あの後甲斐たち一行は、

「念のために言っとくけど、雛も一緒なんだから押すなよ? 宇佐見」
「え、なにそれ振り? じゃあ、えいっ!」
「っておい!」
「え、え!? な、なにこれっ? きゃあぁぁ!」
「蓮子、貴女芸人じゃないんだから」

 とウォータースライダーで騒いだり、

「くらえ! これがわたしの必殺の魔球だ!」
「ビーチバレーで魔球って何?」
「いやあ、この状態で動くの大変だなあ」
「もう、変に落ち着いてないで少しは焦ってよ甲斐!」
「おお、お雛ちゃんったら門倉のこと引きずりながら動いてるよ」
「すごい身体能力ね」
「っていうかそこまでして離れたくないのかなあ?」

 などと浜辺で道具を借りてバレーをしたりしていたが……

 しかし楽しい時間というものは、いつもすぐに過ぎ去ってしまうもの。やがて全員が遊び疲れ、自然と満足して帰る用意をし着替え終えると、一行は外に出てそれぞれ別れの言葉を交わしていた。

 だが、それではこの日は終わらなかった――



 それはとっぷりと陽も暮れて行き、時刻も夕方へと差し掛かった頃。

 人と人との別れ時。陽が落ちきり、昼が夜へと移り変わる直前のその境界線。
 一日で最も禍々しい、幼子が魔へと出会い何処かへ誘われてしまう隙間時。

 ――人はそれを、逢魔ヶ刻と呼ぶのである

 そして其の刻に出会ったのが魔ではなく人であったというその事実は、一体誰にとっての皮肉だったのだろうか。



 鍵山雛は、油断していた。
 いや、それを安心と呼ばず、油断と呼ぶのはあまりにも酷だろうか。しかし、事実雛は忘れていたのである。自身がこの世界にとって異物であるということを……甲斐のせいで。
 そしてなにより、甲斐のお陰で。

 マエリベリー・ハーンは、驚いていた。
 その時目に入った黒いスーツに身を包んだ壮年の女性が、自分や蓮子、甲斐と同類であることが境界を見てしまって分かったから。

 宇佐見蓮子は、面食らっていた。
 一度だけ自分に会いに来たことのある、自身の人生の中でもトップクラスの要注意人物が、このタイミングで己の目の前に現れたことに。

 そして門倉甲斐は、警戒していた。
 突然に現れて、自分たちの行く手を硬い空気を纏わせながら塞いだその黒いスーツの女性を。さらに周囲に視線を巡らせれば、十数人の黒服の男たちがこちらを囲みながらカメラや何かの機材を出して道を開けさせて、まるで映画か何かの撮影のようにカモフラージュし始めたのを確認して。

(本当にテレビや映画の撮影の類いでは、ないよな)

 そう考えるには、矛盾が多すぎる。すぐに一瞬浮かんだその考えを否定して、甲斐は視線を尖らせ目の前の女性の様子を伺った。
 何かを判断するにも、行動するのにも、余りにも情報が少なすぎる。率直に言って、わけがわからなかった。
 これだけ大々的に公道を占拠して、どこからの警告の一つもない。ならばこれは、正式な申請の元に行われていることなのだろうが……。

(まさか、警察? ――いや)

 警察が一般人を騙すようなことまでして、こんなことをする意味が分からない。仮に、全く有り得ないだろうが仮定として、自分たちの中に誰か犯罪者がいたとしても……警察がこんなことを果たしてするだろうか。

(無い、な)

 ならばこの集団は、一体……?

