「外の世界に、帰れる……?」
「ええ。その通りですわ。ワタクシの能力は、『境界を操る程度の能力』と申しまして、幻想郷とあちらとを行き来することができますの」
 家の前で、突然現れた見覚えのある妖怪。しばらく身構えていたが、どうやら僕をどうこうするつもりはないようだ。
 なんでも僕に話があるそうで警戒しながらも聞いてみると、飛び出してきた言葉は外の世界に帰ることができるという言葉。
 それだけならばただ喜べばよかったのだけど、名も知らない妖怪は、最後にいまいち信用出来ない笑みを浮かべながらこ言った。
「ただし、それは貴方が幻想郷の常識に完全には染まりきっていない、今だけの話。それも時間の問題でしょう。そしてもしも外の世界に戻るのであれば、二度と幻想郷に来ることはできませんわ」
「そう、なんですか……。その、常識が染まりきるまでって言うのは……いったいいつまでなのか分かりますか?」
「そうですわね……。正確には分かりませんが……およそ二週間、といったところでしょうか」
「二週間……」
 どうするか考えるには短いと思うべきか、それともこちらの知り合いに別れを告げるには十分だと思うべきなのか。正直なところ、僕には自分の気持がいまいちはっきりと分からなかった。
「もしも貴方が外の世界へと帰るのであれば、この鈴を神社で鳴らしてくださいませ。それではワタクシは、このへんで失礼しますわ。こう見えても忙しい身の上ですから」
 そう言って身を翻した彼女に、僕は慌てて、
「あ、ちょ、ちょっと待ってください! どうして……どうして妖怪がこんな事を? 前はだってあなたは、僕のことを……」
「さあ、どうしてでしょうか。何でも人に聞いていては、良い大人にはなれませんわよ? ふふふ、それではごきげんよう」
 彼女はチラリとこちらを見ると、持っていた扇子で口元を隠しながらそう言って、今度こそ何処かへと消えて行った。
 何か穴のようなものを出していたから、それが彼女の能力なのだろう。一瞬その穴からは『訳の分からない何か』が見えて、それ以上は観察する気になれなかった。


