気が付いてみると、泥だらけになっていた。
 まぶたを開き、体を動かしてみると節々に激痛が走る。
 痛みに耐えて辺りを見回すと、結構悲惨な光景が広がっていた。
 僕を中心として地面がえぐれ、木が何本か折れて倒れている。

「……はて」

 そこで僕は違和感を覚えた。
 なんでこんな事態になっているのか、とんと思い出せない。
 僕が、ここをこれほどまで壮絶なものにしてしまった原因だろうということは推測できるが。

 いや、本当のところはそれどころではなくて……。

「おーいっ! 大丈夫かあ? まあ、大丈夫だろうけど。
 ったく、だから私は止めたんだ」

 声がしたのでそちらの方向を見てみると、空から箒にまたがった女の子が降りてきた。
 黒い服に三角帽子という、典型的というか古典的な魔女ルックをした彼女は、僕のすぐ傍らに降り立った。

「ん? どうした、そんなに呆けた顔して」
「いや……その……君は一体、誰でしょうか?」

 思い出せない。
 ここがどこなのか、目の前の女の子が誰なのか、そして自分が誰なのか。
 何故か言葉なんかは忘れていないものの、頭の中が空っぽになってしまったかのように、何もかもが思い出せなかった。

「お、おいおい、冗談だろ? 頭、大丈夫か」
「いや、冗談じゃなくて……しかも頭もかなり大丈夫じゃないっぽい」

 何も思い出せないどころか、頭の奥底がずきずきと痛む。
 状況的に考えて、地面に頭からつっこんでしまったから、というのがそれらしい理由だと思う。
 だけど、土が巻上がり、樹が倒れる勢いで地面につっこんだら、普通は死ぬとも思う。
 ひょっとしたら違う理由があって、こんな惨状になっているのか、はたまた僕が異様な強度を持っているのか、どっちだかよくわからない。

「なんにも思い出せないんだ。ここがどこなのか、自分が誰なのか。
 なんていうか、こう、思い出せないんだけど、記憶が吹っ飛んでいて……」
「……」

 目の前の少女は、地面にへたりこんでいる僕を怪訝な顔で見つめていた。

「記憶喪失ってやつか?」
「そう! それそれ、記憶喪失ってのになってるみたいなんだ」

 記憶喪失、というと不思議な感じだ。
 言葉なんかは普通に覚えているのに、人の名前とかそういったものがさっぱり思い出せない。
 記憶が全て無くなってしまうのなら、言葉なんかも忘れていそうなもんだけれども、そういうわけでもないというのがまたなんとも。

 目の前の女の子は、しばらく僕の顔をまじまじと見ていたけど、急に手に持っていた箒を脇に置いて構えを取った。

「……って、うぉぉぃッ!」

 女の子の掌から、何か尖ったものが飛び出してきた。
 なんだか嫌な予感がするな、と思って、咄嗟に避けることができたが、気を抜いていたら直撃していたぞ、今の。

 尖ったものは、僕が座っていた地面に突き刺さり、直後に消えてしまった。
 何を飛ばしてきたのかよくわからなかったが……問題は何を飛ばしたのかではなく、何故飛ばしたのか、だ。

「な、何すんだ! 危ないじゃないか!」
「ふうん、なるほど、私を騙そうとしているんじゃないな。
 もし騙そうとしているのなら、私が構えを取った時点で逃げているからな」

 僕の抗議なんて全く聞いていないように、女の子は箒を拾って、柄でこつこつと頭をつついてきた。
 物騒なことを言ってくれる上に、人の話をまるで聞かずにこの仕打ち。
 なんというか、酷い子だな、この子は。
 それにうまく抵抗できない僕も僕だけども。

「全くしょうがないな。いくら不老不死といっても、中身がこれじゃあ世話ないぜ。
 ……いや、中身がこれだからこそ不老不死でちょうどバランスが取れるのか?」

 不老不死ってのが何のことかわからないが、彼女は僕が忘れてしまった僕に、駄目人間の烙印を押してくれたようだった。
 酷いな、と思いつつも、僕がそれを否定できる材料は何も無いわけだから、ぐうの音も出せない。

「それで、僕が一体何者なのか教えてくれないか?
 自分で自分のことがわからないっていうのは、案外気持ち悪いもんで」

 今、僕が意識している『僕』というのは一般人であると認識している。
 ただ、僕が知らない『僕』が何をやっていたものか、とんと予測がつかない。
 もしかしたら、人を何人も殺しているような極悪人かもしれない、と思うと、心臓が嫌な速度で脈打つようになってしまう。
 まあ、そんな気弱な僕が、人倫にもとるような行為を平然とするような人間だとは思えないが、どうあっても不思議ではない。