 と甲斐が己の中の疑問を消化しながら思考を巡らせていると、その瞬間唐突に、

「確保」

 "ミシリ"とまるで、空気が軋むような音がした。
 それは比喩でも何でもない。文字通り、確かにそんな音が甲斐の耳へと届き、そして雛の耳元で鳴ったのである。

 直後、雛の体が動かなくなった。

 本当に、全く体のどこの部分も固まってしまったかのように動かせなかったのだ。手足だけではない。首も動かなければ腰を曲げることも出来ず、口を開くことすら出来なかったのである。

「んう!?」

 そのせいで雛は口からくぐもった声しか出せなくなりながら、唯一動いた目だけを驚愕に見開いた。
 そして次の瞬間、甲斐はいつの間にか迫ってきていた男たちに押さえこまれ、

「な!?」

 さらに雛の体はまるで風船のようにフワフワと宙に浮かんでいるような不思議な動きをしながら、黒いスーツの女に拐われてしまう。

「雛!」
「鍵山さん!?」
「お雛ちゃん!」

 ――直後

 雛は外の世界に来てから今までで、最大級の否定の意思をその身に受けた。

「む、んぅ……!」

 それはまるで、毒のように。そしてあるいは、呪いのごとく。雛の身体を、精神を、存在を浸していく。その盲目的で、妄信的な否定の意思は……外の世界全体に満たされているそれの、比ではなかった。
 それは今雛の体を良く分からない方法で浮かせ抱えている、その黒スーツの女が纏っているもの。
 その意志は正に、甲斐の許容の意思とは真逆。絶対不可侵の現実という名の、幻想を喰らう怪物の如く残酷な冷たく固い意志だった。
 そして雛はそれに力を急速に打ち消されていってしまい、すぐに意識を手放してしまう。それは少しでも力の消耗を抑えようとする、無意識の防衛機構のようなものだったのかも知れない。

(くそ! なにがなんだかわけが分からねえ……!)

 何もかもが唐突で、甲斐たち一行の誰一人として全く状況について行けていなかった。
 だが、雛が甲斐から離れるということは、即ち先日の二の舞になるということだ。故に甲斐には、これをこのまま見過ごすつもりは毛頭なかった。

 状況を把握したり、会話や説得や交渉をするのは、仮に出来るとしてもどちらにせよ全て雛を取り戻したその後に。
 しかし、それを成すのは一人では無理だろう。甲斐にはこれほどの人数を一度に相手取るだけの、力も能力も権力もないのだから。
 だから甲斐はその瞬間、大きく息を吸って己の肺に酸素を目一杯満たすと、自身に出せる限り最大の大声で、唐突に虚空に向かって一言その名を叫んで彼女を呼んだ。

「み〜こと、来てくれ!」
「は?」
「え?」
「何を?」
「……?」

 そして当人以外……その名を知っている者も知らない者も、誰もが甲斐の奇行に首を傾げた、その刹那。
 甲斐の体を拘束していた二人の黒服が、ものすごい勢いで吹き飛んだ。

「はい! 呼ばれて飛び出て参りました、ぼっちゃま!」
「ぐあ!」
「な、なんだ!?」

 とそこで初めて、身を翻し用意していた車に乗り込んで雛を連れ去ろうとしていた黒スーツの女が動きを止め、

「岡崎教授製のガイノイドか」

 と警戒もあらわにみ〜ことを睨みつける。
 しかしみ〜ことはまるでその場の空気を(あえて)読まず、「いいえ!」と首を横に大きく振り元気良くそれを否定すると、

「わたくしはもはやロボットでもなければガイノイドでもない――ただただ甲斐ぼっちゃまだけのメイドでございます!」

 とよくわからない宣言をした。

「……メイド?」
「というか一体いつの間にここに?」
「警戒班は何をしていた」
「あのガイノイドが家を離れたという報告はなかったぞ。どうやって現れた?」

 直後に色んな意味でのわけのわからなさにざわつく黒服たちに、み〜ことはさらに続けて、

「主人がこの身を呼んでくださったというのに、たとえどこにいようと瞬時に駆けつけないメイドがこの世におりますか! 取り敢えず監視とか空間とか距離とかは適当にブッチして飛んで参りました!」

 とりあえずで物理法則やらなんやらを無視しないでください。

「ねえメリー。最近のメイドさんって、すごいんだね」
「……お願いだから目を覚ましなさい蓮子。そんなわけないでしょ」

 もうなんか、シリアスとか色々と台無しであった。これがみ〜ことクオリティの恐ろしさである。間違いなく、色々と間違っているが。

 しかしおかげで、場が動いた。

「み〜こと! まずは雛を助けるのが最優先だ、頼む!」
「承知いたしました」

 その瞬間、先ほどまでの態度が嘘のように硬質な返事と共に、み〜ことが高速で地面を低く駆け抜けた。
 その踏み込みは、まるで重機か何かのように容易にアスファルトを砕き……もはや残像を残さんばかりの、人には決して叶わない速度を実現するもの。
 そしてみ〜ことが完全に黒服たちの虚を突いて、黒スーツの女に死なない程度の拳を向ける……が、

(硬い!?)

