//.幕間 姫海棠はたては夢を見る。 幸せな、夢。 小さな、狭い庵。そこの縁側に腰掛ける一人の女性。 井上皇后、……かつての皇后、廃位となり、今はただ、井上とだけ呼ばれる女性。 かつての栄華は見る影もない。着ているものは何度も継ぎ接ぎし、色あせた粗末な服。狭く、そして、水漏れさえする古い庵。小さな庭。 かつての栄華は見る影もない。今も、穴の開いた服を針と糸で縫い合わせている。家事全般を行う彼女の細指は荒れてしまっている。……けど、 「ふふっ」 針と糸を繰る彼女の表情には微笑がある。幸せそうな、穏やかな表情。 と、 「おーいー、帰ったぞーー」 声に、井上は顔を上げる。そこには鍬を片手によたよたと歩く人。愛する夫。 「お帰りなさいませ、旦那様」 柔らかく微笑んで立ち上がる。かつての帝、譲位してその位を降りた光仁帝、白壁は鍬を持っていないほうの手を上げる。そこには徳利。 「酒もらった。今夜一緒に飲もうか」 「あら、まあ、どちら様から? 御礼しないと」 「山部王のやつからだ。 前にこっそり野菜送りつけて大騒ぎさせて迷惑かけたからなあ」 「旦那様。桓武帝と呼ばないと怒られますよ?」 「違いないな」 たしなめる井上の表情に白壁は楽しそうに笑う。井上は心外な反応に一度唇をとがらせて、けど、 「ふふ」 夫の笑顔につられるように笑う。笑みを交わし、白壁は酒を預けて鍬を片付けるために奥へ。井上は今日の食事を考えて、けど、 まだ、早い。太陽を見てそう思う。いつも見守ってくれる太陽に小さく感謝を呟く。そして、縁側に腰を下ろす。 「おーう、日向ぼっこか」 白壁の言葉に井上は「まだ時間がありますから」と応じ、白壁はその隣に座る。 そして、 「終わったな」 ぽつり、呟く。 はい、と井上は応じる。そして、抱き寄せられる。 きつく、強く、……もう、離れないように、 かつての栄華も今はなく、ただ、小さな幸せだけを胸にして、 「これで、井上皇后の、怨霊の物語は、終りです」 抱きしめる。ふわり、漂う酒の匂い。かつて嫌悪し、そして、今、この人の匂いと心地よく思う匂い。 そう、これで終わり、だから。二人は抱き合ったまま視線を向ける。 「「――――ありがとう」」 霹靂神は怨霊として語り騙られ続ける。 そして、―――――――― 「おはよ」 はたては目を開く。「文?」 「そ、文」 射命丸文はひらひらと手を振る。「椛と、牛若丸は?」 一瞬、意識が飛ぶ前に見えた。牛若丸の驚いた表情、そして、……手に残る、感触。 それを思い出して青ざめるはたてに文はひらひらと手を振って、「牛若丸は無事、椛は、……まあ、それなりに怪我したけどもう大丈夫、だってさ」 「そっ、かあ」はあ、と一息、肩を落として「よか、ったあ」 安堵、……そして、思う。先に見た夢。そして、 「あの、さ、……私、天狗じゃなかった、のね」 「まあ、あれだけのことやる天狗がいたら見てみたいわね」 霹靂神、……それより、 「私の、母様、だけど……………………「皇統ね」」 言い難そうに言葉を噤むはたて。彼女の言葉を文が続ける。 人の世の権力者、……ではない。 皇統は現人神として絶大な崇敬をうける。その系譜自体が信仰の対象とさえなる。妖怪としても、決して無視できる存在ではない。 現人神の系譜。たとえそれが語られ騙られた存在としても、そこに連なるというのなら、「あのさ、」 不安そうに視線を向けるはたて、その唇に指を当てる。 「最初に言っておく。 天狗じゃないかもしれない、……神様とか、怨霊とか、かもしれない。けど、それよりも、はたては私の、………………………………「な、なによお」」 熱に浮かされたように、勢いで喋っていた文は、不意に口を噤む。その先のことを聞きたくてはたては唇を尖らせる。 「ねえ、文」 「つまらないこと言ったらぶん殴る」 そっぽを向いて、それだけ言った。その顔は少し、赤い。 言おうとしていたことは解る。見当つく。だから聞きたい。