「あん? そうだな、お前は……」

 女の子は何かを言いかけて、口を止めた。
 もしや、と思って彼女の顔を見ると、彼女は僕が視線を向けたことに気づきもせずに、ぷい、と背後に振り返った。

「……これは……利用できるかもしれないな……」

 激しく嫌な予感がする独り言をつぶやいてくれた。
 もう、どうあろうと素直に僕に僕のことを教えてくれなさそうな、そんな致命的な呟きだ。

 なんだか、もそもそと召使いだの奴隷だの、そんな不穏当な単語まで聞こえてくる。
 もっとよく聞き取ってやろうと、彼女のすぐそばに近寄ったとき、いきなり彼女が振り返ってきた。

「う、うわっ! お、驚くじゃないか。そんな近くに寄るなよ」

 うっすらと顔を紅くしながら、彼女は言った。
 確かに振り向いたらすぐそこに顔があった、なんて状況では驚くだろう。
 が、あんなあからさまな独り言を目の前でやられて、聞き入るな、と言われる方が無理だ。

 彼女は、なんだかじろじろと僕を見ている。
 さっきの独り言を聞かれたのか、と警戒しているようにも見える。

「お、おほん。お前はだな、私の……」
「私の?」

 わざとらしい咳払いで言葉を始めた。
 「私の」と来て、一旦言葉を切り、僕の顔があらためてじろじろ見てくる。
 何か変な物でもついているのかな、と思って顔に手を当ててみたら、さらさらと細かい土が落ちた。
 服だけじゃなくて顔も泥だらけのようだ。
 通りで何か気持ち悪いと思った。

「使い魔だ!」
「使い魔!? それじゃ、キスして左手がうおおお熱いッ! っていう展開になるのか?」
「はあ? な、何キスとか言ってるんだよ、お前。まだ頭は残念なままなのか」

 ……いや、本当、ごもっともです。
 僕も自分自身で何を言い出したのかよくわからん。
 ほとんど条件反射的に口から出た言葉だから、自分でもなんで言ったのかわからない。

 とはいえ、今言った言葉は、僕の知らない僕が記憶を失っても反射的に言葉に出すような、そんな大事なものなのかもしれない。

 ……いや、それはないな。
 というか、なんかそうであってほしくない。

「使い魔が駄目なら下僕でいいか。よし、お前は私の下僕だったんだ!」
「せめて嘘を嘘とわからないように嘘をつけよっ!
 何が、使い魔が駄目なら下僕でいいか、とか今決めてるんだよ!」
「ピーピーピーピーうるさいやつだな。別にいいだろ、そんなこと」

 ひらひらと手を払うように動かして、僕の言うことを却下した。
 なんというか、この子、あまりにも泰然自若としすぎだろ。
 見かけは女の子なんだけど、本当は男か、と思うくらい真っ直ぐで男らしいんだが。

「どっちにしたって、お前は私に頼る以外選べる道はないと思うんだが、どうだ?」
「いや、素直に僕のことを教えてくれればいいと思うよ」
「なんだ、そんなのはつまらないじゃないか」

 さぞ、何当たり前のことを言わせているんだ、と言わんばかりの態度で彼女は言ってのけた。
 僕は僕なりに色々と悩んだりしていることを、つまらないの一言で吹き飛ばしてくれた。
 呆れるというか、ここまであっけらかんとされると逆に感心してしまいそうだ。

 彼女はとことん真っ直ぐな性格をしているんだろう、と思う。
 意地が悪いと言ってもいいが、そこに子供みたいな純粋さが多分に含まれており、それほど嫌な感情は浮かんでこない。
 嫌な感情が浮かんでこないってのは、字面だけ見ると良いところしかないように見えるけど、善し悪しだ。
 わがままな妹を相手にしているかのごとく、やれやれしょうがないな、という気持ちになり、流されてしまいそうになる。

「記憶喪失だぜ、き・お・く・そ・う・し・つ。
 そんなレアな状況なんだから、すぐに記憶を取り戻そうとするなんてもったいないだろうが。
 ゴミ手でテンパイ即リーなんかせずに、黙ってて手を伸ばそうぜ」

