雛は「ちょっと待っててくれよ。確認してくるから」といって部屋へと戻っていった甲斐の背中を見送ると、そのままソファーに座って戻ってくるのを待っていた。

 甲斐はあんな事を言っていたが、果たして本当なのだろうか。なんだかそこまで行ってしまうと、偶然を通り越していっそ作為的なものを感じてしまう。
 甲斐には雛を助けることで得られるメリットなどないし、邪な考えがないであろうことは一目でわかるほどに伝わってくる精神が穏やかすぎる。だから甲斐が自分を騙しているなどとは露程も思わないが、とはいえこの状況を全て偶然で片付けてしまっていいものか。
 などと考え事をしていると、不意にその時み〜ことから、

「雛さん、紅茶のおかわりはいかがですか? それとこちらに、お茶うけもございますよ」

 と声をかけられたので、雛は手元に視線を落とす。
 すると目に入ったのは、白いカップの底に描かれている装飾部分。どうやら自分でも気づかない内に飲み干してしまっていたようで、いつの間にか中身が空になっていた。

「それじゃあいただこうかしら。ありがとう、み〜こと」

 そして再びソーサーの上にカップが置かれると、雛はまずみ〜ことが一緒に出してくれたお茶うけ……小さな円形のお菓子に手をつけた。

「あら。このお菓子、すごく美味しい。なんていうお菓子なの? 和菓子ではなさそうだし……西洋由来のものかしら?」

 口にした瞬間に感じる事のできるサクサクとした口触りのいい食感と、鼻腔をくすぐる芳醇な香り。甘さも丁度良く、少々口の中が乾いてしまうのが難点といえば難点だが、しかしお茶請けとしてなら最高の物だろう。

「はい、そうですわ。ちなみにそのお菓子の名前は、クッキーと言います」
「クッキー……。そう。あまり西洋由来の物は幻想郷に多くはないから初めて食べたのだけど、たまにはこういうのもいいものね」
「というと、あまり洋菓子などは食べられないのですか?」
「ええ、そうね。幻想郷が隠れ里から今のようになって以来、外とは隔離されているから……西洋の物に限らず、あまり舶来のものは多くないのよ。全くないというわけではないし、行くところに行けば手に入るのだけど。……あ、そういえば前にみ〜ことがお菓子を作るって話をしてたけど、もしかして?」

 雛が紅茶を手にしながらそう質問すると、み〜ことは「はい」とすぐに頷いて微笑を浮かべた。

「それはわたくしの手作りでございますわ。先ほど甲斐ぼっちゃまが朝餉を作られていた時に空いたスペースを使っての片手間でしたので、あまり凝ってはおりませんが」

 その言葉を聞いた雛は、どこか意外そうに小首を傾げた。

「そうなの? 片手間でこれだけの物が作れるんだったら、さぞや本気のみ〜ことの腕前はすごいのでしょうね。甲斐が羨ましいわ。いつでもこんなに美味しい物が食べられるんだから」
「あ……ほ、ホントにそう思われますか?」
「もちろん。だって本当に美味しんだもの、これ」
「そうでございますか……」
「?」

 雛の賞賛の言葉を聞いてなんだか本気で胸をなでおろしているみ〜ことを見て、雛は不思議そうな視線を向ける。

「あ、いえ。わたくしには……その、機能としての味覚は存在していても、やはり全く人のそれと同じというわけではございませんので……実は少しだけ、不安だったのです。甲斐ぼっちゃまもいつも美味しいとは言ってくださるのですが、それが本音である保証はなかったので……」

 その説明を聞いた雛は、すぐに合点が行ったように頷いた。

「ああ、確かに甲斐なら、自分のために作ってくれた物を不味いとは言わなさそうだものね」
「そうなのです。ですので雛さんに美味しいといっていただけて、正直ホッとしておりました。やはり身近な者以外の意見というのは、また違うと思いますので」

 そう言って言葉通り安心したように微笑んでいるみ〜ことを見て、雛はついくすりと笑みを漏らしてしまう。

「み〜こと、貴女……すごく可愛いわね。そういうの、いいと思うわ。とても健気で可愛らしい。み〜ことは本当に、甲斐のことが好きなのね」
「え!? そ、そんな好きだなんてそんなことない――とは言えませんけどいえやっぱり今の発言はなかったことにして下さいませ!」

 突然カッと赤くなってアワアワと慌てるみ〜ことの姿に、雛はとうとう堪えきれずにくすくすと笑い出してしまった。
 どうやら普段から似たようなことを自分から言っているくせに、誰かに逆に言われるのは苦手らしい。いや、むしろだからこそ、だろうか。

