ここへやってきたことに、特にさしたる理由はなかった。
 強いて言うならば、山ごもりにうってつけの山が近辺に見当たらず、少々足を延ばしてこのような片田舎へと来たに過ぎない。やはり武術家の修行には山ごもりというのが不可欠であり、組手こそ不自由するも、瞑想や生き抜くうえでのサバイバル知識も身に付く。何より山ごもりというのは、自身の力を上げるための行動としては定番である。
 まぁ、俺の家自体もかなりの田舎ではあるものの、うってつけの山が見当たらなかったのだ。武術家にとって引き籠るのに都合の良い、空気の濃い山というものがなかった、それだけだ。
 そう――俺は本来、修行をするためだけにここへ来たのだ。
 まだまだ未熟な己の武術を、さらなる境地へと昇華させるため。男たる者、一度は夢見る最強という言葉に、少しでも近付くために。
「……あー、安請け合いしすぎたぁ

 数時間前の自分に想いを馳せて、そう呟く。もっとも呟いたところで、それを聞く相手など陽光を覆い隠すほどに群生した木々だけでしかないのだが。
 俺は今、森を歩いている。
 この辺りでも最も広い森である。その面積が一体いかほどになるかは、残念ながら数学的知識が九九を覚える程度で止まっている俺には、察することなどできない。だが少なくとも、既に数時間以上、この森をさまよっていることは確かだった。
 ことの始まりは、昨日のことだった。
 やはり武術家の修行ではあるものの、常時野営をするわけにはいかない。野宿も慣れたものではあるも、屋根のある家で暖かい布団で眠るという快楽も捨てがたい。このあたりの山を探るついでに、民家に一夜の宿を借りようと訪ねたのだ。
 民家の家主は非常に気さくな人間で、一夜の宿を借りることを承諾してくれたと共に、食事も提供された。それも、そこまで裕福ではないだろうに、折角のお客様だとご馳走を振舞ってくれたのだ。しかも酒付きである。さらに一人娘(推定十六、七歳。かなり可愛い)に酌をしてもらうなどというおまけ付きだ。人が好いにも程があるのではないか、などと思ってはいたのだが。
 酒をたらふく飲み、離れを借りて眠り、起きたその直後に告げられた言葉。
――実を言いますと、この辺りには妖怪が出現するのでございます。
――あなたは非常にお強い方だとお見受けします。どうか、あの妖怪を退治していただけないでしょうか。
 勿論、義を見てせざるは勇なきなり。俺は承諾し、必ずやその妖怪変化を倒してみせる、と大言壮語を吐いて、この森へとやってきたわけだ。決して、頼んでくる家主の娘(推定十六、七歳。かなり可愛い)が同じように隣で頼んできたからというわけではない。頼んでくる際に頭を下げる家主の娘(推定十六、七歳。かなり可愛い)の胸元が見えてしまって生返事をしてしまったわけではない。……いや、ほんとに。
 そもそも、今はこのような真昼間である。一夜の宿を朝に出て、そのまま森へと向かい、今に至る。妖怪変化というのはそもそもが夜に行動するものであって、昼間に探したところでいるはずがないだろう。そんなことにも気付かずに、俺は舞い上がって退治してやるとか考えていたらしい。
 まぁ、普通に考えれば、こんな時間に妖怪など出てこないだろう。日光に弱いのは吸血鬼だとかの特色ではあるも、主に昼間活動する妖怪など、寡聞にして耳にしたことはない。もっとも、俺自身は妖怪の知識など何一つないのだが。
「まったく……無駄足かよ

 やれやれ、と嘆息して、ひとまず森から出ることとする。折角だから近場の山を巡って、空気が濃いかどうかを確認してから、日が沈んで再度来ることとしよう。
 と、踵を返し、来た道を戻ろうと後ろを確認すると。
 何かが、いた。
 思わず、目を見開く。
 木々の間を、まるで優雅に水を泳ぐ白鳥のように、その様典雅に黒い球体が泳いでいた。
 黒い――闇の、球体。
 そんなものは、見たことなどない。
