時、

「一つだけ……」

 形式はおもむろに、まるで腹の底から響いてくる唸り声のような声を喉から絞り出した。

「一つだけ聞かせろ。貴様何故、そこまでしてあれを助けようとする? 一緒にいた以上、貴様も知っているのだろう? あれは我々人間とは決して相容れない、幻想という名の化物だぞ」
「……」

 向こうから攻撃を止めて時間を稼がせてくれるというのなら、甲斐にとっては渡りに船だ。だからそれを無視する理由はないが……

(何故、か)

 きっとそれは、甲斐が"誰か"を助ける理由ではなくて……"雛を"今助けようとしているその理由を、問うているのだろう。

(俺が雛を、放っておけない理由……?)

 そんなものは正直に言って、最初からその時思った通りに行動していただけで大した理由はなかったのだ。
 だからあえてそれを言葉にしろと言うのなら――

「知っちまったから、かな」

 あの真っ直ぐであまりにも優しすぎる、可愛らしい少女のことを。

「だから、気に食わねえんだ。あの子が失われてしまうことが、悲しい事だと思っちまった。多分俺の動機なんて、初めからその程度のもんなんだよ」

 その時の甲斐の表情には、とても言葉では表現しきれない何かがあった。あえてそれを何かに例えるのならば、凪いでいる穏やかな大海原か……それとも春になって草木の芽吹く、萌ゆる大地の様とでも言うような……そんな不思議な表情だった。
 だが形式はそんなものは歯牙にもかけず、それまで内に抱えていた感情を爆発させたかのような恐ろしい表情を浮かべ犬歯を剥き出しにして吼えた。

「知ったからっ、気に食わないからっ、悲しいと思ったから……助けるだと!? ふざけるな! もはやこの世は人のものだ! やつら化物のものではないのだぞ!? 奴らがこの世界を貪り侵すのを、貴様は人でありながら容認するというのか!!」

 しかし甲斐はそんな激情も柳のごとく受け流し、変わらず静かな表情のまま穏やかに首を横に振った。

「……違うよ。世界は誰のものでもない。ただ流れて、巡るだけだ。俺たち人間も雛たち幻想も飲み込んで、平等にどこまでも」

 世界は否定も肯定も拒絶も暴力も正義も悪も何もかも飲み込んで、巡り巡って行くだけだ。個はせかいを構成し、そしてせかいは個の集合体でもある。故に甲斐たち人間だって世界の中の一要素にすぎないし、同時に雛たち幻想の存在だって世界を形作っているものなのだ。

「知ったような口を……!」

 そしてその時形式のその身から吹き出したのは、鬼気と呼ばれるもはや形をなした人の黒いユメ。

 そこに込められていたのはきっと憎悪や殺意や悪意という、あらゆる負の感情の集合体。
 そしてそれが形をなしたものを、人は呪いと呼ぶのだろう。

 だが――

 呪いなんて、とっくに受け入れている。殺意なんて、とっくに受け入れている。悪意なんて、とっくに受け入れている。だって甲斐はとうの昔に、世界全てを受け入れているのだから。

「な……なんだ、能力が通じない!? 何故……貴様、何をした!」

 彼女が何に驚いているのか、甲斐にはまるで理解出来なかった。
 だけど甲斐は己が理解できるかどうかすら関係なく、ただ世界を受け入れて在り続け、生きていくだけなのだ。
 いつだって、世界に生きるただの一人の人間として。変わらず世界全てを愛してそれを受け入れながら。

 受け入れていないのは、過程だけ。まだ出てもいない結果を何もせず看過してしまう自分という、人として生きることを放棄したあり得るかもしれない己のみ。
 何を受け入れても変わらず在り続ける"自分"が、狂気だろうと憎しみだろうと諦めだろうと絶望だろうと死だろうと何を受け入れても変わらない"心"が、これからもすべてを受け入れ続け『門倉甲斐』として在るために、それだけは受け入れるなと喚いていた。

 『門倉甲斐』は、あらゆる全てを受け入れる。そしてそのために必要なことは、何を受け入れたとしても変わらず在り続ける"己"のみ。
 だからこそ甲斐は全てを受け入れても、それでも変わらず『門倉甲斐』で在り続けるのだ。


 故に――何人たりともその存在、決して侵すこと能わず


「貴様本当に……何者なんだ!?」
「別に、何者でもないさ。俺はただの、人間だよ。きっと死ぬまで変わらず"俺"で在り続ける、ただの一人の人間だ」

 正直に言えば……、甲斐は彼女が雛を消そうとしていることだって、否定するつもりはなかった。
 多少行動自体は過激だが、きっとそれは現実に生きる人間としてむしろ当たり前の側の反応なのだろう。
 自分のほうが普通ではないことをしているのは、初めから理解していた。もしかしたら正義ってやつも、向こうの側にあるのかも知れない。それに反抗しているのは別に、今目の前に居るこの相手が憎いわけでも気にくわないわけでもなくて、ただ何もしないで雛を見殺しにしてしまったら自分が許せないだろうからこうしているだけ。
 だから、

「アンタだって、俺には否定するつもりはない。受け入れるさ。アンタも俺と同じ人間で、変わらず世界の一部なんだから」
「門倉……かどくら、かい!!」

 そして甲斐は自身の切り札を無効化された事実に混乱して突っ込んできた彼女の真っ直ぐな拳を受け入れると、それを否定せず流れに身を任せて世界へと循環させた。
















<あとがき・一言メモ>
今回は中々難産でした。細かい戦況分析なんかはテンポが悪くなるかと省いたけど、そのせいでわかりにくくなってなければいいのですが。もしかしたらまた見なおして微修正位はするかも知れません。
それにしても、こういうのは厨二病と紙一重なので難しい。変になってなきゃいいのだけど。



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