「いらっしゃいませ。一名様ですか?」 「いや、ここで知人と待ち合わせをしているので……」 甲斐は大学の側にある喫茶店の店員の問いにそう答えると、店内に待ち人――メリーの姿を探す。 「ああ、いたいた。あのテーブル……金髪の女性の居る席です。そこで」 「畏まりました。それではすぐにご注文をお伺いに行きますね」 「ええ、どうも」 甲斐はそう言って店員に小さく会釈をすると、話しながら視線で示していた席へと歩いて行く。 甲斐はみ〜ことの機嫌がどうにか収まった後、ずっと気になっていたメリーに確認の意味も込めて電話をかけてみたのだ。 するとメリーから直接会って話がしたいという言葉を告げられたので、メリーに大きな借りのある甲斐はみ〜ことの作った料理を急いで全て平らげて――そうしないとみ〜ことのせっかく治った機嫌がまた悪くなりかねなかった――この喫茶店へと赴いていた。 なんでもメリーはあの後ずっとこの店にいたらしく、この上更に家に呼び出すのは違うだろうと甲斐の方から向かうことにしたのだ。他にも以前にしたデザートを奢るという約束を果たすのに丁度良かったという考えもあったが、まあそれはついでである。 「マエリベリー、さっきはありがとな。おかげで雛も助かったし……それに迷惑もかけた。丁度いいから約束のデザートの奢りと……あとお詫びも兼ねて、今日は何頼まれてもここは俺が全部払うぞ」 甲斐はそう声をかけながらメリーの向かい側の椅子に腰を下ろした。そして料理の食べ過ぎでシクシクとまだ少し痛む胃を宥めながら顔を上げでメリーと目を合わせると、そこで小さく首を傾げる。 (……おや?) その表情からはいつも口元に浮かべていた笑みが消えており、精彩を欠いていた。視線も若干俯きがちであるし、どうにも浮かない顔をしている。 それに、反応も悪い。いつもの打てば響く様なテンポのいい返事は返ってこず、暫くの沈黙の後メリーはようやく重そうに口を開いた。 「……あの人はあんな事言ってたけど、どうやら貴方は大事ないみたいね。あの雛っていう子はその後、どう?」 その『あの人』という表現に少し引っかかるものを感じながらも、甲斐はすぐに相づちを打つ。 「ああ、おかげさまでもう大丈夫そうだよ。今は疲れて寝てるけど、前と比べたらずいぶん元気になった。多分もう、無茶をしなきゃ前みたいな事にはならんだろ」 「そう……」 ポツリとメリーが呟きを漏らして、それで会話が途切れてしまう。 とそこで丁度店員からの注文を求める声が聞こえてきたので甲斐は紅茶を頼み、メリーはショートケーキを頼んだ。 しかしそれ以降メリーは黙りこんでしまって、何があったのか分からない甲斐も戸惑いを滲ませながら視線を彷徨わせ口を噤むしかなかった。 そして重苦しい沈黙が、このテーブルの周りの空気をどんよりと包んでいく。 仮にここにメリーの相棒でもありサークル仲間でもある蓮子がいたとしたら、 「相変わらずポンポン頼んではパクパク食べてくれちゃってるみたいだけど、デザートは女の子の友達であると同時に明日の敵でもあるんだからね。……最もわたしの本当の敵は、それだけ何も気にせず好きなだけ食べてるくせに完璧なプロポーションを誇ってらっしゃりやがる、メリーの方なんだけど」 などとメリーのお腹周りを睨みながら呟いて、自然とこんな空気も打ち消してくれたのだろうが、甲斐には真似できそうもなかった。 元々甲斐は、あまり弁が立つ方ではないのだ。人の話を聞くのは好きだったが、自分から積極的に話すことはあまりなかった。 なので甲斐は色々と考えた末に結局メリーが話し始めるまで待つことを決めて、静かに店員が持ってきた紅茶に口をつけると穏やかな空気を纏わせながら、このまま沈黙を守ることにした。 「門倉くんは……」 「?」 そうしてしばらくして、ようやく口を開き沈黙を破ったメリーの声を耳にして視線を上げる。 「門倉くんは、あの時出てきた『あの人』のこと、何か知ってる?」 「あの人、と言うと……当然あの扇子を俺にくれた?」 「ええ」 その言葉を聞いた瞬間、甲斐はわずかに意外そうな表情を浮かべて目を瞬いた。 甲斐はあの時去り際にメリーの言う『あの人』の口にした、『自分はメリーの別人格のようなもの』という言葉に納得していたからだ。 初めは雛の関係者だと思っていたが……、一人の人間に、二つの人格。それは即ち身の内に境界を宿すことに通じるのではないだろうか。そう解釈した甲斐はメリーの力が生まれた背景にはこれがあったのか、と考えていた。 だからついでにやけに色々詳しかったことについても聞いてみようと思っていたのだが、どうやらそれは外れだったらしい。 