 そのような現象は、聞いたことがない。
 まさしく――闇の、化生のものだった。
「ちっ……!」
 重い荷物をその場に置いて、構える。正中線を隠した横半身の構え。前に出した左手は牽制に、後ろに備えた右手こそが必殺の一撃を放てる、俺にとって最強の構えである。これで、数多の他流試合に勝利してきたのだ。
 妖怪にも有効かどうかは分からない。だがそれでも、自身の考える最強の構えをとることで、自信とするのだ。
「……へぇ」
 闇の球体は、その中心より鈴のように高い声音で呟いた。
 一寸先すらも見えないような球体でありながらにして、まるで俺の姿を確認しているかのような、空恐ろしい声音。背筋が冷えるのが分かった。
「逃げないのか。大抵の人間は、私の姿を見れば逃げ出すのだがな。つまり貴様は、あれか? 死にたい、ということだな」
 闇の球体が、まるで弾けるように周囲へと霧散する。
 霧散した闇が空気に溶け、少しずつその名残を消し去り、そして、その中心にいたのは。
 少女、だった。
「……あんた、女か」
 構えを崩すこともなく、少女を睨みつける。いかに少女の姿をしているとはいえ、それが妖怪であることには変わらない。戦いにくいことこの上ないが、しかし戦う以外の選択肢も選ぶことはできないだろう。
 漆黒の外套を羽織り、同じく漆黒の洋服に身を包んだ、少女である。金色に煌めく髪色と、透き通るような白い肌は、まさに異人のそれだった。艶のある唇から覗く鋭い犬歯と、血走ったような紅の双眸がなければ、ただの美しい少女に過ぎない――そうとさえ思える。一体何をイメージしているのか分からないが、何故か少女は両手を広げ、遠目で漢数字の十に見えるような格好をしていた。聖者は十字架に磔にされました、とでもうそぶいてみせるつもりか。
「貴様に一つ質問だ」
 少女は、口許の犬歯を隠すこともなくにたりと笑み、そう言ってくる。恐ろしいほどの美しい微笑。天使と悪魔の両方から讃えられるような、そんな微笑みだった。
 答えず、全身を緊張させる。少女に動きがあれば、即座に対処できるように。何があろうとも、迅速に動けるように。
 少しだけ少女は首を傾げ、目を細めた。
「貴様は食べても良い人類か?」
 心が、冷える。
 美しい少女の姿をしながらにして、しかし少女は俺を食うと言った。
 人食いの化生。
 そんな存在を、一人の武人として見逃すわけにはいかない。
 例えこの命果てようとも、この化生を倒さねばならない。
「……俺が、是と答えればどうする」
「喰ろうてやろう。その望みそのままに、骨一つ残さず全身を喰ろうてくれる」
「……俺が、否と答えればどうする」
「喰ろうてやろう。その願いあたわず、骨一つ残さず全身を喰ろうてくれる」
 是非を問わず、ただ人を食うだけの化け物め。
 構える俺と、少女の間に緊張が走る。俺は一欠片の余裕もなく、向こうは余裕の微笑すら浮かべて。
 どれほどの刹那を、そうしていたのか。
 打ち込む隙は、見当たらない。先手必勝という言葉は存在するが、それはえてして敗北に繋がることも多いのだ。敵を知り、己を知れば百戦危うからず。先手を取る前に、相手を観察せねばならない。無策で挑み、返り討ちに遭っては俺が食われてしまう。
 例えこの身果てようとも、このような危険な妖怪は滅ぼさねばならない。
 この妖怪が、いつか家主の娘(推定十六、七歳。かなり可愛い)に襲いかかる可能性もあるのだ。
 少女が、広げた両手に力を込めるかのように、指を動かす。
 それと共に、少女の周囲に数多の闇の球体が生まれた。
「なっ……!」
「どうした、この程度で何を驚く? まずは小手調べだ。受けてみよ」
 少女が右手を動かすと共に、闇の弾が一斉に、俺を向けて襲いかかる。
 闇の弾が、どれほどの殺傷能力を持っているのかは分からない。だが、武人としての勘が、危険を訴えていた。あの球に当たれば、命がない――そんな警鐘が、脳内で騒ぐ。
