「あ」
 不意に、霹靂神の動きが止まりました。好機、なら、「い「まずっ!」」
 声、というよりは直感で伏せる。そして、斎王の威が解き放たれる。

 霹靂神を中心に、光熱が爆発。

 光、熱、太陽の威。私と文はかろうじて回避、頭上を薙ぎ払い、けど、
「こいしっ! 映姫っ!」
「あ」「え?」
 二人、は?
 こいしは、意識を取り戻したらしいさとりが引きずり倒す。けど、
 呆然、と。光熱を見る、映姫。そして、

「吼えてっ! 獅子王っ!」

 牛若丸の声、光熱が、咆哮に打撃されて消し飛ばされた。
「牛若丸っ?」
 へたり込む映姫の前に立つ彼、その手には、頼政の愛刀、獅子王。
「牛若丸?」
「は、あ、…………えっと、大丈夫?」
 牛若丸は困ったように映姫を見る。映姫は慌てて立ち上がる。そして、
「おー、間に合ったか。少年」
「う、ん。ちょっとびっくりした」
「小町っ、これはどういうことですかっ?」
 映姫の怒声に小町は困ったように「いやあ、連れて行けってうるさかったもので」
「椛っ、文も、大丈夫?」
「はい、大丈夫です」「あやや、格好良かったですよ。牛若丸」
 びしっ、と親指を立てる文。視線の隣、霹靂神が腕を組んで頷く。
「えへへ」
 嬉しそうに牛若丸。それより、
「それにしても、雷撃だけじゃないのですね。霹靂神」
「あ、それは、ちょっと私自身も驚きました」
「そうなの? なんか、新必殺技っ! ってわけじゃないんだ」
「あ、それなんですけど」
 おずおずと手を上げるさとり。彼女はやや言いずらそうに、
「すいません。井上皇后がもうかなり近くまでいます。
 忘却の糸を張っていたのですけど、弾き飛ばされました。さっきのはその余波です」
「本当なのですかっ!」
 今度はさとりに怒声を上げる映姫。さとりはやっちゃった、と言わんばかりに微笑んで、手を合わせて、
「ごめんねっ、えーきちゃんっ」
「打ん殴りますよこの呆け部下」
「ほらっ、こいしもっ、こいしも一緒に謝ってください」
「う、るさい、この、ばか、あね」
 へたり込んだまま動けないこいし。顔は紅潮して息は荒い。……すっごい疲れているみたいですね。
「こいし、………………すごい、色っぽくて可愛い」
「もう、やだ、この、ばかあね」
 あ、倒れました。霹靂神はその様子を見てくすくす笑う。
「では、あとは時間の問題ですね。
 さとりと、こいしはご苦労様でした」
 そして、と霹靂神は笑って、
「では、続けましょう?」

//.幕間

「――――わかったっ」
 姫海棠はたては立ち上がる。
「あ?」
 白壁王は顔を上げる。
「あんたの奥さん、私が見つけて、連れてきてあげるっ」
「…………寝言か、」
 心情を吐露したところでいわれたこの言葉、白壁王は肩を落とす。
 が、はたては唇をとがらせて、
「いいから、そこで待ってなさいっ
 いい、引きずってでも連れてくるから、どこにも行くんじゃないわよ」
「いや、だか、――って、おいっ!」
 白壁王が手を伸ばす、その先、妻のために注いでおいた酒ははたてが一息で飲み干す。
 不味い、相変わらず、酒の美味さはわからない。いつか、分かる日が来るかな、と思いながら、
「新しいの注いで待ってなさいっ」
 そういって、駆け出した。

「…………なんなんだよ、あの小娘」
 呆然と、元気に走り去るはたてを見送り、白壁王は、………………ふと、口元に手を当てる。小さく、笑っていた。
「注いで、か」
 馬鹿らしい寝言を聞いちまったな、と白壁王は手の中の御猪口にわずかに残った酒を、一気に飲み干す。
 殴られるかもしれない、罵られるかもしれない、…………そもそも、会えるかもわからない。
 けど、万が一、はたてが見つけ出したのなら、
 けど、億が一、また、いつかのように、酒を一緒に飲む事ができたのなら、
 けど、…………