「なんかやけに楽しそうだな……ってどうしたみ〜こと、そんな真っ赤になって?」

 とその時丁度戻ってきた甲斐がその状況を見て頭の上に《?》を浮かべる。

「な、なんでもございません! ええ、なんでもございませんとも! ですよね、雛さん!」
「ふふ。ええ、そうね。特に何もなかったわよ?」
「? そうか? まあいいけど。……っと、それより雛。さっき知り合いにメール……すぐに届く手紙みたいなもんだけど、それで確認してみたらやっぱり、博麗神社を知ってそうな奴の当てが見つかったぞ」

 甲斐の言葉を聞いた雛は、一度目を閉じて間を取った後、

「……本当に、見つかったのね」

 とおもむろに口を開いた。

「ああ。俺がメールしたのはマエリベリーっていう、昨日雛を助ける手伝いもしてくれたやつなんだけど……ついでだから、そのへんの説明も今しちまうか。丁度いいしな」
「ええ、分かったわ」

 そして甲斐ももう一度ソファーへと座り込むと、昨日雛が倒れた後に何が起こったのか、どういった経緯で助けることが出来たのかを語り始めた。

 メリーの力。それを知っていた甲斐が彼女に頼ったこと。初めは何も出来なかったが、その後にメリーの様子が変わったこと。その後の彼女の台詞や行動。そして最終的に彼女からもらった扇を使って、甲斐が雛に力を渡したこと。

「……」

 それら全てを聞き終えた雛は、どこか深刻な様子で黙りこんでしまった。

(それは恐らく、妖怪の賢者。やっぱり、無事だったのね。だけど……あらゆる境界が見える女の子? いえ。それも気になるけど、それよりも……)

 そして雛はゆっくりと、甲斐の瞳をまっすぐに見つめ覗き込みながら静かに口を開いた。

「甲斐。貴方は……」
「うん?」
「貴方は本当に、人間なの?」

 そのセリフを聞いた瞬間、甲斐は面食らったように目を丸くした。

「――へ? なんだいきなり……どうしてそんな事思ったんだ?」
「雛さん……?」

 こうして見ている限りでは、甲斐が人間であることを疑ってしまうような要素は特に存在しない。姿形や、感じる事の出来る感覚。体から微かに漏れ出る霊気。その全てが雛に甲斐が人間であるということを訴えていた。
 だけど、

「今の私の中に満たされている神力の量は、下手をすればかつての全盛期時代にも迫るくらいの量なのよ? もしもこれが全て甲斐の霊気から齎されたものだって言うんなら……甲斐がこうして普通でいられるはずがない。いえ、それどろか――」

 雛自身もまるで理解できていないような、眉を潜めたままの表情で言葉を続ける。

「多分きっと、死んでなければおかしいっていうくらいには……、――ううん、違うわね。それでもさらに、足りないくらいだわ」

 場合によっては、複数人を儀式や術式といった形で増幅させて命を捧げる、くらいの事をしなければ無理かもしれない。

「だけど私の目から見ても、やっぱり甲斐の体はなんとも無い様にしか見えないの。もちろん健康面に関しては見た通りしかわからないけど……霊気が空になってるかどうかくらいなら、私にもわかるのに」

 雛も甲斐が嘘を吐いているわけではないのは分かるのだ。しかしだからこそ、どうしても納得が行かないのである。
 それだけではなく、ずっと気になっていた……何故か甲斐には今だに厄がつく様子がないことも最初の質問に繋がった要因だったのだが、それについては今は何も言わなかった。

「ううん……?」
「――」

 雛の説明を聞き終えた後、甲斐は腕を組みながら首を捻り、そしてみ〜ことは僅かに顔を青ざめさせていた。特に死んでなければおかしいというくだりは、み〜ことにとっては聞き逃せないところだったのだろう。

「甲斐。その話に出てきた扇子、ちょっと私にも見せてくれないかしら。もしかしたら、それに何かがあるのかも」

 あの妖怪の賢者なら、何をしでかすか分からないのだ。それを見て分かることがあるかは微妙だが、それしか手がかりがないのだから仕方ない。

「ああ、いいぞ。すぐ持ってくるから、ちょっと待ってて――」

 とその時甲斐の了承の言葉に割り込んで、み〜ことが口を挟んだ。

「お待ちください。それでしたらわたくしがお持ちしてまいりますので、甲斐様は雛さんと一緒にここでお待ちになって下さいませ。――それでは、失礼致します」
「あ、おい。み〜こと?」

