//.開幕

「願わくは 花の下にて 春死なん ――――― ―――――」

 その光景はただ、ただひたすらに美しかった。
 満開の桜、――世界を埋め尽くすほどの桜。桜。桜。
 その、桜の大樹。――真っ赤に染まる。

「なぜ、人は死に急ぐのかしら?」

 真っ赤な、真っ赤な血を吸って、さらに咲き誇る桜の花。

「なぜ、人は自ら死のうとするのかしら?」

 ただ、見惚れていた。――ただ、魅入っていた。
 その、――圧倒的で、絶対的な、死に、

「なぜ、人は死のうとするのかしら?」

 死を願望に変える桜の花。
 死を現実に変える血の地。

 血の朱と桜の紅。――――望月が妖しく輝く。
 今宵、この世界において、死は忌避から願望へ容易に挿げ替えられる。
 その世界において、――蝶が舞う。

「ねえ、――――あなたには、わかる?」

 桜に血を捧げた屍から、蝶が舞う。
 蝶、――屍より舞い上がる死霊は、彼女の手によって空へと還る。
 その光景さえ、――――死にたくなるほど美しい。

 桜か、月か、蝶か、血か、――――この世界で最も死を願望へと変えるものは、……それは、

 姫は笑う。

「ねえ、――――人は、なぜ死のうとするのかしら?」


 そんな、幻を見た。


//.閉幕

「はい」
 呼びかけに振り返る。そして、その主を見て、
「頼政様、どうしましたか?」
「仕事だよ。
 さるお姫様を弘川寺に送ってほしい、との事だ」
「はあ、――護衛ですか?」
 問いに、上役である源頼政様は頭を掻きながら、
「とある公卿からの命だ。
 わしもよくわからんが、お前と同じ年くらいの娘らしい」
「公卿から」驚いた、――公卿といえば帝様に使える最高位の役職、なら「でしたら、私以外にも護衛を派遣するべきではないでしょうか?」
 位もない、頼政様配下の一武士である私に任せるのも、妙な気がする。
「それなんだがな」頼政様は無精ひげの生えた顎を撫でて「どうも、極秘で行いたいそうなのだ。公卿から私的な命、らしい」
「また曖昧ですね」
「うるさい。
 わしも書簡で受け取っただけなのだ。――ともかく、さっさと行ってこい」
「はいはい、了解しました。
 早太くらいは連れて行けませんか?」
 友人の名を聞いてみる、が、頼政様は首を横に振って、
「あいつは最近都にばらまかれた禿の動向を見ている。
 正直お前くらいしか頼りになるやつがいない。頼んだぞ」
「…………構いませんけど、頼政様。
 かぶらですよ? はげ、ではなく」
「あんな連中はげで十分だ」
 ふんっ、と面白くなさそうに頼政様は息をついた。

「それにしても、どうしたものか」
 向かう先は小さな庵。
 どうも、ここに件の娘は暮らしているらしい。
 ただ、――と、その庵の絵を見て思うのは、小さい、という率直な感想。
 小さな庵、暮らすことに不自由はなさそうだが、それでも公卿が目をつけるような女性が住むには小さいような気がする。あるいは、
「出家、か。
 それとも一目の縁か?」
 ただ、それだったらわざわざ寺に連れていく、というのも、
 弘川寺、――都からは離れた寺。――仮に公卿の縁者だとすれば都に呼べばいいことだし、見初めて、あるいは都の者から隠したいとすれば寺に預けるのもどうかと思う。
 結局よくわからない。まあ、
「ともかく、さっさと終わらせよう」
 基本的なことを声に出して言い聞かせる。今都は騒がしい、頼政様も体がいくつあっても足りないほどだ。その手足である自分がいつまでも空けるのはよくない。
 うん、と改めて頷いて馬を走らせる。

「ここ、…………か」
 絵は巧く出来ているらしい。小さい、というその印象をまったくそのままに、その庵はあった。
 十分に手入れされているし、大切に扱われているようだが、それでも古い印象はある。やはり、貴人がいるにふさわしい場所とは思えない。
「公卿の考えることは解らないな。
 まあ、一武士の私に解れ、というのも無理か」
 遠い世界の人間。――頼政様の配下ということで一応清涼殿へのある程度の出入りは許されていても、やはりそこにいる公卿は遠い。
 まあいいか、と私は戸をたたく。
「もし」
 聞こえなかったか? ともう一度。戸をたたく、と。
「…………はい」
 応じるか細い声。――この者か?
 声は少女のもの、年は私と同程度か?
 母と娘で暮らしている、と書いてあるから間違いないだろう。
「お初にお目にかかります。
 私は源頼政様配下の武士です。さる公卿より弘川寺へお連れするよう命を賜ってますが故、ご同行願えませんでしょうか?」
「公卿様、から?」
「はい、極秘の命故、名は明かせませぬが」
 いうと、す、と扉が開かれた。
「――――っ? あ、と」
「どうされましたか?」
「あ、……いや」
 いけない、と私は首を横に振って、改めてその娘を見る。
 簡素な青い衣をまとった、同年代程度の少女。
 儚い、その立ち姿からきた印象はまずそれだった。
 器量はいい。公卿が手元に置いておきたい、と率直に言ったらそのまま信じる程度には、
「それで、弘川寺へ?」
「はい」
 そう、と彼女は深く頷く。――なにか、縁でもあるのだろうか?
 考えるように沈黙する彼女の背から、彼女に似た女性――おそらくは母親――が現れて、
「行ってきなさい。
 ここは、心配しないで」
「……母様。…………わかりました」
 やはりそうか、彼女は庵を出て、私は母君に頭を下げる。
「確かに、娘様を弘川寺へお送りいたします。
 どうか、心配をしませぬよう、お願いします」
「ええ、娘を、どうかよろしくお願いします」
 彼女は、謹直に頭を下げた。深く、――とても、深く。