実際甲斐のその考えを聞いたメリーも「いいえ」と首を横に振って、 「仮にわたしの中に別の人格なんてものがあったら、そこには門倉くんの言った通り境界が生まれる。だけどそんなものは、昔も今も見えたことがなかったもの。だからあれはわたしとはなんの関係もない、全くの別人」 という答えを返してきた。 「あれから『あの人』は真っ直ぐにこの喫茶店まで歩いてくると、しばらく紅茶だけを頼んでここにいて、そして突然わたしの意識が戻った」 「記憶は、残ってるんだな」 「そう、ね。あくまでわたしの体がどういう行動をとっていたか……だけで、『あの人』が何を考えていたのかとかは、分からなかったけど」 「……」 それは……いくらメリーでも、不安に思うのは無理もなかろう。いきなり誰かもわからない何者かに体を乗っ取られて、その上本当に何も分からないのだから。 メリーは多少浮世離れしたところはあるが、しかしそれでもやはりあくまで普通の女の子なのである。確かに色々と変わったところはあるし、性格も当たり前のものとは言えない。でも、異常かと言ったらそんなことはない。普通の感覚だって持ってるし、一般的な女の子とそう変りない感性をしているところもたくさんある。 そういったメリーの普通なところを、それなりに付き合いのあった甲斐は知っていたから、その不安もなんとなく想像することは出来た。 「あくまで、俺の視点から見た話だけど」 「え?」 「マエリベリーのいう『あの人』は多分、悪いやつじゃあないと思う」 「……どうしてそう思うのか、伺ってもよろしくて?」 相変わらず暗い表情のまま、じっと甲斐の真意を探るようにこちらを見ているメリーに頷きを返すと、 「一番最初に思ったのは、正直に言うとただの勘だ。信用はできないけど信頼はできるって、見た直後になんとなくそう思った」 「……」 「だけど、根拠はそれだけじゃない。……なあ、マエリベリー。あいつはさ、なんであの時に出てきたんだと思う?」 「なんでって……そんなの、分かるわけない。それが分かったら……」 こんなに不安になんてならなかった、ということだろう。 そしてその、心にのしかかる重い不安。それがマエリベリーの思考を停止させていた。 しかし、それも無理は無いだろう。もしかしたら気づかない内にまた体が乗っ取られるかも知れず、その上今度も自分に戻れる保証なんてないのだから。 「俺は……いくら勘でそう思ったって言ったって、あの時あいつの言葉を全部信用したわけじゃなかった。嘘ではなくても何か言ってないこと……隠してあることがあるとか、それくらいには考えてたんだよ。だけど……」 そこで甲斐はふっと表情を少しだけ緩めると、そのまま続きを話すべくもう一度口を開いた。 「結局そんなものはなかった。雛の体はきちんと回復したし、俺もどこもなんともない。それにあの後何かおかしなことが起こったわけでもなかった。……ってことはだ。あいつは多分、初めから雛を助けるためだけに出てきたんじゃないかって思うんだよ。というか、他に目的が思いつかないって言ったほうがいいかな」 甲斐の言葉を聞いて、メリーがぱちりと一度瞬きした。 「だって、考えても見ろよ。あれがマエリベリーとは全くの別人だってことは、別に体を乗っ取るのはアンタじゃなくても良かったはずだ。それこそ俺の体を乗っ取って、勝手に雛に神力とかいうのを渡すことだって出来たはず。だけどあいつはそうはしないで、俺にどうするかの選択肢を残してった。何か目的があったり他の意味があったんなら、そんな結果がどうなるかわからないやり方なんて、しないだろ? それしか手段がなかったんならわかるけど、そうじゃないんだからさ」 そして長いセリフを言い切った甲斐は最後に、 「っていうことで、恐らくあいつはただのおせっかいのお人好しだったんじゃないかっていうのが、俺の考えだな。ま、誰かの頭ん中なんざ分からないし……これは俺のただの予想だから、 と締めくくると、ぽりぽりと頬をかいて苦笑いを浮かべる。 メリーの心はメリーのものだ。そしてそこから見える世界は甲斐にはわからない。だから想像は出来たとしても、気軽にその気持ちがわかるなどとは言えなかったし、保証のない慰めなんて言えなかった。 「だから、心配はするなってこと? きっとわたしの体を勝手に使った誰かはお人好しなんだから、もうそんなことはしないだろうって」 「そういう訳じゃないさ。……正直言って、どうしたって俺にそれを防ぐ手段なんて思いつかないし、だったら無責任なことは言えないから自分の思ったことをそのまま口にしただけだ。