「手酌ってのも、なあ」
 白壁王は空の御猪口を手に持ち、小さく笑った。

//.幕間

「はたてが井上皇后を探しに行きました」
「…………はあ?」
 唐突に、霹靂神がそんな事を言いました。
「どういう事、ですか」
 もはや何をする気力もなさそうなこいしに抱き着く――というか絡み付く――さとりを適当に蹴飛ばしていた映姫が鋭い視線を向ける。その先にいる霹靂神は一つ頷いて、
「そのままです。
 私の、霹靂神を通じて来ようとする井上皇后を、私の中に眠るはたてが探しに行っています。
 どうも、私の中に残滓として残っていた白壁王に会わせたいようです」
「…………なんか、たくさんいるんだね」
 牛若丸が小さくつぶやく、同感です。霹靂神は鷹揚に微笑んで「凄いでしょう」
「うん、…………えっと、ごめんなさい。よくわかんない」
 私もよくわかりません。
「で、たぶん井上皇后とはたては会うでしょう。
 その後は、二人の意思次第です」
 霹靂神は、そういって手を広げる。その両手に、紫電。
「はたてと、井上皇后が望めば、あるいははたての意志は上書きされ消滅し、井上皇后がこの世に舞い戻るかもしれません。
 あるいは、井上皇后ははたてに説得されて、また、幽冥界に戻るかもしれない。
 井上皇后が本当に世を恨んでいるのなら、本当に怨霊として祟りをばら撒くかもしれない。……………………この、霹靂神が、どうなるか、それは、二人の意思次第となります。
 そして、私はその意志を最大限尊重します」
 なぜなら、と霹靂神は自分の胸に手を当てる。その全身に、紫電が宿る。
「私であり、母である井上皇后。
 私であり、娘である姫海棠はたて。
 その間合いにいる私、霹靂神は、二人の意志を尊重します」
「そ、それって、はたてがいなくなるかもしれない、っていう事?」
 牛若丸の問いに、あるいは、と霹靂神は頷き、けど、
「簡単なことです。
 認めないなら、私を殴って気を失わせればいい。そうすれば残された意思、はたてが戻ります。何も変わりません。
 もちろん、はたてが井上皇后の復活を願うのだとしても、それでその願いも妨げられます。
 まあ、友達の貴女たちなら、多少ははたても大目に見てくれると思いますよ」
「ま、一番わかりやすいやつね」
 文はにや、と笑って団扇を握る。私は車太刀を、牛若丸は獅子王を握る。つまり、
「欲するなら、力づくで奪い取れ、ってね」
 合格です、と霹靂神は応じて、
「では、行きましょう」
 紫電が迸った。そして、霹靂神は後ろへ。
「逃げるのっ?」
「こっちは時間稼ぎで十分ですので」
 そういって、山から飛び降りるように後ろへ。なら、
「行きますかっ!」「行きますっ!」「行くよっ!」
 私たちは、霹靂神を追って飛び出した。