 他人事だと思って好き勝手言ってくれる。
 そりゃ、端から見ている分には記憶喪失ってのは楽しいかもしれないが、本人は結構悩んでいるんだぞ。
 自分自身がよくわからないっていうのは、足が地面にちゃんと着いていないような、そんな不安が……。

 不安が……。

 ……いや、別にそれほど不安というわけでもないな。
 確かに自分自身がよくわからないっていうのはそれなりに不安ではあるが、落ち着いてくると別にあんまり気にしなくてもいいような気がしてきた。
 や、特に理由はないけど、なんとなく。

 なるようになるだろう、というか、なるようになっているだろう、とかそんな感じ。

「黙っているんなら了解したってことだな。さ、帰るぜ」
「あ、おい、ちょっ……」

 女の子は箒にまたがると、慌てる僕の手を掴んだ。
 さっきここまで来たのと同じように、空に飛び上がる。

 落ちる、と思ったが、僕の体も彼女と同じようにふわふわ浮かんでいた。
 なんとか地面に激突することはないようだったけど……。

 どうなってんだ、こりゃ?







 そんなこんなで数日が経過した。
 あの女の子の家で半ば強制的にパシリみたいなことをさせられながら、少しずつ色々なことを教えてもらった。
 ここは幻想郷と呼ばれる世界だとか、その中の魔法の森と呼ばれる場所だとか、彼女は魔法使いだとか、そんなことを。

 彼女は僕のことを役に立つお手伝いさんのように見ていて、それを隠しもしなかった。
 まあ、僕もちょっと腹が立ちもしたが、それほど酷い目に遭わされることもなかったので、渋々と言われたことをした。

 で、だ。
 僕が作った昼ご飯のスープを二人で飲んでいると、突然彼女が切り出した。

「飽きた」

 何に飽きたのかは言わずもがな。
 子供のように好奇心は強いものの、飽きっぽさも子供並らしい。

「確かに便利だと思う……思うが、なんかこう、違う。
 私の求めていたのは、面倒なことをやってくれる下僕じゃなくて……なんというか」

 下僕扱いしておいて酷い言い草だと思うが、この子にそんなことを言ってもまるで気にしないので黙っていた。

「そう。からかったら、過剰に反応して、うろたえるおもちゃが欲しかったんだ!
 うんうん、これは盲点だった。つまり、いつも通りの方が良かった、ってわけか」
「はあ……」

 なんというかもう、なるようになれ、としか言いようがない。
 数日、一緒にいた経験から、この子は僕が都合の悪いことを言っても全て無視する。
 それに加えて、僕はこの子が無視できないほど強く出ることができない性格のようだった。

「よし、じゃあ、これを食べたらお前の記憶を戻そう」
「って、おいっ! 記憶が戻るのか? そんなの初耳だぞ」

 いつまで経っても記憶が元に戻らないから、てっきりこのままでずっといなきゃいけないと思っていたのに。
 そんなあっさり解決できる、と言うなんて、流石にそりゃないだろう。

「ああ、初めて言ったからな!」

 えへん、と胸を張って言われたが、別に褒めていない。

「永琳のところに行けば、記憶の一つや二つ簡単に蘇る薬ぐらいあるはずだろう」

 また偉く簡単そうな方法だ。
 別にそれほど深刻に考えていたわけじゃないけど、それでもそれなりに考えていたのに、そうあっさりされると言葉を失ってしまう。

「……ま、ついでに記憶を消す薬も用意してもらわなきゃな」
「記憶を消す薬なんてどうするんだよ」

 自分で薬を飲んで、記憶喪失を経験してみる、っていう腹づもりだろうか。
 僕としてはそれはなんだか楽しそうなことだけど、それは無いな、とすぐ考え直した。

「お前に飲ませるんだよ」
「はあ?」

 何を言い出すのか、と思ったが、すぐに合点がいった。
 なるほど、あのことか。
 確かにあのときの取り乱しようは凄かった。
 けど、その後、別に気にしてないぜ、とばかりに振る舞っていたから、それほどでもないと思ってたが……。
 やはりこの子は女の子、少しは気にするもんだったのか

 ちょっと気がよくなって、肩をぽんぽんと叩いてやる。

「まあまあ、誰しも初めてはあんなだって。おぼふ」

 顔に拳がめり込んだ。
 僕より頭一つ小さいし、もちろん体格も二回りくらい小さいのに中々腰の入ったパンチだ。
 鼻の奥がツンと来て、鼻血が出たかな、と思ったが、すぐに痛みが引いた。
 わずかに鼻血が出たものの、本当にごく少量のみ。

