博麗霊夢の逝去――幻想郷が大きく揺れ、そして再び混沌とする世界に戻る瀬戸際まで至った事件である。
その事件を解決したのは、博麗霊夢が最も深く愛したといわれる蓬莱人で。
その青年は、博麗霊夢の夫という立場にありながら人里では幻想郷の有名な者の中で最も人気があり、それは結婚する前にやっていた外来の菓子や飲み物などを売る仕事を、結婚してからも続けていたという。
少し前までは心神喪失してしまってて、再起なんて考えられないぐらいらしいけれども。
今はもう、お菓子売りが出来る程度には回復しているらしい。

前置きが長くなってしまったが、以降は青年が新たな住居で、しかし心を蝕まれる恐怖と戦い続ける姿、そしてそれを助けんとする女の子の話だ。
少しばかり重い話なので、それだけは覚悟して聞いて欲しい。
それじゃあ、昔話を始めようか。

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頭が割れそうな、砕けそうな、そんな痛みに、良也は悩まされている。
霊夢が死んでから、ずっとずっとだ。
霊夢が死んでから、博麗神社を出て、知り合いの住居を転々としている生活の中でも、終わりも止まりもしない頭痛――否、ノイズ。

レイムハ ホントウニ ボクガ スキダッタノ ダロウ カ ?

レイムハ ホントウニ ボクガ ヒツヨウ ダッタノ ダロウ カ ?

ボクハ ナンデ コンナニ サミシイノ ダロウ カ ?

霊夢との結婚生活は、実にドライなものだった。
それまでと同じ、酷く淡々としたもので。
子を成し、二人で異変を解決に奔走し。
だけれど、霊夢に嫉妬もされなかったし、何かに文句を言うとすれば家事炊事に関してばかりだったし。

レイムガ ヒツヨウ ダッタ ノハ コヲ ナスタメノ アイテ ?

ボク ジャナクテモ ヨカッタ ノ ダロウ カ ?

ノイズが、良也の頭を侵食する。
大切な思い出が、思い出せない。
はっきりと覚えていたことが、セピア色になり、やがてひび割れて、失われていく――その感覚に、良也は身悶えていた。

ボクニハ モウ ダレモ イナイ

ナカノ ヨイ トモモ

イトオシク オモウ アイテモ

アイシテ クレル アイテモ

ウシナッテ シマッタンダ

ノイズが、脳をシェイクする。
自問自答を、無限に繰り返すのだろうか。
心が砕けそうになる、霊夢への想いが灰燼となりそうになる。

だけれども、と良也は歯を食いしばって。

自分は、忘れないのだと。
例えセピア色に色あせ、砕けたとしても、思い出は心に刻み込まれている――財産というほど安っぽくもないが、あんなに彼女を強く想っていたのだ。
ノイズなどに負けはしないと。
過去の自分なら、最初の最初に屈服していた痛みに、しかし良也は負けない。

スベテ ワスレレバ イイ

スベテ ウシナエバ イイ

ソウ スレバ イタミハ キエル

イタミ ガ ナクナレバ イイ

モウ ツラク ナイ カラ

――辛く、ない?
激しさを増すノイズの中で、良也は歯を食いしばる。
――辛さを失うなんて。
それは、人としての心を喪失するに等しい。
――ましてや、愛おしい人が逝ったのだ。
それが辛くないと思えるのならば、既に人でない何かでしかない。
良也は知っている。

――霊夢といた朝、確かに自分は彼女を想っていた。
――霊夢といた昼、確かに自分は彼女に想われていた。
――霊夢といた夜、確かに自分は彼女を愛していた。
――霊夢と愛し合うとき、確かに二人は満たされていた。
――霊夢といた全ての記憶、その全ては、どんなに色あせようとも、胸の奥に残り続けるのだと。
失いたくない。瞳の奥に霊夢の姿がはっきりと思い出せる限り。
それはもう、人が呼吸したりするのと同じようなことだったから。
霊夢のあきれた顔も、怒った顔も、困ったときの顔も、泣き顔も――笑顔も。

ノイズは、止まない。
心が、壊れていく音がする。
まるで老朽化した壁が腐って、朽ちていくように。
自分の心も、このまま朽ち果てるのだろうか――。


――忘れたくない、忘れたくないのに!!――
自身を蝕むノイズは、やがて彼の心の全てを奪い、ゼロに戻すだろう。
つらい事も、悲しいことも、楽しいことも――全ての出会いをも、奪いつくすだろう。

――助けて、誰か助けて!――

忘れないと、そう誓ったのに――なんと無情なのだろうか。
助けて、助けてと幼子のように呻きながら、良也は震える。
一人じゃあ、立ち上がれない、ノイズから逃げられない――助けて!