「まったく……どうしたのよ今日は。いつもにも増してぼーっとして、何か悩み事?」
「いえ、その……なんでも、ないんです。すいません」
 あれから一週間。ずうっと悩んでいた。本当なら、次に来ると約束していた今日までには、結論をだそうと思っていたのだけど……それもできずに悩み続けて。そしていつものように家事をしていたのだけど、あまりにも心ここにあらずな様子で失敗続きな僕を見かねて、霊夢さんがお茶を出してくれたところだった。
 真っ先に別れを告げるとしたのなら、僕にとってここ幻想郷では最も交流のある、霊夢さんにであることは間違いない。そうでなければ、あまりにも不義理であろうと思ったから。たとえ僕と彼女の関係が、友人とも知り合いともつかない、微妙な関係だとしても。
 だから今日までには、と思っていたのに。僕は思考の迷路から、一向に抜けだせないでいた。
 神隠しにあったのだから当然ではあるけれど、僕は向こうの両親に、何の別れも告げられていない。突然何の前触れもなく消えてしまった一人息子に対して、心を痛めているのは間違いないだろう。
 向こうの世界に、未練はある。
 だけどやっぱり僕はあの空に……霊夢さんに、魅せられたままだった。丘の家から、空を見上げるといつも僕の瞳に映る美しい風景。それが見られなくなるというのは、どうにも耐えられそうもない気がした。
 そして霊夢さんと接しているうちに、僕はどんどん彼女本人を好きになってしまっていた。
 素っ気無い態度は、博麗の巫女という役割を大事に思っているからこそ。ぶっきらぼうな態度をしてる時は、よく照れ隠しであることが多い。その時の桜色に染まった頬と表情は、とても可愛らしくて……なにより綺麗だと思った。そしてあの、不器用だけど確かな優しさ。
 外の世界に帰るのなら、二度と彼女と会うことはできない。だけど幻想郷に残るのなら……両親と、そして生まれ育った故郷を捨てることになる。
 幻想郷と外の世界は、分かたれたコントラスト。
 一方の色に染まってしまったのなら、もう二度と反対側には戻れない。
 僕は選ばなければならないんだ。どちらの色に染まるのか。幻想郷と外の世界、霊夢さんと両親の、そのどちらかを。
 しかしそうして鬱々と考え込んでいた僕を、霊夢さんの凛とした声が一気に現実に引き戻した。
「嘘ね」
「え?」
「あなたは何かを悩んでる。それもわたしに何か後ろめたさのようなものを覚えるようなことで」
 どうしてそんなに断定的なんだろう、という疑問を浮かべるのは意味のないことなのだろう。きっと彼女に問いかければ、こんな答えが返って来るはずだ。
「なんで分かったかって? 勘よ」
 という答えが。
 こうして僕は、洗いざらい全てを霊夢さんには話すことになってしまった。
 すべてを話し終えた後の霊夢さんは、なんだかすっかり目が座っていて正直に言うと怖かった。
「外の世界に帰るのかどうか、迷ってた……? ふうん……」
 僕はそれ以上霊夢さんの顔を見ているのが怖くて、顔を俯ける。
「もしも……」
「?」
「もしも僕が外の世界に帰るといったら……霊夢さんは、どうしますか?」
 その言葉を口にしている間も、僕の視線は地面の先。どうしても、顔を上げることができない。胸の内に沈んでいる、ハッキリと言葉に出来ない何かが冷たい手となって、僕の頭を抑えつけていた。
「どうもしないわ。そんなこと、自分で決めなさい」
 あまりにもいつも通りな、そっけない彼女の言葉。その言葉を聞いた瞬間に、僕は胸の内に沈んでいたものがなんだったのかということに、ようやく気づくことができて、ハッと顔を上げた。
 僕はきっと、どちらの世界に残るのか、霊夢さんに決めて欲しかったんだ。
 だって霊夢さんが、僕が悩んでいることを見抜けないはずがない。そうしようとハッキリ思っていたわけではなくとも、きっと無意識のうちに僕は……
 そして自分では決められないからと、最後の決定を霊夢さんに委ねた僕。
 だけど彼女は、そんな甘えを許してはくれなかった。自分の行く末は、自分で決めるもの。きっと彼女は、そう言っているのだろう。だから彼女は何の感情も浮かべなかった。霊夢さんの気持ちが、僕の決定を左右しないようにと。
 なんて厳しい、そして深い優しさなんだろうか。そして僕は、なんて情けないんだろうか。一歩踏み出すのだと決意した、なんて言ったところで、結局僕はいつもどおりの僕だった。だけどもう、それではいけないのだ。彼女の気持ちを、彼女の優しさを踏みにじるわけには行かないのだから。
 だから僕は、一つの決意を固める。最後の最後、本当の最後くらいは、自分で決めて、自分の口で告げなくてはならない。
「僕は……」
 今度こそ、顔を上げて言葉を告げよう。心から魅せられた……どこまでも美しい、空のコントラストに。
「僕は外の世界に、帰ろうと思います」
 彼女は僕とは交わらない。力なき者と、力ある者。外の世界の人間と、幻想郷の人間として。彼女は僕の反対側。決してこちらに染まることのない、決定的な線の向こう側。
 幻想郷と外の世界は、分かたれたコントラスト。
 一方の色に染まってしまったのなら、もう二度と反対側には戻れない。
 だからきっと、この結果は始めから決まっていたんだ。僕は力なき人間であり、そして外の世界の人間だったのだから。
「……、そう。分かったわ。さようなら」
 そう言って、霊夢さんはクルリと踵を返して神社の奥へと歩いて行った。
 そして僕は背を向けて、神社の境内へと歩み出る。その手には、妖怪から渡されたあの鈴を持って。