 山を駆け下りる。一気に、
 岩を足場に跳躍。木を掴み軌道修正、雷撃を回避してさらに走る。駆け抜ける。
「や、あぁぁあっ!」
 牛若丸は獅子王をもって崖を駆け下りる。疾駆疾走、山を一気に駆け降りる。
 こちらを向いて落下する霹靂神が雷撃を放つ。牛若丸は枝を足場に跳躍。枝が雷撃で撃ち落とされる。
 そして、私は斜面を走り抜いて、「はっ!」
 車太刀を振るう。霹靂神は岩を蹴って跳躍回避。私は下に落ちる。けど、
「さて、次ですっ!」
 文は追撃、団扇を振るう。風が霹靂神を切り裂き、霹靂神の放った雷撃が文を焼き、双方に浮かぶのは似たような笑み。
 跳躍する跳躍する。文は弾かれたように横に、そして、その後ろから獅子王を振り上げる牛若丸。「吼えてっ!」
 獅子の咆哮が放たれる、が。霹靂神は木に足をかけて落下軌道をずらして回避。逆に牛若丸を蹴り飛ばす。
 落下しながら蹴飛ばされ、牛若丸は山肌の岩に着地。そして、木を、岩を、道を、山を、かけながらさらに霹靂神に追いすがる。
 私は木を利用し、岩を駆け上りながら落下する霹靂神の後ろから車太刀を振り上げる。けど、「よ、っと」
 見抜かれていましたか、こちらに手を向けられる。紫電、一刀、叩きつけるのをあきらめてさらに山肌を蹴り跳躍。その足元を雷撃が駆け抜ける。
「あぁっ!」「次ですっ!」
 右から牛若丸が、左から文が、獅子王、そして団扇を振りかぶる。けど、「甘い、ですっ!」
 霹靂神は紫電宿る手を振り抜く。帯のように広範囲に煌めく紫電。風と咆哮が相殺。それを突き破って、
「や、あぁぁああっ!」
 牛若丸は獅子王を振り下ろす。が、霹靂神は左に跳躍して回避。紙一重。
 文は大きく距離を取って、飛翔。風を操る天狗の最高速度で霹靂神を追撃。だから
「文っ!」
 追撃する文を絡め取ろうとする紫電の網。私は木々を伝って山を駆け上り、全身を振り回して、紫電の網を切り裂く。
 そこに、文が突撃。霹靂神は反射的に雷撃を飛ばすが、それでも威力は低い、文は体を焼かれながら、団扇を振り抜く。
 斬っ、と音。霹靂神が風で切り裂かれ、勢い余った文の体当たりを受けて、けど、
「えっ、」「、いっ!」
 二人は綺麗に蹴りを交わす、お互いの足を蹴り飛ばす格好になり弾き飛ばされる。
「捕まえなかったの?」
 牛若丸の非難に文は苦笑。「女の子同士で抱き合うところでも見たいですか?」
「え、……えっと、それは、変だと思う」
 同感です。霹靂神はくすくすと笑って、胸に手を当てて、
「さて、行きましょうか」
「望むところですっ!」
 私は岩を足場に霹靂神に駆け寄る。応じるのは紫電、一刀にて切り開く。
「牛若丸っ!」
 音は、聞こえています。私の後ろを走る牛若丸の音。私は姿勢を低く、そして、
「吼えてっ! 獅子王っ!」
 私を飛び越えた牛若丸は獅子王を振り抜く、咆哮の打撃が雷撃を放った直後の霹靂神に叩き込まれる。
「つっ、……結構なもの、ですね」
「おじさんに比べたらまだまだだけどねっ」
 獅子王の咆哮打撃。頼政のはすごいですからね。……前に、ぬえという妖怪を退治したのは伊達ではないのでしょう。
 だから、
「まだまだ、行くよっ!」「行かせませんよっ!」」
 弾き飛ばされた霹靂神は追撃する牛若丸を見据えて笑う。その手に、紫電。
「お、そいっ!」
 放たれる紫電を最低限の動きで横に回避、牛若丸は疾走を続け、けど、「落ちてっ!」
「牛若丸っ!」
 走る牛若丸を横から文が蹴り飛ばす。直後、落雷。
「文、手加減お願い」
「そんな余裕ありませんよっ?」
「ついに落雷までしますか」
 どうしたものでしょう、と車太刀を持ち走る私に霹靂神は笑顔で「閻魔様の封印が届かなくなってきましたから」
「えーきちゃん遅いっ!」
 怒鳴る文に、応じるのは、
「貴女たちが速すぎるんですっ!
 もう少しゆっくりいけないのですかっ!」
 遠くから声。映姫です。
「戦いとは速度です。
 遅かったら死にますよ?」
「どこの奇異な世界ですか?」
「椛には速度の意味が解らないのですかっ!」
 解らない以上に知ったことではありません。
 ともかく、そろそろ間合い、私は車太刀に手をかけて、「え、いっ!」
 全力で振り抜く、居合の一刀、けど、霹靂神はそれを読み切っていたらしいです。まあ、予備動作大きいですからねっ!
 振り抜き、勢いをそのままに姿勢を崩して振り上げる。倒れることは確定でも、上に逃げる霹靂神は追撃できる。
「わ、とっ」
 けど、霹靂神も流石というか、天狗らしく再飛翔。空中からの再加速で下から迫る一刀を回避。…………あ、
「えいっ」
 振り下ろす動き、落雷。「ごめんっ! 椛っ!」
 背中を獅子の咆哮が叩く、痛い、けど、「助かりましたっ!」
 後ろ、落雷が地面を砕く。霹靂神は苦笑。そして、「どんどん行きますよっ!」
 文が団扇を振り上げる。旋風。螺旋を描く風の刃が霹靂神に殺到。
「つっ!」
 風の刃が霹靂神を切り裂く。体に数多の傷を作り、けど。「お返しですっ!」
「ひゃぁあっ?」
 展開する雷電の檻は文を囲い、こちらも体に数多の火傷を作る、まったく、と。文が笑って、
「女の子の柔肌に何てことしてくれるのよっ!」「貴女に言われたくないわっ!」
「か弱い女の子なんてただの幻想ですっ!」
「刀振り回す椛が言うと説得力あるわあ」
 でしょうね。獅子王の咆哮に弾き飛ばされた私は着地、そして、牛若丸は獅子王を構えて、
「こ、のっ!」
 上にいる霹靂神に文を巻き込んで咆哮を放つ。二人は弾かれたように左右に分かれて回避。当然、こっちに来るのは、
「いきますっ!」
 大跳躍、こちらに避けた霹靂神を車太刀で狙う。けど、
「椛っ!」
 紫電が放たれる。霹靂神自身から小出しされる雷撃は落雷ほどではないですけど、
 それでも、当たれば痛い。切り払う。切り払いながら、「せっ!」
 旋回、足を振り上げる。狙うは顎、つま先で顎を蹴り抜く。
「っと」
 避けられましたか、けど、旋回は止まらず、そのまま車太刀を振るう。一閃。「遅いっ!」
 のけぞった霹靂神は、そのまま足を跳ね上げる。振り抜く刀を蹴り上げられる。姿勢を崩す、けど、
 霹靂神はのけぞったまま一回転、その彼女が見たのは、
「い、っけぇえっ!」
 獅子王を振り抜く牛若丸。霹靂神は両手で防御、その上から、
「吼えてっ!」
 獅子の咆哮が打撃して、吹き飛ばした。

//.幕間

「大見得切ったものの、さて、どこに行ったものかしらね」
 姫海棠はたてはあたりを見渡しながら呟く。……けど、その足が迷うことはない。
 ここにいる、この先にいる。
 何かの感覚があるわけではない。確信があるわけではない。けど、迷いなく歩く。

 そして、

「怨霊について、」
「霹靂神ね」
 隣を歩く、自分と寸分変わらぬ彼女。語られ騙られる怨霊。
「ねえ、教えて」
 問う。
「井上皇后は、母様は、父様を怨んだの」
 はたては、当たり前のように問いかけた。