「くっ!」
 向かって来る球を、一つずつ避ける。弾の数こそ多いが、密度はそれほどでもない。隙間はそれなりにあり、森という足場ではあるも、ギリギリで避けることはできる。
 だが、それも体力が保つまでだ。
 なんとか弾に当たらず、距離を縮めねばならない。この拳が届くまで。
 しかし、近付くということはそれだけ、弾の密度も上がるということだ。避ける隙間もないほどに埋め尽くされた弾の前では、俺という存在など、すぐにでも蜂の巣にされることだろう。
「ククク、面白い人類だ。さぁ、次だ。次はもっと大きな弾をくれてやろう」
 少女が力を込め、先程の弾よりも更に巨大な弾を、ほぼ同数出してくる。小さな弾でさえ隙間を縫うのに苦労したというのに、あれだけ巨大な弾を相手にすれば、避ける隙間があるのかどうかすら危うい。
 少女が高らかに右手を振り上げ、哄笑と共に――。
 俺は、死を覚悟して少女に一撃を当てるべし、と一歩踏み込み――。
「霊っ!」
 厳かな、しかし高い声音が響いた。
「夢想にて散りて夢と化し、夢想にて集まりて封と化せ、魔の封は陣にて結す!」
 まるで呪文のような言葉と共に、少女が目を見開く。
 俺は突然の闖入者に、唖然とすることしかできなかった。
 それは、同じく少女だった。
 こちらは巫女服に身を包んだ、和風の少女。年の頃は二十歳そこそこといったところか。紫がかった長い黒髪と、両方の耳を隠すような二つの房についた髪飾り、それに後ろの真っ赤なリボンが印象的な少女である。
 巫女少女は右手に、神社で神主が持つアレ(正式名称が分からない)を振り上げ、左手で印を結んでいた。
 その言葉の一つ一つに、まるで強い力があるかのように、妖怪少女が呻く。
「ぐっ……ぐぐっ……はっ……博麗の巫女があああああっ!!」
「その力、滅せ! 夢想封印っ!」
 巫女少女がそう告げて、右手に持つアレを勢いよく振りおろすと共に、妖怪少女へと赤い布のようなものが走った。それは妖怪少女の髪の一房へと巻きつき、そして結ばれる。共に妖怪少女の絶叫も止まり、まるで力が抜けたかのように地面へと横たわった。
 巫女少女が腰を落とし、大きく嘆息する。
「ふぅ……さすがに、力を封じるだけで精一杯だわ……」
 状況の分からない俺、ここにあり。
 巫女少女はそこでようやく、俺の存在に気付いたかのように。
「あー、あなた。おかげで助かったわ。あなたが気を引いてくれたおかげで、ルーミアを封印できたみたいなもんだし」
「……俺は何もやった覚えがないんだがな」
「いいのいいの、こっちが勝手に感謝してるだけだから。礼金なんかは出さないけどね」
 よいしょ、とやや年寄りじみた言葉と共に、巫女少女が立ち上がる。そして軽くスカートの汚れを叩いて落とし、俺に右手を出してきた。
 気付かなかったが、俺も腰が抜けてしまっていたらしい。
 巫女少女の右手を握って、立ち上がる。少女に起こされるのも、男としてどうかとは思うが。
「あなたは外来人かしら? 私は博麗靈夢。今代の博麗の巫女よ」
「がいらいじん?」
「あー……やっぱりそっか。その辺から説明しなきゃいけないわね」
 ふー、と、靈夢(と呼んでいいのだろうか)は溜息をついて、しかし苦笑を浮かべながら肩をすくめた。
「私について来てもらえる? そうね……謝礼の代わりに、食事くらいは出すわよ」
「お、それは有難い」
「じゃあ……ええと、あら、まだ貴方の名前を聞いていなかったわね」
「ああ、そういえばそうだったな」
 向こうにばかり名乗らせて、俺は名乗ってなかったか。
 まぁ、武人にとって名乗りは決闘の開始でもあるし。
 とはいえ、別に名前を隠すつもりもないし、堂々と名乗ってやるとしよう。
「土樹灯也だ」




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