……けど、 「それは勘弁して」 あまりしつこく聞いたら文はへそを曲げそう。だから、はたてはそれだけ言って言葉を区切った。 文ははたてに視線を向ける。……どちらから、というわけでもなく笑みを交わした。 そして、はたては改めてあたりを見る。 華美といえるほど上品な一室。そして、寝かされている布団は常盤のいた庵にあったものとは比べ物にならない、上質な布団。 少なくとも、 「鞍馬山、じゃないわよね?」 問いに、文は苦笑。何と言ったらいいのかわからない、と曖昧に笑って「御所」 「うん?」 「御所よ、御所。 この国、人の世で一番偉い人が暮らしている場所」 「…………は?」 と、 「おう、目覚めたか」 話し声が聞こえたのか、源頼政が顔を出す。 「頼政?」 その表情は苦り切っている。……ため息。 「ったく、あいつも無茶する。 妖怪が御所に上がるなんて前代未聞だな。卒倒した奴いるし」 「あー」 その光景を見たらしい、文は複雑な溜息。 「…………あれから、どうなったの?」 問いに、文はえっと、と呟いて、 「まあ、とりあえず椛とはたてかかえて麓目指して急いで飛んだのよ。 麓には、一応、知ってる薬屋もいるし」 「……そういえば、牛若丸以外にも人はいるんだっけ?」 はたての言葉に文は頷く。 「それで、麓にいた頼政と会ったの。 山があの状況だし、常盤と巴の保護ね。で、頼政から紹介状もらったの。 椛も怪我してたし、一応、都でも有名な薬師紹介してもらってね」 「何でも腕のいい薬師が来てるって話だから、俺の名前出せばとりあえず無碍にはされないし、紹介くらいはされるはず、だって思ってな」 けど、と頼政が、 「なんでこんなところにいるんだよ?」 「私もよくわからないわよ。 そりゃあ、警備の武士には警戒されたし、頼政の紹介状見せるまで刀向けられそうになったけど、 けど、後ろから来た人が入れてやれとかなんとか、その人みて武士はいきなり土下座始めるし、後ろついて行ったら行ったで偉そうな人は平伏するし、卒倒する人いるし、なにがなにやら」 文も混乱しているらしい。珍しい、と思う。そして、暗澹とした溜息。 「あいつが目ぇつけたのかな。…………参ったな。ほんと、どーするか」 と、 「人をなんだと思っているのかな、頼政」 声、頼政は肩を跳ね上げる。 「…………出たな」 「人をなんだと思っているのかな、頼政」 嫌そうに振り返る頼政、そして、苦笑交じりに繰り返される声。 「それに、私の方が上だよ。遥かにね。 それなりに口のきき方に気を付けたほうがいい、…………と、言ってみよう」 「……民と酒飲んで遊んでたお前さんに、口のきき方で文句言われるとは思わなかった」 苦笑、そして、 「はたて、目覚めたみたいだね。よかった。 文も、いろいろと大変だったと聞いてるよ。ゆっくりしていきなさい」 気さくにかけられる声と穏やかな笑み。文は反射的に笑みを返して「いえ、こちらこそお世話になりました」 「文、この人? えっと、……ここに入れてくれたの?」 「あと、薬師を紹介して、いろいろと便宜を図ってくれたのもね」 「そう、……えっと、ありがと」 感謝の言葉に彼は楽しそうに笑みを返す。 そして、ふと、 「私たちのこと、知ってるの?」 告げられた名前に、そういえば、と文は首を傾げる。 「はたてについては名前だけだけどね。 文、まだ若年ながらなかなか優秀な天狗、と、僧正坊からよく聞かされているよ」 「…………お前な、二人まで巻き込むなよ。こっちに」 頼政の視線は、はたてが見たこともないほど鋭い。……けど、 畏れ? と、その表情を見て思う。彼は笑みを崩さず無視。答えない。 「頼政、しばらく二人についているように、君がいたほうが二人とも静かにいられるだろうからね」 「あいよ」 頼政はぞんざいに手を振る。彼は苦笑して背を向ける。 「忙しいんか?」 「私が忙しくなくなる日はないよ」 「…………だろうな」 そして、部屋を出る。