 恭しくお辞儀をして踵を返したみ〜ことを、ほとんど反射的に呼び止めてしまう甲斐。

「……なんでしょうか」
「あー、いや。そうだ、あの扇子が俺の部屋にあるってことは……」
「存じておりますので、ご心配には及びません」

 そうピシャリと言い放って今度こそ居間から出ていったみ〜ことの背中を見送りながら、甲斐は困ったように眉尻を下げると雛と顔を見合わせて、そしてほとんど同時に苦笑いを浮かべた。






「雛さん、こちらがそうでございます。どうぞ、ご確認ください」

 少しして、み〜ことの持ってきた見た目は何の変哲もない扇を受け取る。

「ええ、ありがとう。……それと、ごめんなさいね、み〜こと」

 と同時に、雛は小さく頭を下げて謝罪の言葉を口にした。

「……なぜ、雛さんが謝られるのですか?」
「だって、私のせいで甲斐が無理をしたみたいだから。……甲斐も、ごめんなさい。その上私は、貴方を疑うようなことを言ってしまって」
「んー」

 すると甲斐は小さく唸って、ちょいちょいとみ〜ことを手招きした。

「甲斐ぼっちゃま?」

 直後にみ〜ことはその意図が分からず、訝しげな視線を甲斐に送るが――

「いいからみ〜こと、ここに座りなさい」

 ……そう言って甲斐が指し示したのは、自分の膝の上だった。

「……え?」
「ほらほら、早く」
「本気でございますか……?」

 そして甲斐は二人から突き刺さる視線を気にも留めず、にっと軽い笑顔を浮かべると頷きながらもう一度自身の膝をポンと叩く。その様子を見たみ〜ことは甲斐に全く引く気がないのだと理解すると、数瞬躊躇うように視線を彷徨わせた後、ゆっくりとそこに腰を下ろして真正面に居る雛から目を逸した。
 さらに甲斐はまるで借りてきた猫のように大人しくなったみ〜ことの体の前に腕を回して抱きしめるようにすると、今度は顔を上げて雛に真っ直ぐな視線を向ける。そして真剣な表情を崩さずに、まるで何か宥めるかのような穏やかな口調で、

「別に俺があの時その扇子を使ったのは……、雛の"せいで"じゃないよ。あれをやったのは、何より自分の"ために"だ。もしもあのまま雛を見殺しにしてたとしたら、俺はそれをしなかった自分を受け入れられなかっただろうからやっただけ。そういう意味じゃあ、雛と同じだな」
「私と、同じ?」

 雛は初め目を白黒させながら甲斐とみ〜ことを交互に見ていたが、その言葉を耳にした瞬間顔を上げて甲斐の真意をはかるように視線を合わせた。

「ああ。雛は自分が不幸を払う『厄神』だから、誰かが不幸になるのをよしとしなかったんだろ? それと同じで、俺も自分が『門倉甲斐』であるために……自分がそうでいたかったから、そうしたんだ。だから結局のところ、俺は俺の都合で勝手をやっただけなんだよ。――ま、それを聞いてどう受け取るのかは、"二人に"任せるけどな。その上で雛がまだ俺に謝りたいっていうんなら、その時はその謝罪も受け取るさ」
「――いいえ」

 甲斐の語った言葉の内容を反芻しながら、だんだんとその意図が理解できてきた雛はニッコリと屈託の無い笑顔を浮かべて、

「もう謝るのは、止めておくことにするわ。多分貴方に伝えるべきなのは、謝罪じゃなくて感謝だと思うから。二度目になっちゃうけど、もう一度……ありがとう、甲斐。……私からは何も、言葉しか返せるものはないけど……きっと甲斐には、それ以上は余計なんでしょうね」
「ん……どういたしまして、ってところかな。それが余計とは言わないけど、気持ちだけ受け取っとくよ。――み〜ことも、そういうことでもう……いいか?」
「……」

 最後に甲斐が確認するように視線を落としてそう告げると、み〜ことは体を横にずらしてまるで甘えるように服の裾をぎゅっと掴み、

「……にゃ〜」

 と答えの代わりにネコのように一鳴きすると、紅潮した顔を隠すようにして甲斐の腕に体を預けた。
 そして甲斐と雛は同時に目を細めてまるで子どもを見守る親のような表情を浮かべると、少し前と同じように顔を見合わせて笑い合った。



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