 雷神を産んだ井上皇后。宮前霹靂神社に封印された怨霊の子。

 最も恐ろしき、雷の力を持つ霹靂神、はたた神、はたて。
 彼女の問いに、霹靂神は首を横に振る。
「わからないわ。……というか、私が答えていい事じゃない。
 母様に直接聞いたほうがいいわ。だから、私が語るのは一般論」
「怨霊って怨みからできるものじゃないの?」
 はたての問いに霹靂神は首を横に振る。
「怨霊は、妖怪の中でももっとも精神、思想、信仰に依存するの。
 恐怖、不安が怨霊を形作る。そこに、」
 霹靂神は苦笑。愚か、と笑いながら、
「そこに、語られる人の意志は関係ないわ。
 母様が、私が、井上皇后が、白壁王を怨んでいたかは、わからない」
 そう、とはたては安堵したように呟く。霹靂神は首を傾げる。
「よかった?」
「ん、――――まあ、やっぱり怨むとか、そういうのはよくないわよね」
 うん、とはたては腕を組み目を閉じて頷く。くすくす、と笑い声。
「そうね、私も同感」
「……共感得られて嬉しいけど、怨霊が言うと不思議な感じね」
「まあね」
 霹靂神はくすくすと笑う。そう、
「誰も、怨んでいない。
 ただ、恐怖と不安があっただけ、けど、」
 けと、霹靂神は苦笑して肩をすくめる。
「誰が恐怖を得て、不安を持っていたのか、それは失われてしまったわ。
 もう、ずっと昔のことだもの」
 だから、霹靂神は己を言うのだ、語り、騙られ、と。
 説話として語られる、伝承として騙られる、過去として、形作られる。
 それが怨霊。人の、恐怖の形。……「けど、貴女はここにいるじゃない」
「まあ、そんなこと言ったら妖怪なんてみんなそんなものだけどね」
 胡散臭そうなはたての視線に霹靂神は肩をすくめて応じる。あらゆる妖怪、そして、神は大なり小なり人の思想に依存している。
「妖怪になった?」「妖怪として騙られた。ね」
 ふぅん、とはたて。
「そっか、……まあ、ちょっと安心した」
「なにに?」
 答えが解っていて霹靂神は問う。だからはたては唇をとがらせて、
「別に、母様が怖い人だったらやだなあ、って思ってたのよ。
 けど、話し聞くにそうでもなさそうだし」
「そう、なら、安心して急ぎなさい」
「急ぐ?」
 問いに、霹靂神は苦笑。
「椛と、牛若丸と、文が霹靂神と戦っているわ。
 霹靂神の意識を抑えて、はたて、貴女を取り戻すために、霹靂神がその意識を失えば、はたては元に戻って、井上皇后も霹靂神も、おとなしくなるわ。
 だって、」
 霹靂神は胸に手を当てる。隣を歩くはたてと、寸分変わらぬ姿の自分の、その胸に、
「結局、貴女は私なのよ」
 だから、霹靂神は言う。はたてに、急げ、と。
「文たちが勝ったら、もう、母様と父様が会うこともなくなる、か。
 …………まったく、ちょっと待ってほしいんだけど、その理由が私のためじゃあ文句言えないじゃない」
「それもそれ、一つの結末。
 みんながみんな、大切なもののために力尽くよね」
「強引に、ね、力を尽くして、ならちょっと響きよかったんだろうけど」
 霹靂神は笑う。そして、
「それじゃあ、がんばってね」
「はいはい、わかったわ。
 そっちこそ、文たちは私の大切な友達なんだから、怪我させないように時間を稼いで」
「また、無理難題ね。……けど、それは無理」
 くすっ、と霹靂神は笑う。
「結局、語り騙られたものであれ、私は怨霊。霹靂神。
 その存在にのっとって祟りをばら撒く。あるがままにあり、あるがゆえにある、そういうものでしょ。妖怪は」
「そうね。……はあ、誰も怨むわけにはいかない、か。
 怨霊らしくていいわね、ほんと、けど、まあ、」
 はたては隣にいる霹靂神を見ない、まっすぐ前を見据える。つまり、簡単なこと、霹靂神は告げてはたては走り出す。

「急いで、文たちが私に勝つ前に、私が文たちに勝つ前に、母様の思いを叶えて、」

 ――――そして、「母様」

「こんにちわ、私の可愛い子。――」
 やさしく微笑む。彼女、井上皇后。
「――はたて」

「はたた、って呼ばないんだ」
「はたてのほうが可愛いと思うわ」
 それもそうね、とはたては井上皇后に視線を向ける。
 さて、なにを言ったものか、と思ったけどやるべきことは決まっている。だから、手を差し伸べる。
「行こう、父様が待ってるわ」
「そう、……待っててくれてるの?」
「ええ、酒飲みながら。
 さっさと行くわよ。酔っぱらって寝ちゃうかもしれないし。
 それに、」
 烈震。
「なに?」
 突然、空間が揺れた。きょとん、とする井上皇后。
「私の友達が頑張ってるみたいね。
 急ぐわよ。霹靂神が頑張ってる間に、父様に会いに行くわよ」
「旦那様、に?」
「母様の望みはそれで叶うんでしょっ!
 それなら、それで終わりよっ!」
 そう、それでいい。それで、井上皇后は幽明の境を狂わす必要もなくなる。
 手を差し出すはたての手を、井上皇后は、