頼政は深刻そうな溜息。 「あの、頼政」 「ん?」 文は首を傾げて問う。 「今の人、誰ですか?」 //.幕間 //.幕間 「犬走椛、だったね。 君の待っている白狼天狗は」 都、源頼政に案内された一室で牛若丸は声をかけられる。 椛、その名前を聞いて牛若丸は反射的に顔を上げる。 「あ、あのっ、椛は、無事っ? 大丈夫っ、だよねっ?」 そこにいた男性、彼に問いかける。大丈夫だよね、と。祈るように、 大丈夫、そうであってほしい。椛は自分よりもずっと強い白狼天狗、だから大丈夫、と思いを重ねる。…………けど、記憶から離れない、焦げた、臭い。大切な人の焼かれた臭い。 かすかに、……けど、ゆえに、鮮明にその臭いが記憶に刻まれている。だから、掴み問う。大丈夫、と言って欲しくて、思いから振り払えない不安を否定して欲しくて、 大丈夫、その問いに、応じる声。―――― 「彼女は死んだよ」 ――――最悪の、回答。 「う、そ、だよ、ね?」 牛若丸は恐る恐る、問い返す。 記憶に染みついて離れない、焦げた臭い。 「残念だが」彼は沈鬱な表情で首を横に振り「体が、焼き焦げていた。いくら白狼天狗といえども、助からなかった」 即死だ、と声。 「どう、……して、」 否定してほしくて、現実を受け入れられなくて、牛若丸は呟く。 その問いに意味はない。ただ、呟かれた言葉、けど、答えが返った。答え、それは、 「君が弱かったからだよ」 「僕、が?」 断定の言葉に、牛若丸はただ、繰り返すことしかできない。 そうだよ、と声。 「君は椛を守ることができなかった。 だから、椛は死んでしまったのだよ。武士なのに、大切な人を守れなかった」 言葉は、優しく、心に染み入るように響く。牛若丸は恐る恐る、手を見る。 そう、そうだ。あの時、霹靂神の目が変わった。不安と驚愕に揺れる瞳、そして、名を呼ばれた。 はたて、友達。……だから、あの時動きを止めた。だから、 「僕の、せい」 そうだよ、と声。 「僕が、椛を、守れなかったから」 そうだよ、と声。 「椛は、死んじゃった、の?」 「そうだよ。牛若丸」 肯定の言葉に、牛若丸は膝をつく、そして、 「う、……うくっ、」 嘘だ、と言って欲しかった。けど、記憶に刻まれた焦げた臭いがそれを否定する。だから、――――記憶をよぎる、大好きな彼女。 「ふぁ、……あ、あ、あぁぁぁあ、うあああああああああああああああああああああああっ」 膝をついて、牛若丸は泣いた。 ――――――そして、声。 「だから、もう負けてはいけないよ」 聞こえてきた声に、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。 慈しむように、丁寧にかけられる言葉。声はするりと牛若丸の耳に滑り込む。 「負けては、だめ?」 「そうだよ。 負けたら、また喪ってしまうよ。椛のように、大切な人を、ね」 「うしな、う」 呟かれる言葉とともに思い描くのは、椛との記憶、想い出、一緒に山を走り回り、刀の訓練をした。 そして、一緒に常盤の作ったご飯を食べた。一番近くにいた、一番大切な、大好きな、椛。 焦げた臭いがする。 「そう、負けたら喪われてしまうんだ」 やさしく、教え諭す様な、声。 だから、 「もう、負けてはいけないよ。 どんな手段を使っても、勝たないとだめだよ。それが、卑怯な手段であっても」 卑怯、その言葉に反応して牛若丸は表情を躊躇に変える。つまり、 「卑怯な手段は、使いたくない?」 こくん、と頷く。武士、そこにある憧憬が卑怯という言葉を拒絶する。けど、 「そしたら、また喪ってしまうよ。 大切な人を」 焦げた臭いがする。 「うしなう、の?」 「そうだよ。 負けたら喪ってしまうんだ。……牛若丸」 優しい声、我が侭を言う子供を宥め、諭すような声。それは、告げる。 「卑怯な手を使わないで、もし負けたら、また喪ってしまう。 