「私には、名前はありません」
 改めて名前を聞いてみたら、こんな言葉が返ってきた。
「名前がない、ですか?」
 馬の背に座る彼女に馬を引く私は思わず問い返す。
 姓はともかくだが、名前がないとは聞いたことがない。
 はい、と彼女は頷いて、
「父様に名前を無くすように言われました。
 まあ、不便でしょうから、私の事は富士見の娘、とお呼びください」
 …………いや、それはそれでなかなか難しいのですけど、
 とはいえ、話をするときなど何かと不便だし、と少し考え、すぐに面倒になって、
「では、娘様、とお呼びしても?」
「構いません」まあ、と小さく苦笑する声が聞こえ「御侍様に様、などと呼ばれるようなものではありませんが」
「私とて、今は頼政様に拾われ武士として仕えているとはいえ、もとは孤児。
 位など、ないも同然ですよ」
「あら」くすくす、と楽しそうな声で「なら、名前を呼び捨ててしまってもよろしいかしら?」
「ご随意に、娘様」
 上から聞こえてきた笑い声は楽しそうに響く。儚い、という印象とはまた違う声。
「では、御侍様。
 どうして私を弘川寺へ? なにも聞いていないのかしら?」
「はい、私の上役である頼政様も、なにも聞かされていないとおっしゃっておりました。
 火急で、ということで急ぎ出てきましたが、御不便があるようでしたらお申し付けください」
「必要ありませんわ。
 母様と二人、小さな庵で暮らしている間、生活に必要なことはすべて身につけました」
 それより、と私は改めて顔をあげて、
「娘様こそ、何かお心当たりはあるのではないでしょうか?」
「そうねえ。父様が、多少、そのお寺に縁があります」
「寺。……ということは、出家者、でしたか」
 出家し、僧として修業をする姿勢は素晴らしい、と思う。
 けど、置いてきた娘や妻がいる。はたして、それは本当に素晴らしいのか?
「その通りです。
 まあ、もう亡くなっていますが」
 それは、――
「失礼を」
「いえ、気にしません。
 もう昔の事です」
「そうですか」
「それに、貴方もなのでしょう?」
「そう、……かもしれません。
 といっても、私は両親の顔も知りません。頼政様に拾われ、そのまま親代わりです」
「あら、私も失礼なことを聞いちゃったかしら?」
「いえ、頼政様は素晴らしきお方です。
 その方に育てられたこと、誇りには思えますが恥ではありません」
「ふふ、素敵ね」
 声は楽しそうに響いた。

「もしっ、誰かおりませんかっ」
 弘川寺に到着。そこで声を上げても、返る声はない。
「誰もいなさそうかしら?」
「そのようですね」
 妙だな、と首をかしげる。
 公卿から命じられた世話役がいるものと思っていたのだけど、
 それに、住職さえいない。
「とにかく入りましょう。
 いつまでもこんなところで待ってはいられないわ」
「はい」
 無断で入るのも気が引けたけど、娘様をいつまでも屋外に出しておくわけにもいかない。
 あとで謝ろう。そう思って門に手をかけた。
 押し開く。――「桜?」
「そうね、咲いているものね」
「随分と桜があるようですね」
 奥、広がる山にも桜の白が見える。
「綺麗な、ところですね」
 思わず零れた言葉。新緑の緑に映える白は純粋に綺麗だ、と思った。
「そう、……ね」
 え?
 振り返る。――馬から降りた娘様は、寂しそうか、泣きそうか。……そんな顔をしていた。
「さ、行きましょう。
 誰かいてくれればいいのだけど」
「あ、はい」