「――――――そう、ね」

 手を、とった。

//.幕間

「なかなか、さすがですね」
 霹靂神の息は荒い。まあ、三対一ですからね。
 牛若丸の獅子王に打撃され、私の車太刀や文の風の刃に全身を斬られ、それでも、霹靂神は戦います。
 もちろん、こっちも無事ではないですが。
「あー、きつ。
 牛若丸、大丈夫ですか? 特に」
「は、……あ、ぼ、僕は武士な、の。
 女の子に、心配される、けほっ、事なんて、なにもない、の」
「一番きつそうですけどね」
 まあ、私たちと山を駆け回って戦っているのだから当然でしょう。えーきちゃん来ません。
「まあ、そろそろはたて出てきませんか?」
「それは、無理、です。
 はたてははたてで大切な局面ですから」
 そうですか、だから、私は車太刀を握る。
「その大切な局面を邪魔したら、怒られますか?」
「いえ、私のためにやっているのなら怒れないって。
 いい友達を持ちましたね」
「そうでしょうっ!」
 胸を張る文。…………まあ、そうですね。
「ああ、……でも、ふふ、楽しい」
 ばちばち、と霹靂神の周囲に雷光が煌めく。
「楽しい?」
「己の力を、存在意義を、全力で振り回す、楽しめないわけがないじゃないですか」
「同感です」
 車太刀を構えて、腰を落とす。先手必勝。と、霹靂神は雷撃を投げかける。が、
「こ、のっ!」
 私よりも先に、牛若丸は飛び出して獅子王を振り抜く。打撃に雷撃が消飛ばされて、私は、その後ろから飛び出す。
「は、ああっ!」
 一閃、もう何度も刃を交わした間柄、私の間合いは読まれている。最低限の動きで車太刀の一刀を回避。けど、「まだですっ!」
 さらに、体を振り回して一回転。当然、その隙はあるけど、
「さすがですねっ!」
 霹靂神はさらに後ろに後退。そこを、風を纏い突撃する文が通過。
「頭突きとは石頭なっ」
「違いますよっ!」
 違うのですか、ともかく、私はこれで一回転。旋回の勢いの乗った一刀をさらに、霹靂神に叩き込む。
「つっ」
 追撃、旋回を強引に止めて、逆に振り抜く。けど霹靂神はさらに横に跳んで回避。けど、「逃がさないよっ!」
 牛若丸。彼は獅子王を構えて追撃。
「逃げますよ、っとっ!」
 そして、再度の落下。霹靂神は身投げするように山道から身を投げる。当然、
「追撃、行くわよっ!」
 文の言葉に私と牛若丸は頷いて、山を飛び出した。

 風を切り、山を駆け下りる。斜面を蹴飛ばし木々を足場に、岩を蹴り跳躍を重ねて霹靂神を追撃。
 下。先に落下する霹靂神が放つ雷撃。文は空を舞い回避。私は岩を蹴りながら車太刀で弾き、牛若丸は獅子の咆哮で雷撃を粉砕。
 風を切る感触。大気を引き裂く悦楽。加速は止まらず霹靂神を追撃。
 放たれる雷撃。牛若丸は木に獅子王を突き刺して落下を止めて横に跳躍。直後に木が雷撃に焼き落とされる。
 そして、木が落ちる。「あやややっ!」
 その落ちた木は文に迫り、文は風で吹き飛ばす。ふふ、と笑い声。
「あははっ、楽しいですねっ!」「まったくねっ!」
 飛翔を重ねる文とはたて。二人は至近で笑みを交わして風の刃と雷の槍を交わしあう。
 焼かれて裂かれて、けど、二人は笑う事をやめずに激突する。そして、
「い、くよっ!」
 牛若丸は岩を蹴り一気に霹靂神に突撃。全力で、獅子王を振り抜く。
「吼えてっ!」
 咆哮打撃。「私まで巻き込むのやめてくれません?」
 牛若丸の全力の振り抜き。本来の持ち主である頼政ほどではないにせよ、結構な広範囲を打撃する。当然、隣接していた文も、
「だって、文が近くにいるんだもんっ」
 すねる牛若丸は落下しながら近くの木に獅子王を突き刺して落下停止、さらに斜面を駆け下りて落下する霹靂神に並ぶ。そして、
「追撃、いきますよっ!」
 私は、一気に飛び降りる。大気を切り裂きながら自由落下。車太刀を霹靂神に向かって振り抜く。けど、
「甘いっ!」
 応じるのは雷撃の網。私をとらえようと展開。切り裂く、が。想定されていたようですね。二重。自由落下の勢いは止まらず、ゆえに私は、
「ま、だですっ!」
 強行突破。雷撃が体を焼く。大気を切り裂く音に、雷撃が弾ける音が混じる。突破っ!
 目の前にいる霹靂神は笑っている。それでこそ、と笑う。笑い。私の振るう車太刀を雷撃で受ける。
 車太刀が打撃し、雷撃が私を焼く。
 はは、と。

「祟り神、霹靂神の本質は雷電の破壊にあります。
 さあ、行きますよ。祟りに、耐えてください。私の子の、大切な友達」

 暗転、…………そして、霹靂が始まる。

//.幕間

 こつ、こつ、こつ、と。
 井上皇后は歩を進める。傍らには姫海棠はたて。
 二人は言葉を交わす。話しているのははたて、ここ、鞍馬山でできた、大切な友達。
 熱を込めて語るはたての言葉に井上皇后は優しく微笑み合の手を入れる。
 文、椛、牛若丸、常盤、そして、頼政や僧正坊、諏訪子、巴、ここ数日で会えた友達。
 はたての、……可愛い娘の語る言葉に、井上皇后は過去を思い出す。
 他戸皇子、自分と、愛おしいあの人との子。
 自分の出来があまりよくないことは解っている。妻としても、母としても、多感な時期を伊勢斎王という清浄を極めた環境で過ごした過去は、世間一般的な女性が得る知識も経験も得られなかった。……けど、
 それでも、抱きしめたときの感触は覚えている。愛する我が子、そして、自分と同様に捨てられた子。
「母様? 泣いてるの?」
 不意に、心配そうな声。そして、
「あ、……」目元に手を当てる、たしかに「え、と。……ごめんね」
「ううん、いいって、
 いろいろ大変だったんでしょ? 私こそ、自分ばっかり喋っててごめんね。愚痴とか、何でも言っていいから」
 困ったような気づかいに井上皇后はまた、泣きたくなる。そう、あの時、流刑となったときも、塞ぎ込んだ自分に精一杯気を使ってくれた子がいた。
 だから、気にしない、と首を横に振る。
「いいの、……ね。
 それより、もっと聞かせて、はたて、貴女のお話。……文、それに、椛、とか、貴女の友達のこと、教えて」