大切な人を、……それでもいいのか、喪ってしまった、大切な人を思って、考えてみなさい」 「あ、…………」 その言葉に触発されて思い出す、椛との思い出、大好きな人と過ごした。平穏で、幸せな日々。 訓練の時の真面目な表情、我が侭を言った時の困った表情、そして、大好きな優しい笑顔。 焦げた臭いがする。 そのすべてが喪われる。喪ってしまう。――もう、なくなってしまう。 胸をごっそりと削り取られたような虚無感。もう、大切な人と会うことができない、という確たる絶望。 それが、 「いや、だ」 牛若丸は胸に手を当てる。握りしめるように、握りつぶすように、 「もう、いやだっ! 僕はっ! 僕は大切な人を喪いたくないっ! もう、やだっ!」 声を上げる。絶叫する。喪失を押し付けるまだ見ぬ存在に、咆哮する。 「絶対に、もう、喪わないっ! 僕はっ! 負けないっ! 絶対にっ! 絶対にっ! どんな手段を使ってもっ! 絶対に負けないっ!」 幼心に抱いた武士への憧憬は喪失の現実により灰燼と化す、その痕から、ものの意志が萌芽する。 もしここに、心を読める古明地さとりがいたなら、その道行きを憂い、せめてと祈り立ち去っただろう。 もしここに、心を読めた古明地こいしがいたなら、その破滅的な意志に恐怖し、涙目で逃げ出すだろう。 もしここに、祟り神、洩矢諏訪子がいたなら、その意志に喝采を贈っただろう。 焦げた臭いとともに、幼心に刻み込まれた凄惨な決意。凄絶な覚悟。 あらゆる手段を使って勝利する、勝利しなければならない、敗北を許さない、と。大好きな人の面影に誓う。 それを知り、彼は笑う。 「そうだね。 なら、まずは君の後ろ盾になりそうな人を紹介しよう。彼に人の戦い方を教えてもらいなさい。 そして、椛から教えてもらった戦い方で、勝利する方法を、あらゆる手段と犠牲を含めて、考えなさい」 「うん。僕、負けない方法、考える」 応じる言葉に淀みはない。意志は決まった。なら、なにを迷う必要があろうか。 …………そして、もう一つ。 「それと、これを君にあげよう」 「あ、」 差し出されたのは車太刀、椛の愛刀。 牛若丸はそれを恐る恐る受け取る。受け取り、抱き締める。決して手放さない、と。強く、強く。 それでいい、と彼は頷く。牛若丸は車太刀を大切にするだろう。そして、喪った大切な人の形見を見るたびに、その意志を強くするだろう。 それでいい、牛若丸には、強くなってもらったほうが使える。 「いい、の?」 「彼女もそれを望むはずだよ」 「……うん」 「――――さて、吉次は近くにいたかな」 呟いて背を向ける彼に、牛若丸は不意に問いかける。 「あの、……」 「ん?」 問う。 「貴方は、誰?」 「私? そうだね、私は、――――――――」 //.幕間 「――――さすが、丈夫ね。天狗は」 声に、目を開ける。痛むお腹には包帯。 「貴女、は?」 「八意永琳。 薬師、医師でもいいわ。とりあえず貴女の治療をした人よ」 治療、お腹に巻かれた包帯。……そうですか。 「えと、ありがとうございます」 「御代はもらってるから礼を言う事でもないわ。 まあ、払ったのは貴女じゃないけど」 なら、誰がでしょうか? と、 「目、覚めたかい?」 入ってくるもう一人の、男性。人のようですね。永琳は彼に視線を向けて頷く。 「ええ、経過は順調。 無理すればもう出て大丈夫よ。……大事を取るなら二、三日はゆっくりした方がいいけどね」 「じゃあゆっくりしていってもらおうかな。 二、三日とは言わずにね」 ずきっ、とお腹が痛む。けど、 「私の、友達、は?」 問い、そして、名前を、と思ったところで、 「射命丸文と、姫海棠はたては別室にいるよ。 二人とも、君よりも軽傷だから、無理をしない程度に会いに行ってみなさい」 「……一応言っておくけど、こんなところを妖怪がうろうろしてたら卒倒する人いるわよ?」 「いたねえ」 こんなところ? ……確かに、ここは鞍馬山ではないようですけど、 そんな事より、もう一人、私の、大切な友達。 「牛若丸、は?」 