雨ざらしの子犬のような、家を忘れた子猫のような姿からは、かつての快活だった青年の姿は欠片もみえない。
世界が漆黒の色に塗り替えられる――全てが闇に閉ざされる。

――助けて、誰か助けて・・・・――

良也の声が、小さく聞こえる。
その刹那――ふわりと、甘く、懐かしい香りが良也の体を包む。

「もう、大丈夫ですよ、良也さん・・・」

抱きしめられる――ぎゅうっと、ぎゅうっと、抱きしめられる――それだけで、良也の脳裏に響くノイズが、鳴りを潜める。

「もう、大丈夫ですよ、だから、泣かないで――良也さん・・・」

漆黒に塗り替えられた良也の世界に、一縷の光が差す。
差し伸べられた小さくて綺麗なその手を、良也は――知っている。

「よう・・・む・・・?」
「えぇ、そうです。私がそばに居ます――ずっとずっとそばに居ますから」
「ようむ・・・妖・・・夢・・・!」

良也の双眸から、枯れ果てたはずの涙が溢れる。
求めていたのは――そうだ、この温もりなのだと、ようやくにして理解した。

―――――――――――――――――――――――――

「霊夢が死んで――僕は、一人ぼっちで・・・!」
「一人ぼっちじゃあないです。私が、そばに居ますから――幽々子様も、きっと居てくれますから・・・」
「霊夢のことを忘れたくなくて、でも忘れてしまいそうで、」
「忘れていいんです――それが辛い思い出なら、思い出したくないほどの悪夢なら、忘れてしまっていいんです・・・」

妖夢は知っている――幻想郷の誰よりも、この青年の弱さを。
普段から明るく、優しい姿を見せていたからこその、脆さを。

「僕は、霊夢のことを忘れたくない、忘れたくないよ・・」
「なら、忘れないでいてあげてください。辛いときは、私がそばに居ます――霊夢には及ばないけれども、貴方を大切にしますから――」
「本当に、そばに居てくれる?」
「半人半霊は、嘘をつきませんから」

妖夢は、無理やりに、顔を微笑色にする。
今、彼女が不安な顔をすれば、良也も不安がってしまうだろうから。







白玉楼の、かつて良也が生活していた部屋に、良也が住まわせて欲しいと申し出てきたのが――博麗の巫女の逝った、数日後だった。
妖夢も幽々子も、事情は知っていたし、何より彼は友誼のある相手なのだ、断る理由など何もない、何処にもなかった。

だけれど、彼はその部屋から出て来ずに、ただ寂しさと、忘れそうになる恐怖に煽られ、子犬のように震えていた。
その段になって、初めて妖夢は気付き、そして後悔したのだ。
彼の弱さを、博麗霊夢の次に知っているのは、自分だったのに。
何故彼が苦しんでいると、悲しんでいると、追い詰められていると、気付いてあげられなかったのだろうかと。

でも、まだ後悔するには早すぎる。
彼は自分にとって、いや、幻想郷にとってとてつもなく大事な存在であること。
何より、助けてあげたいと、そばに居てあげたいと、妖夢がそう思ったから。

壊れないよう、砕けないよう、そうっと抱きしめる。
小さな声で、絶望を囁く青年に、希望を呟いてあげる。

このか弱くて、情けない姿の、心優しい蓬莱人を、守ってあげたいと、妖夢は思ったから。

―――――――――――――――――――――――――

それから、毎日、いや何時だって女の子は青年の隣に居たって聞くよ。
聞くだけなら、この上なく綺麗な物語。

だけれど、真実は違うと思うんだ。
だってそうだろう?
大切な人を失って心神喪失にまで至った人が、友誼があるとは言え、他の誰かを大切に思おうとなんてするかい?
俺なら、そんなこと、しようとも思わないよ。
――だって、いつかそれさえ失うかも知れないんだ、怖くもなるだろう?


でも、青年は違った。
信じられないけど、今も冥界の白玉楼で暮らしている――しかも、心神喪失から快復してだ。
そのことも信じられないけど、何より女の子が彼が持ち直すまで、ずっと一緒に居たことが信じられないよ。
見放されたりするのが、当たり前だと思っていたのにね。

まぁ、今じゃあお菓子売りの仕事も再開してるみたいだし――もっとも、隣にはいつだって帯刀した女の子がいるけれどね。

ほら、うわさをしたら何とやら、というやつだ。
あそこをみてごらん、子供たちがみんな走っていくのがみえるだろ?
あの先で、青年はお菓子売りをやるんだよ。
霊夢様の昔話とかもしてくれるって、子供には大人気みたいだね。

帯刀した女の子と、青年の関係?
まだいい友達なんだってさ。
信じられるかい?
布団も食事も同じにする男女が、友達同士だって。
俺には、それが何より信じられないよ。
鈍感なのか、故意なのかは知らないけどね。

まぁ、友達同士ならそれでいいじゃないか。
聞けばあの帯刀した少女も、蓬莱人じゃないにしろ、不死っぽいしね。

ほら、聞こえるだろう?
子供たちの笑い声と、青年と女の子の笑い声が、ひとつになってさ――いい響きだろう?
これから、ずっとあの声を聞けるんだ。
幻想郷は確かに怖いところだけど、でも、元気になれる場所でもあるんだって、思えてきただろう?


さぁ、今日もお菓子売りの店の開店だ――――!



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