 傷がすぐに治ってしまう蓬莱人の体質らしいんだけど、中々慣れないな。

「う、うるさいぜ。第一、お前がそんなことを言える義理か?」
「と、言われても、僕には記憶がないから、何とも言えないなあ〜」

 今まで散々記憶がないことでからかわれていた。
 が、今は記憶がないことを盾にニヤニヤと笑うことが出来る。

「何、人はみんな失敗に失敗を重ねて、大人になっていくもんだよ」
「し、知ったようなことを言って……覚えていろよ」

 二日前の夜の出来事を思い出して、にやにやとする。
 今、目の前にいる女の子が、あのときはランプの明かりに照らされて、真っ赤に顔を染めていた。
 あのときのこの子はやっぱり女の子なんだなあ、と思わせるものがあった。
 普段は、どちらかというとかっこいい、と称される彼女も、確かにあのときは「かわいい」という形容詞を付けても文句無かった。

「この恨みは閻魔帳に書いておくからな……」

 彼女はそういうと食事中だというのに、食卓にいつも持ち歩いている手帳を開いて、書き込みを始めた。
 キノコだの薬草だのの種類や分量なんかが詳しく書かれているページがちらりと見えた。

 彼女はやることなすこと全てがはちゃめちゃだが、一人でいるときはそういう風に振る舞っているわけではない。
 魔法の森に、へたくそな絵を頼りにキノコを採りに行かされて帰ってみると、異様なほど没頭して魔法の実験をしている彼女が見た。
 僕が帰ってきていることにも気づかずに、そこいらに置いてある紙に雑多に結果や変化を書き殴り、無口で、堅実に行っていた。

 僕がそっと物音を立てずに紅茶を淹れて差し出すと、ひどく驚いた様子で、なんだか無理に振る舞っているようにいつもの彼女に戻った。

 僕と一緒にいるときの普段の彼女と、一人でいる無口な彼女は、どちらが本物、というわけではないんだと思う。
 恐らく、両方が本物の彼女なんだろう。

 無茶、無謀に見える彼女の振るまいは、実際には計算や堅実な努力でもって裏付けられているものだということがわかった。
 そのことを知ったとしても、決して彼女の魅力を失わせるものではないし、むしろ僕は好感を抱いていた。
 あんまり、僕は好きなこと以外努力とかしたくないタイプだし。

「……ん?」

 ふと、走り書きの中に妙な単語が入っていたのを見つけた。
 人の名前っぽいんだが、変に頭の中にひっかかる。

 もしや、と思って声をかけてみた。

「その名前って、もしかして僕のか?」
「へ?」

 彼女は顔を上げて、僕の顔を見てきた。
 表情にどことなく呆れた感じが含まれているのは、僕のきのせいじゃないだろう。

「なんだなんだ、お前、自分の名前すら忘れてたのか?」
「うん、というか、まあ、二人っきりでここにいるときには、お前とかそういうので事足りたし。
 不便なこともなかったから、聞くのを忘れてた」

 彼女が、アホを見ている目で見てきた。
 確かに、自分の名前がわからないまま、数日過ごしていたというのはアホの極みだろう。

 だけど、二人だけで生活していたら、意思疎通は本当に二人称だけあればよかった。

「じゃあ、もしかしたら……私の名前も忘れているのか」
「うん、もちろん」

 というか、それは僕が一番最初に尋ねたことだったような気がする。
 その点においては、僕に過失は一切ないはずだ。

 ないはず……だが、彼女のアホを見る目の度合いはぐんぐん上がっていく。

「例え自分の名前を忘れていても、私の名前は覚えていろよ。しょうがないやつだな」

 普通は逆じゃないのか、と思った。
 思ったが、口には出さない。
 どうせ、彼女は普通にスルーしてくるだろうから。

 彼女は大きくため息をつき、いつも被っている三角帽子の位置を正した。

「よーし、特別にお前に私の名前を教えてやるぜ。
 また記憶喪失になっても、絶対に忘れるなよ。私の名前は霧雨魔理沙だ」

 彼女は……魔理沙は、自分の名前を言うとニカッと笑った。
 魔理沙の金髪と相まって、まるで太陽のような笑顔だ。
 チープな表現だけど、本当にそう思えるような明るい笑顔だった。