問いに、彼は申し訳なさそうな表情で、 「あれだけの騒ぎの渦中にいたんだ。 面倒事に巻き込まれる前に、急ぎ、都を離れてもらった。無事だし、これからの生活も、私の名に懸けて保証はするけど、しばらくは会うことはできない」 そして、彼は永琳に視線を向ける。永琳はため息をついてそっぽを向く。見ていない、という仕草を確認し、彼は頭を下げた。 「申し訳ない。椛。 牛若丸を僧正坊に預けたのは私なんだ。こんなことになるとは思わなかった」 告げられた言葉に、私は、いつか、牛若丸に告げた言葉を思い出す。もちろん、 「いえ、私は、牛若丸に会えて、嬉しいです。その思いは変わりません。 そのきっかけをくれたのなら、私こそ感謝をしたいです」 ただ、しばらく会えない。……それは、寂しいです。 賑やかで、楽しかった日常。思い出す。思い出し、俯く。 「…………そう言ってもらえると私も嬉しいよ」 だから、と頭を撫でられる。常盤とは違うけど、優しい手つきで、 「泣いていいよ」 言われて私は泣きそうになる。…………けど、「いえ」 首を横に振る。そう、私は牛若丸の師。それは、今でも変わらない。簡単に泣いていいわけがない。 せめて、愛弟子に誇れる師でいよう、そう思って意識してまっすぐ彼を見る。 彼は微笑み、私の意志を察したように一つ頷く。 「鞍馬山は今、いろいろと騒がしいことになってる。君たちは真済に預かってもらうように頼んでおいたよ」 「真済?」 誰でしょう? 彼は首を傾げて、ふと、頷き、 「太郎坊、だ。愛宕山の、十分に傷が癒えたら迎えに来るように言っておくよ。 それじゃあ、繰り返すようだけど無理はしないように、ゆっくりと休んでいきなさい。あとで文たちのいる部屋を教えるから」 そう言って彼は背を向けました。……と、 「あのっ」 「なにかな?」 「貴方は、誰、ですか?」 問いに、彼は笑う。稚気に富む悪戯っ子のように、老練な策略家のように、 大天狗のように、彼は笑う。 「後白河天皇、そう呼ばれていた、もの、だよ」 //.開祭 「瀬を早み 岩にせかるる滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」 しむ、しむ、しむ、と富士見の娘は付き人とともに、白峰山を歩く。 白峰山は無人。いつもならいる天狗や修験者、山伏もいない。皆、相模坊が連れ出してしまった。無人、ただ、富士見の娘とその付き人の歩く音が幽かに響く。 無音、動物の声もない。飛ぶ鳥はいない。何も、いない。 「死により別たれたその意志を、再度、顕界と重ねる、っていう歌。…………なのかしらね?」 富士見の娘は上機嫌に歩を進める。悪路に少し足並みを乱しながら、それでもその機嫌を崩すことはない。 血の宮、煙の宮、そして、――児が岳。血煙の赤に染まるその地を前に、富士見の娘は歩を止める。 ひらひらと、金色の蝶が舞う。 蝶は、富士見の娘が差し出した指に一度止まり、そして、舞う。 「では、」 金色の蝶は、己の血煙を媒介としてその形を現す。一丈の翼をもつ、黄金の鳶。怖気がするほどに、寒気がするほどに、美しい金色。 翼を一つ、羽ばたかせる。残った血煙が舞い散る。その向こうから覗かせる夜空。漆黒の闇、満天の星、天頂の月、黄金の鳶はこの美しき夜に己の存在を誇るように翼を広げる。 黄金の鳶は富士見の娘を見て笑う。その存在を、富士見の娘は笑みを浮かべて、一礼で迎え入れる。 前夜祭は終わった。これより、永い祭りが始まる。その、開祭の鐘を鳴らす黄金を迎える。 怨霊とは語り騙られる存在だと告げた誰かがいた。……否、否、断じて、否。そこにある存在はそんな生半可な存在ではない。 己を怨霊と定めた存在。明確な呪詛をもって怨霊となった存在。自らの血で書き連ねた五部大乗経に《天下滅亡》の請願を刻んだ存在。――――大魔縁。即ち、―――― 「幽冥よりご帰還のこと、お慶び申し上げます。 上皇」 |
戻る? |