だからそれをどう受け止めるのかは、アンタに任せるよ」 どこまでも、自分の姿勢を崩さない男だった。そこで「何があってもお前は俺が守る」くらい言ってしまえばもっと格好もつくというのに。 だけどその、"いつも通り"の甲斐の姿は、むしろメリーに心地よさを感じさせた。そして安心とまでは行かなくとも、少しだけ気持ちを上向きにさせたメリーはその時ふっと湧いた興味をそのまま口にしてみることにした。 「それじゃあ門倉くんは、また『あの人』が今度は悪意を持ってわたしの体を乗っ取ったら、その時はどうするのかしら?」 「ん……そう言われても、俺がその時そこにいるかは分からないしなんとも言えねえけど……まあ、それが俺にできることで何とかできそうだったらそうするだろうし、そうじゃなかったら何とかできそうな人を探すだろうな。それぐらいしか、俺にゃあ出来ねえしよ」 甲斐はさも当たり前のようにそう言うけれど、果たしてそれをしてくれるような人間がどれだけ居るものか。 『境界』なんて意味のわからないものが見えていると言いはる人間が、今度は体を乗っ取られるかも知れないからどうする? などと聞いてきて、そして当然のごとくその時は助けようとするだろうと答える。 それも甲斐は、もしもそうなったとしたら実際にそうするのだろう。 メリーには、そこに嘘や気負いは何も存在せず、本当にただ思ったことを口にしただけにしか見えなかった。これで嘘を言っているのだとしたら、きっと甲斐は稀代の詐欺師になれるのではないだろうか。 「ふふ……」 なんだか、本当に安心してしまった。 甲斐の口にした論拠は穴だらけで、解決策も対抗策も見つかってない。あれが誰なのかだって分からないし、どうして自分だったのか、また同じことがあるのかすらわからない。 だけどもし何かがあったとしても、当たり前のように助けに来てくれる人がいるのだと思うと、それだけでもう不安に思うことは出来なかった。 仮にそれでどうにもならなかったとしても、きっとメリーは甲斐を恨んだりはしないだろう。だって甲斐は本当に、自分にできる限りのことを全力でしてくれるのだろうと信じれたから。 さすがにそれで恨むのは、筋違いだろう。それはきっと腕をもう一本増やせとか、生身で時速一〇〇キロで走れとか、そんな無茶を言うのと変わらないのだろうから。 「ありがと、門倉くん」 「……別に、礼を言われるようなことはしてないと思うんだけどな……。結局マエリベリーの安心できそうなことも思いつかなかったし、気休めの一つも言えなかったんだから」 「いいの。わたしが貴方に感謝してるのはホントなんだから、こういう時は素直に受け取るものよ? どういたしまして、ってね」 メリーが本当にいつも通りの明るい表情に戻っているのを見て取ると、甲斐は「そっか。そうだな」と呟いて、小さく微笑を浮かべた。 「ところで……」 「ん?」 「今日のここのお代は、門倉くん持ちなのよね?」 目をいたずらっぽく輝かせながら問いかけてきたメリーの疑問に、 「ああ、そのつもりだけど」 と甲斐は頷きを返す。 「じゃあ、たっぷりごちそうにならないとね。それこそ、このお店の材料が空になるくらいには」 「え……」 メリーのお菓子好きっぷりが尋常じゃないことを知っていた甲斐は、思わずピタリと固まってしまった。それが流石に冗談なのは分かっているが、しかし全てが冗談というわけでもないのだろう。 「ああ……楽しみだわ。最近出費が多くて、あまり食べてなかったのよね」 「あー、できれば俺の懐が氷河期にならない程度には遠慮していただけると、とっても嬉しかったりするのですが……」 「――さあ、どうしようかしら?」 小さくバンザイして白旗を揚げる甲斐に、しかしメリーはまるで小悪魔のように魅力的な笑みを浮かべて可愛らしく小首を傾げてみせる。 (流石に門倉くんのお財布が空っぽになるまで食べるのは、勘弁してあげましょ) そしてそんなことを考えながら、メリーはいつもより少しだけ遠慮を忘れることにした。それは基本的に素直ではないメリーの、彼女なりの甘え方だったのかも知れない。 最後にメリーはもう一度「ふふっ」と心の底から楽しそうな笑顔を浮かべると、目の前に運ばれてきたケーキやパフェの山にとりかかり始めた。 なにより結局のところ、マエリベリー・ハーンという人間は基本的に、快楽主義者で楽しいことが大好きなのだ。せっかくこんな楽しそうなことが目の前にぶら下がっているというのに、それを止めることなどできようはずもなかったのである。 |
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