 うん、けど。

 はたては視線を向ける。そこに、一つの庵がある。

 会いに、きたよ。
 
「母様、……それも、もう、終り」
「え?」
 告げられた言葉に、井上皇后は意外そうに首を傾げる。はたてのその表情は、まだ、語り足りなさそうだから。…………けど、終り。
「母様、父様が、待ってるわ」

//.幕間

 落雷が連続する。霹靂、あたりを雷雲が覆う。
「すごい」「全力ねえ」
 思わずつぶやく牛若丸と、苦笑する文。霹靂神は雷雲の中、霹靂の中、嬉しそうに笑う。
「井上皇后と、白壁王が、もう少しで、会えます。
 怨霊として語られる井上皇后の無念が晴れるのなら、語られ騙られる怨霊の形はっ! 井上皇后の子はっ! 霹靂神はっ! この私はっ! 祝福をもってその結末を見守りたいのですっ!」
 だから、と。霹靂神は目を細めて笑って、
「邪魔、しないでください、ね?」
「冗談っ! ここまできたら一発殴ってはたてを取り戻してもう一発殴るっ!」
 文は団扇を手に獰猛に笑う。さて、
「っていうか、これ僕たちもかなり危ないよね」
 牛若丸は獅子王を握り油断なくあたりを見て、笑う。周囲は雷雲。
「そうですね。……けど、それを終わらせるためにも、」
 文と私、牛若丸は顔を見合わせて、頷く。

 征きます、と。

 私たちは、霹靂に向かって駆け出した。

//.幕間

 終わりかな、と白壁王は空を見上げる。
 空が狭い。徐々に崩れて、消えていく感覚。
 消える、か、……白壁王は空の御猪口を手に、小さくつぶやく。
 消えて、なくなり、終わる。せめて、
「会いたかった、なあ」
 御猪口を掲げる。…………掲げようと、した。

「そんなに遠くに持っていかれては、注いであげませんよ」

 その手を、そっと抑えられる。そして、

「久しぶりです。旦那様」

 柔らかく微笑む井上皇后に、白壁王は目を見開いた。…………そして、呟く。
「あの小娘、本当に、……」
「そんなことを言ってはだめよ。
 せっかく、会わせてくれたのだから」
 だから、井上皇后は白壁王の御猪口に酒を注ぐ。
「はい」
「…………一人で飲めるか」
 白壁王はぶっきらぼうに応じて徳利を井上皇后から奪い、空いている御猪口に注ぐ。
「ふふ、ありがと」
 井上皇后は、そっと御猪口を取り、白壁王のそれに軽くあてた。

「旦那様、一つ、教えてほしいことがあります」
 井上皇后は御猪口に視線を落として問う。応じる白壁王も同様で、
「そうだな、ちょうど、わしも一つ謝りたいことがあった」
「謝りたいこと、ですか?」
 首を傾げる。そんな彼女に、白壁王は力なく微笑む、今にも泣きそうな、悲しそうな笑顔。
「ああ、…………すまん。
 わしが、もっと何かできてれば、……もっと、わしがちゃんとしていれば、あんなことしなくて、すんだ、のに、」
 顔を覆う、呟くのは己の無力。何もできなかった過去。愛する人を遠ざける事しかできなかった過去。
 白壁王は顔を覆ったまま、小さく震える。泣いている。せめて、泣き顔を見せないように、と。
「すまん、……わしが、わしが、…………くっ、……もっと、ちゃんと、できれば」
 声が嗚咽に震える。悔恨、後悔、その思いが口から零れる。そして、
「……よか、った」
 顔を上げる。「なぜ、泣く?」
「嬉しい、からです」
 井上皇后は泣き笑いの表情で応じる。嬉しいから、だって、
「私、……ずっと、疎まれて、捨てられたのだって、思って、ました。
 けど、違ったの、ですね」
「そんなわけがあるかっ」
 疎んだことなんて、一度もない。
 一目惚れだった。初めて会った時から、この美しい女性を妻と出来る事を神に感謝した。それが、たとえ政略の一環であろうとも構わなかった。
 不安そうな彼女の笑顔が見たかった。黙り込む彼女の声が聴きたかった。
 疎んだことなんて一度もない。一目見て恋して、そばにいて、笑顔が見たくて、声を聞きたくて、………………そして、念願かなった時。困ったような、それでも、小さな笑顔を見せてくれた時。
 うれしかった。それから、言葉を少しずつ交わすようになって、その、無垢な心が眩しくって、暗い、政争の暗闘ばかりを見ていた自分には、とても尊く思えた。
 だから、
「疎んだことなど、一度も、ない。
 一目見て恋して、そして、ずっと、ずっと好きだった。それは、今も、ずっと、変わらない」
 だから、と。悔恨を告げる夫の言葉を、妻は抱きしめて抑える。
 夫のことはよく知っている。だから、もう、いい。そう、自分にとっては、