 ――ガキンとあたりに響き渡る快音。

 黒スーツの女はその拳に、素手のまま手をかざしていただけだというのに……それはみ〜ことの拳にまるで鉄でも殴りつけたかのような硬い感触を返して、平然と跳ね返した。

「……速いな。それに、いい奇襲だ」

 み〜ことの攻撃を受けてそう呟いた女が次にしたことは、

「まずは門倉甲斐を確保しろ。その方が早く無力化できる」

 という指示を出すことだった。

「くっ……!」

 そのためみ〜ことは、要所要所で牽制を入れてくる黒スーツの女の攻撃を防ぎながら、全ての黒服の相手を同時にしなければならなくなった。
 いくらみ〜ことが人にはありえないような身体能力を有していたとしても、それを発揮する体は一つだけ。分身でもできない限りは、殺さないようにこれだけの人数を同時に相手取るのは流石に不可能。

 そしてとうとう、一人の男が甲斐を捕らえようと無表情のままに掴みかかってくる。それを見てようやく事態に追いついてきたメリーと蓮子が、背後ではっと息を飲んだのを甲斐は気配で感じていた。
 向かってくる男は見るからに屈強。そして甲斐はどうみても普通の体格をしている。そんなただの一般人が、自らを鋼のごとく鍛えた男に対抗できるものではないだろう。
 だが、しかし。

「――」

 それを見つめる甲斐の瞳には……そしてみ〜ことの表情にも、焦りの感情は全くみられなかった。
 甲斐には少なくとも、戦いに使えるような特別な能力はないし、武術を習っているわけでもなければ、喧嘩慣れしているわけでもない普通の人間だ。
 ――が、

「ぐ、が……げほっ!?」

 その時甲斐に掴みかかった黒服の男は、自身の伸ばしたその手が相手の体に届くことなく地面に引倒されたことを、その衝撃に息をつまらせてからようやく驚愕と共に理解した。

 向かってきた力を受け入れて受け流し、そしてそれを利用する。

 甲斐はどうしてか昔から、誰かに教えてもらったわけでも習ったわけでもなかったのに、それだけは当たり前のように何時の間にか自然とできるようになっていた。
 どうしてかはわからない。強いて言うのなら、できるからできるのだ。そのまるで、魂に刻まれていたかのような技術を何かと騒動に巻き込まれやすい甲斐はかなり重宝していた。特に岡崎教授たちと付き合うようになってからはその頻度が高くなり、以前よりもその精度は高まっている。

 受けて流して、大地へ還し……循環させる。それはまるで、輪舞の如く。

 甲斐一人の戦力は、そこまで大きくはない。甲斐には自分から攻めることができず、一対一でなければあっさりやられてしまうだろうから。だがしかし、逆に言えば一対一の状態を常に作り上げてやれば、甲斐は倒されないのだ。その事実は、み〜ことにとってかなりこの状況を楽にしてくれるものだった。
 この一対一の状態は、全てを自身だけでは捌き切れないことを悟ったみ〜ことが意図的に作った、甲斐への信頼の証でもあったのだ。

「ちっ……」

 このままでは、下手をすれば全滅するのはこちらの方かも知れない。甲斐とみ〜ことに次々と無力化されていく自分の部下たちの姿を見てそう判断した黒スーツの女は、一度小さく舌打ちをするとついに強行手段へと出ることにした。

「そこの二人。それ以上抵抗するな」

 そしてその言葉に振り向いた甲斐の目に飛び込んできたのは、甲斐が雛を助けようとしていることをその会話内容から理解していた黒スーツの女にナイフらしきものをつきつけられている、気を失った雛の姿だった。



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