「こうしてワタクシを呼んだということは、帰るのだということでよろしいのですわね?」
 妖怪は現れると同時、開口一番そう言った。それに僕は首を縦に振って、
「はい。帰ります。僕の生きる場所は、ここではありませんから」
「そうですか」
 彼女はただ静かに頷いて、手に持っていた扇子を振ろうと腕を上げた。そして僕の足下には何か裂け目のようなものが現れて、僕の体はそれに飲み込まれていった。


「よかったの、霊夢。あのまま行かせてしまって」
「いいのよ。自分の生きる場所くらい、自分自身で決めるものだもの」
「もしも貴女が望むなら、貴女も――」
「それ以上は言わないで」
 どこか沈んだ様子で告げる紫の言葉を、霊夢はピシャリと切り捨てた。
「わたしは博麗の巫女、博麗霊夢だもの。幻想郷からは離れられないし、初めからそのつもりもない。わたしはここに在らなきゃいけないの」
「……そう。そうだったわね」
 紫はわずかに視線を伏せて、扇子を一振りスキマに消える。
「ばか……」
 少しだけ泣きそうな、悲しげな表情。
 霊夢は誰もいなくなった境内で、小さく呟き空を見上げる。コントラストではなくなった、一つの色に染まってしまった空を。



「どうして……」
 なにか穴のようなものに落ちてから……垣間見えた外の世界と、両親の姿。そして神社の境内で悲しげな表情を見せる、霊夢さんの姿。僕にとっての、分かたれた二色。
 僕は外の世界に帰ると決めて……だけど現れたのは、僕の家。外の世界ではない、幻想郷にある小高い丘の上の家だ。
「どうしてですか」
「あらあら。この間も申し上げましたわよね? 何でも人に聞いていては、良い大人にはなれないと」
「……」
 僕が無言で睨みつけると、彼女は前のように口元を隠し、
「うふふ、冗談ですわ。ですからそんなに睨まないでくださいな。……もう一度だけ、考えてもらいたかったのですわ。己の生きる世界を己自身で決められるようになった貴方に……貴方にとっての世界の象徴を垣間見た先で、どちらの世界で生きるのかを」
 そして彼女は、扇子を一振り霞のように消えて行った。
「二日後に、もう一度迎えに来ますわ。それまでゆっくりと考えていてくださいな」
 という言葉を残して。





 あれから、食事も少なに考える。外の世界のこと、幻想郷のこと。両親のこと、霊夢さんのこと。
 僕は外の世界の住人だ。きっとそれは、仮に幻想郷に残ったとしても、変りない。
 交わらない反対の色として、この世界にあってはならない色として在り続ける。
 ならばやはり、僕はこの世界に残るべきではないのではないだろうか。そう思った。
「ひどい顔ね。寝てないの?」
 その時、そんな声が聞こえた。顔を上げると、戸が空いていて……
「……霊夢さん」
 僕の目の前には、いつの間にか彼女がいた。
「紫……あの時あなたが呼んでた妖怪に頼まれたのよ。あなたの迎えを」
「そう、なんですか。すいません。手間をかけさせてしまって」
「別に、このくらい大したことじゃないわ」
 いつも通りの、素っ気無い態度。
 彼女は、変りない。僕が残ろうとも、残らずとも、きっと変りない。
「行くわよ。この間と同じで、神社の境内で答えを聞くって言ってたわ」
「……」
 僕は無言で頷いて、いつかのように彼女につかまり空を飛ぶ。
 前と変わらず、空はとても綺麗だった。そしてその空に映える、赤と白のコントラスト。ずっと……いつかたどり着きたいと思っていた、……そして決してたどり着くことのない、美しい空。
「ああ……」
 そして、悟った。
「ひとつだけ、聞いてもいいですか」
「なに?」
「霊夢さんは、僕がいなくなったら悲しいですか?」
「別に。多少寂しくはなると思うけど、それだけよ」
 それは間違いなく本心なのだろう。そしてだからこそ、安心した。
 彼女は変わらない。幻想郷は変わらない。そしてこの空は、変わらない。僕がいようとも、決して交わらない色がそのままで在ろうとも。
 きっと、彼女と一緒にいる限り。
 お互いがお互いの色を保ったまま……別々に、だけど同時に生きて行けるのだと。
 彼女は僕がいようとも、その生き方を変えない。曲げない。歪めない。そして僕も、きっともう自分の在り方を曲げることはないだろう。
 僕は外の世界を捨てられないし、捨てる気もない。
 だけどそう在ってもなお、幻想郷博麗霊夢はすべてを受け入れる。去ることも、在ることも。
 幻想郷の象徴たる博麗霊夢は、故に境に在り続けられるのだ。