「それだけで、いいのです。
 旦那様」

 抱きしめて身を寄せる。ふわり、と感じるのは酒の匂い。この人の匂い、大好きな匂い。
 おずおずと、井上皇后は自分の背に手が回されたのを感じる。抱きしめられる、強く。包み込まれるように、優しく。
 そのぬくもりと、ふわりと感じる酒の匂い。いつも、ずっと感じていた。恋焦がれていた心地よさ。

「…………愛しています。旦那様」

 薄れ消えゆく小さな庵、ひらり、蝶が舞う傍で、二人はいつかの、かつてのように、お互いの鼓動を感じていた。…………そして、小さく零れる言葉。

 ありがとう、私の、可愛い子。

//.幕間

 霹靂があたりを砕く。山肌を、岩を、木を破壊する。
 直撃したらさすがに危ないですね。だから、最後、速攻を意識して、
「文っ!」
 私は一つ声を飛ばして腰を落とし、一気に加速。
 視界の隅、牛若丸も獅子王を構えて駆け出す。そして、
「さぁ、終わらせなさいっ!」
 文は全力で団扇を振り抜く。霹靂神がこちらに視線を向ける。手を構える。紫電が宿る。文の動作は見た。なら、風による加速はこちらに来る、そう判断したから。
 けど、それはない。振り抜き、そして、文は団扇を一閃。暴風が解き放たれる、そこには、「牛若丸っ!」
 暴風の後押しを受けて、牛若丸は一気に加速。私を追い越す勢い、高速で駆け抜ける。私に合わせて紫電を構える霹靂神は、不意の突撃に対処しようとするが、遅い。
「や、あぁぁあっ!」
 その手には獅子王。咆哮の打撃を纏い霹靂神に突き刺そうとして、

「…………牛若、丸?」

 ぶれた。獅子王の軌道が明らかにずれる。そして、霹靂神、……いえ、
「はたてっ?」
 戻った。けど、拍子は崩せない。紫電宿るはたての手は、まっすぐに牛若丸に向けられている。だから、
「牛若丸っ!」
 私は反射的に牛若丸の肩をつかみ、力任せに後ろに放り投げる。……そして、紫電纏うはたての手が私に直撃。

 自分の体が焼かれる音が聞こえた。

//.幕間

「あ、……え?」
 呆然とする姫海棠はたての前には、紫電により体を焼かれ炭化し、倒れる友達、犬走椛。
 井上皇后の無念が晴れ、霹靂神は用が済んだと消えた。まさに、その瞬間のこと。
 そして、倒れる。精神的な負担によりはたては眠るようにその場に崩れ落ち、舌打ち。
 射命丸文は飛び出す。そして、「治療できるところに運びますっ! 牛若丸っ! 後頼みますっ!」
 はたてを背負い、椛を手に抱く。飛翔。治療する場所、山のふもとを思い描きながら二人を抱え、最高速度で飛翔。
 文は、呆然と座る牛若丸を置いて、飛び出した。

 焼き焦げた、臭いを感じながら。

//.幕間

//.幕間

「終わったみたいね」
 古明地さとりは静かになった鞍馬山を見て呟く。
 膝の上には可愛い妹。疲労で倒れてそのまま寝てしまった古明地こいし。
「静か、ね」
 見上げる。暮れゆく時間、夕暮れ、まばゆい赤が見える。そして、ぽつり、と。
「誰が、一番泣いたのかしらね」
 この山に集まった者たち、その中で誰が一番泣いたのか、……これだから、人の思いというのは凄い、と思う。
 九割は自分を嫌悪する、九分九厘を遠ざける、けど、残り、一厘。
 どうしても、惹かれてしまうのだ。恐ろしいほどに、あまりにも強い思い。……妖怪では持ちえない、人でしか持ちえない、その命さえ焼き尽くす破滅的に美しい、人の意志。
 さとりはその意志に惹かれ、こいしはその意志を恐れた。
 さとりにはこいしの思いが解る。恐ろしい、とも思う。どうすればそこまで強い思いを抱けるのか、想像もできないのだから。
 けど、それでも、美しいと思ってしまったのだから、瞳を閉ざすつもりはない。「ねえ、そう、思うでしょ?」
「……私は覚りじゃないのだから、わからないのだけどね」
 声に、さとりはこいしを撫でて振り向く。苦笑。
「貴方が、どうしてこんなところにいるのかしら?
 怒られないの?」
「怒られることはないよ。
 嫌な顔されるだろうけど、無視する事にはなれているよ」
「そう、」と頷いて、その心を読んで、さとりは笑みを浮かべる。
「嬉しい、わざわざ持ってきてくれたの?
 次の機会がいつになるかわからない? 忙しく、………………そう、なるのね。
 ううん、駄目よ。もう協力はしないわ。」
 だから、と。さとりはこいしを守るように抱き寄せる。けど、その口には悪戯っぽい笑み。
「それおいて、帰ってくださいな。
 私が知る中で、誰よりも怖い人」
「心外だね。
 まあ、そうさせてもらうよ」
 楽しそうな声。そして、一冊の本をさとりに手渡す。背を向ける。
「わざわざ本にしてくれたのね。嬉しいわ」
 抱きしめたこいしをまた、膝に乗せる。そして、その本をこいしの胸に乗せる。
「早く、一緒に読みたいわ。
 ね、こいし、ゆっくりと二人で読みましょう」