「そして、お前の名前は――」







 気が付いてみると、泥だらけになっていた。
 まぶたを開き、体を動かしてみると節々に激痛が走る。
 痛みに耐えて辺りを見回すと、結構悲惨な光景が広がっていた。
 僕を中心として地面がえぐれ、辺りに色んな物が散らばっている。

「……はて」

 寝起きのぼうっとした頭で、なんでこんなことをなっているのか思い出そうとしてみた。
 はっきりしない記憶が断片的に蘇り、段々と話の筋ができあがってくる。

 ああ、思い出した。
 確か、気のいい死神と酒を呑もうと思って、山の裏側にある三途の川に来たんだった。
 酒を呑んでいるうちに気分が良くなって、二人で歌なんか歌っちゃって、大いに楽しく過ごしていたわけだったが、おっかない閻魔様がそこにやってくる気配を感じ取ってしまった。
 大急ぎで酒宴をやめて、酒瓶とかツマミなんかを持って、空を飛んで逃げようとした。
 けど、あまりに急激に運動したせいで、酔いが一気に回って、空を飛んだのはいいものの、数十メートルも飛ばずに墜落して……。

「それで、この惨状か」

 手桶がぶっ壊れてたり、酒瓶が割れていたり、僕のものと思しき吐瀉物が散らばっていたりと、すごいもんだった。
 墜落したときに出血したらしい僕の血も飛び散っているので、まんま酔っぱらいが転倒して頭を打って死んでしまった状況だった。

「生き返ったショックで目覚めた、ってことか。三途の川のほとりでの目覚めとしては色々とアウトな起き方だな」

 しかし、何かが変だった。
 さっきまで……つまり、死んでいた最中に、何か夢を見ていたような気がするのだ。
 死ぬことを今まで沢山経験してきた僕だが、死んでいる最中に夢と思しきものを見た記憶はとんと無い。
 人間のとき、死にかけて生き霊になったことはあったけど、蓬莱人になって死んだのとはワケが違う。

 どんな夢を見ていたのかは、全く思い出せない。
 懐かしいような夢だったような、そうでないような……まだはっきりしない頭では、断片的に思い出せる夢の記憶ははっきりと形作ることができなかった。

「……」

 ぼうっとその場で座りこみ、夢の記憶をなんとか寄り合わせようと頑張ってみた。
 しばらくすると更に頭がクリアになってきて、理路整然……とまでは言わないが、日常通り筋の通った考え方が出来るくらいになった。

 が、夢の内容はわからなかった。
 薄い霧がかかっていたような夢の記憶は、頭がはっきりすると同時に雲散霧消してしまったのだ。
 いくら、頭がはっきりしたとしても、手がかりが全て煙のように消えてしまったなら、どうあろうと夢の内容を確かめることはできない。

 まるでドライアイスのようだな、と思った。
 まだ残っているときには煙を出していて、その輪郭を知ることはできない。
 煙が無くなったと思うと、今度はドライアイスそのものが無くなっている。
 ドライアイスがどんな形であったのかは、自分で想像するしかないってわけだ。

 その場で立ち上がって、首を左右に振ってクキクキと鳴らした。
 夢のことはもう諦めて、次に何をするのかを考えよう。

 ここ、三途の川のほとりは昼も夜もなく、ただ薄暗くて、常に霧に包まれている。
 加えて言うと、三途の川は全く水音を立てない。
 そんなことで、頼れるのは自分がどっちに進んでいたのかということだけだ。
 ちなみに、墜落して死んでいたせいで、どっちからどっちに向かって進んでいたのかわからなくなっている。

 正直なところ、どっちに行けばどっちに着くのか全く解らない。

 ここから進んで、たどり着く場所は二つだ。
 彼岸へと続く三途の川か、この世に繋がる中有の道だ。

 三途の川には船渡しの死神がいるので、そこで昨夜の続きをしてもいい。
 場合によっちゃ、閻魔様も巻き込んで無礼講ってのも悪くはない。

 中有の道は人通りが多く、出店なんかも出ているから、そこで遊んでいってもいい。
 もちろん、この世に戻って、神社に帰って寝るのもまたいい。

「さあて、どっちに行くかな」

 と言ってみたものの、どっちに行けるかがそもそも分かりはしない。
 どちらに行きたいと決めても、そちらの方向に行けるかなんてのはわからないのだ。

「ま、どっちでもいいかな。どっちにたどりついても、それはそれで……」

 辺りに散らばった酒瓶や手桶を抱えて、僕は地面を蹴って、三途の川のほとりの空に飛び上がった。




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