「今日はよく寝られました?」
「お陰さまで、まったく寝ていませんよ」
 ここにいるのは、僕と霊夢さんが紫と呼んでいた妖怪のみ。それでいいのだろうと思う。だからこそ、僕は決めることが出来たのだから。
「それで、結論は出ましたかしら?」
「ええ」
 僕は静かに頷いて、答えを告げる。きっと二度と揺らがないであろう、僕の生き方を。
「僕は幻想郷に……、ここで生きることに、決めました」
「あら。貴方はただの人間……それも外来人ですわ。それなのに……博麗の巫女である霊夢と共にいられると、そう思っているのですか?」
「一緒にいることは、できないかもしれません。だけど……同時に在ることはできる。僕はそう信じています。ここは、幻想郷ですから。霊夢さんと同じ……どんな存在にも平等で、どんな存在にも厳しく優しい……そんな場所です。だけどだからこそ、自分の在りたいように在れるのだと、そう思っています」
「そうですか」
 彼女は今度は口元を隠さずに、どこか満足そうな笑みを浮かべて消えて行った。
 僕はそれを見届けると、踵を返して神社の中へと向かっていく。結果を伝えに行くのではない。きっと、そんな事は必要ない。
 お互いが、お互いの在り方で。コントラストのように交わらず。だけどコントラストのように離れずに、ただただ同時に在り続ける。

 空を見上げれば……地平線の先には、空に映える赤と白のコントラスト。あそこに僕がたどり着くことは、決して無い。だって僕はただの人間で、空を飛ぶことはできないのだ。
 だけど僕は、歩き続ける。向こう側にはいけなくとも……その空の下を歩くことは、できるのだから。


「はい、これ。淹れてくれる?」
「あ、はい。分かりました」
 僕は小さく笑顔を返して湯のみを受け取った。あんな事があったとしても、僕たちはまったく以前と変わらない。
 それでいいのだと、僕は思う。だって僕は、そう在ることを選んだのだから。
 お湯を沸かし、お茶を淹れる。湯のみは二つ。僕は淹れたお茶を彼女の横にあるお盆に置いて、そしてそれを挟んで縁側に座る。
「どうですか?」
「そうね……」
 彼女はすすっていたお茶をお盆に置くと、こちらを向いて小さく微笑み返してくれた。
「まずいとは言わないけど、まだまだね。八五点ってところかしら。次は九〇点が目標ね」
「はい、分かりました」
 僕も小さく微笑を返し、そしてお茶をすすって空を見上げた。コントラストではない、ひとつの色のみに染まっている空を。




「それで結局のところ、お前は何がしたかったんだよ紫」
「あら……何がしたかったのだとは、何のことを指した言葉なのかしら」
「今さらとぼけるなよな……。だから、初めに霊夢とあいつを会わせたり、今回余計なことをしたことだぜ」
「あらあら。余計なこととは心外ですわね。ワタクシはただ、霊夢のためを思ってしただけですわ」
「……分かったよ。話す気はないってんだろ。……ただ最後に一つだけ。そう言うのが何ていうか知ってるか、紫」
「何でしょう」
「余計なお世話。もしくはありがた迷惑だぜ」
「あらあら」
 紫は口元を手にしている扇子で隠して、クスリと小さく笑った。
 そして魔理沙はそれを見て、ただただ胡散臭そうにため息を漏らすことしかできなかった。



戻る?