 表紙には題が記されている。
『梁塵秘抄』、と。

//.幕間

//.幕間

「…………夜」
 ぽつり、聖白蓮は呟く。
 泣きはらした目が痛い。どれだけここにいたのか、すでにその感覚はない。
 月は天頂に輝き、星は満点に瞬く。鞍馬山から見た夜空はとても綺麗で、……だから、

「判決の時間です。聖白蓮」

 四季映姫の言葉は、綺麗に澄み渡って響いた。

「貴女は、誰、ですか?」
 ふらり、と立ち上がり、……けど、腰を落とす。
 まだ、立てるほど体力は回復していない。そんな白蓮に真っ直ぐ視線を向けて、映姫は告げる。「閻魔です」
「閻魔、……私を地獄にでも落としに来ましたか?」
 白蓮の問いに、映姫は笑わない。
「聖白蓮。
 貴女は幽明の境界を犯そうとした。これは救い難い罪業です。罪はわかっていますね? 当然、地獄行きです」
 解っている。後悔はない。その覚悟はあった。…………出来れば、叶えたかったが。
「これからすぐに?」
 抵抗、できればいいと思うがまだ厳しい。錫杖を握る手は巧く動かない。
「はい」
 映姫は冷たく、感情なく告げる。
 地蔵だったころとは違う。救済とは何かを問い続けたいつかとは違う。秩序の名のもと、白と黒を厳然と隔てる権能を持つ閻魔として、………………溜息。
「……と、言いたいところですが、事情が変わりました」

 ひらひらと、蝶が舞う。……それは、

「あ、」
 座る白蓮に、優しく微笑む老人。
 年老いて、骨と皮ばかりになり、今すぐにでも死にそうな。…………かつて、捨ててしまった大切な、弟。
 その姿を認めて、白蓮は目を見開く。その名前、呟く。
「…………命、蓮?」

 思い出すのは抱き続けていた悔恨。
 寒かったろう、寂しかったろう、…………「ごめん、なさい」

 白蓮は、涙を零して呟く。俯き、拳を握り、震える声で、呟くように、
「ごめん、なさい。逃げ出して、……しまって、
 寒かった、……ですよね。独りにして、寂しかった、ですよ、ね。…………ごめん、なさい。一番、辛いときに、独りにしてしまって、……逃げ出して、ごめん、なさい」
 ぽろぽろと、涙を零して言う。ずっと、あれから、ずっと、言いたかったこと、ずっと、謝りたかったこと。

 俯き震える白蓮の手、そっと、握られる。
 手に触れたのは、今にも死にそうな手の乾いた感触。………………………………けど、どうしてか、温かくて、

 寒くなかったよ。寂しくなかったよ。
 温かかったよ。姉様の作ってくれた、衲のおかげだよ。

「……それ、は、」
 その手にあるのは古びた、けど、しっかりとした厚手の布で作られた服。……白蓮と、命蓮の、思い出の衲。
 涙があふれる。零れる。それは、まだ今の姿を取る前の、まだ、信濃にいたときのこと、
 命蓮のことが心配で、山にこもり寒くないか、独りでいて、寂しくないか、そう思ってせめてと作った衲。

 姉様のおかげで、寒くなかった、寂しくなかったよ。
 独りぼっちじゃ、なかったよ。

 命蓮はしわくちゃの顔で優しく微笑む。そして、そっと白蓮の下げていたお守りに触れる。
 その中には小さな布。まだ、二人で信貴山にいたとき、端を切り取ってお守りにいれていた衲の切れ端。

 ……だから、…………姉様。

「判決を言い渡します。聖白蓮。
 大切な人から逃げ出し、独りにした罪。そう、貴女が行える善行は誰かが捨てた人に手を差し伸べる事。寂しいと泣く者のそばにいる事。かつて、貴女が弟に行ったことを続けなさい。…………それができたのなら、地獄行きは考えましょう」

「――――よかったんですかい、映姫様」
 映姫にかけられる声、小野塚小町はため息交じりに、
「どっちにせよ。幽明の境界を狂わそうとしたんですよ。白蓮。
 それは、「見逃したことは私の罪です。代わりに私が地獄に墜ちます」」
「…………身代わり地蔵?」
 小町を見もせず歩き出す映姫に小町は呟く。苦笑。
「ちょうどいい、小町、三途の扉を開けておきなさい。
 地獄の猛火をかき分けて、久しぶりに地蔵として鉄窟地獄に行きましょう」
「いや、地蔵としてって、映姫様もう閻魔様ですよ?
 勝手に救い出したら怒られますよ。閻魔王様あたりに」
「いえ、」映姫は自分の手に視線を落とす、かつて、救いと思って差し伸べ、けど、振り払われた手「醍醐帝、どうせまだ地獄の猛火に焼かれているでしょう。救罪と贖罪について、白黒はっきりつけてきます」
 ちょうど、と思い振り返る。そこには暖かな涙を零す白蓮。彼女の姿と、ひらひらと舞う蝶を思い。上機嫌に笑う。
「いい例があります。
 ふふ、彼女のことを伝えたら、あの偏屈な帝も少しは考えを改めるでしょう」
 上機嫌に笑って、地獄への道行きを歩み始めた。

//.幕間



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