「誰もいませんね」
「そう、みたいね」
 馬をつないで一通り回る。――けど、誰もいない。
「うーん、……御侍様、確かに私をここに送り届けるように、と言われたのよね?」
「はい。それは間違いありません」
 娘様は本坊の中へ。
「まあ、生活に必要なものはあるみたいだし、御侍様。
 とりあえず私はここで暮らしていていいのかしら?」
「それは、危険では? 娘様のような女性が一人とは」
「あら? 前も母様と二人で暮らしていたわ。
 結構大丈夫よ」
「そう、ですか。……よければ、一度都まで送りましょうか?
 寺に誰もいないことを話せば、護衛や世話役を見繕っていただけると思います」
「お忍びなのでしょう? 私が都に顔を出したら余計な混乱を招かないかしら」
 うっ。――確かに、そう、かもしれない。
 都には禿がばらまかれている。娘様を都に連れていくのは避けたい。
「でしたら、」
 ごう、と風が吹いた。
 向こうの山から打ち下ろされるような風。………………そして、
「娘様」刀を抜いて、あたりに視線を向ける「私から、離れませぬよう。お願いします」
「どうしたのかしら?」
 素直に私のすぐ後ろに来る。――問いの言葉に、不安はあるけど、震えはない。
 なら、と。
「先の風に、血の匂いが混じっていました」
「血の?」
「賊がいるかもしれません。
 娘様は、私から離れないように」
「さっきの風に、……なら、上に行きましょう」
 は?
「娘様、危険です」
「怪我人がいるかもしれません。
 貴方は、それを見捨てるの?」
「…………解っています。
 では、決して私から離れぬようお願いします。賊もいるかもしれません」
「ええ、頼りにしているわ」
 私は刀を抜いたまま、あたりを警戒して山道を歩き始める。
 娘様の歩幅に合わせれば歩みは遅くなるが、警戒しながら歩くのならちょうどいい。
「こっち?」
「はい」すん、と徐々に意識する必要もなく匂ってくる血の匂いを改めて確認し「間違いありません」
「解るものね」
「これでも、武士ですから」
 当たり前と、ほとんど意識せず答えた言葉に、ふと、声が返る。
「貴方は、人を殺したことは、ある?」
「あります」
「なぜか、聞いていいかしら?」
「生きるためです」
 即答に迷いはなかった。
 戦場に出た、源頼光の子孫である頼政様と共に魑魅魍魎を退治したこともあった。
 そのどれもが、自分が生きるためだと、私は思っている。
 そう、――と声。そして、
「娘様っ」
 とん、と軽い足取りで娘様が駆け出す。
 私は慌てて追いかける。山道を抜けた先、開けた場所。そこに、

 真っ赤。

「あ、――――」
 たぶん、ここの住職。――だと、思う。
 僧衣を来た壮年の男性。その手には、肉厚の刃。
 僧衣は、もう、誰も着られない。
 その、首から溢れた、真っ赤な血に染まってる。
 真っ赤な血の池に伏す誰かの背に、桜の花。
 血の池に咲く、桜の大樹。

「桜の花は、血を吸って紅に染まるの」

 ひらり、咲いた桜からこぼれた花弁は、白い。
 純白の花弁は、雪のように、ひらり、はらり、ひらり、はらり、舞い散る。

「桜の木の下には、屍体が眠っている」

 だから、――桜の花びらは紅いの。
 なら、この桜はなぜ、白い花を咲かせるのだろう。それは、まだ誰も眠っていないから?
 なら、この桜はこれから、紅の花を咲かせるのだろうか?

 娘様は、寂しそうにつぶやいた。

「ねえ、…………なぜ、人は自ら死のうとするのかしら?」

「ただ今戻りました。頼政様」
「ん、思ったより早かったな。
 大過は?」
「弘川寺の住職が亡くなっていました」
 やる気なさそうな問いに、私は率直に応じる。ここで、頼政様の瞳が据わった。
「賊か?」
「いえ、どうも自刃の様です。
 血まみれの短刀を握っていました」
「自刃、――――か」
「はい、それで、弘川寺には娘様一人しかいません。
 一人でも生活は出来るようですが、出来れば誰か面倒を見る人を派遣したほうがいいかと思います」
「それもそうだな。娘っ子一人は危ないかもしれんし、住職が自刃した様な場所だ。
 何かあるかもしれん。上に掛け合ってみる。お前は家にいろ」
「はい」

 そして、私は家に戻る。頼政様に友人と共にあてがわれた家。
 しばらくの待機か、と思っているとそこにはすでに同居人がいた。
「戻ったのか」
「早太」
 刀の手入れをしている友人の早太。
 彼は刀を矯めつ眇めつ眺めて、一つ頷く。
「ああ、そっちは?」
「なかなか、禿も傍若無人というか。
 子どもならではだな、ああいうのは」
「そうか」
「で、そっちの仕事は?」早太は不機嫌そうな表情から一転にやりと笑い「若い娘の護衛、だったそうじゃないか?」
「頼政様、余計なことを」
 はあ、とため息。そして、
「ああ、そうだよ」
「…………つまらん、その様子だと面白い関係にはならんかったか」
「下種の勘繰り、だ」
「ま、それもそうだな。
 で、その娘、名はなんていうんだ?」
「さあ、名前は、剥奪されたらしい」
「剥奪?」
「元々の名前があったそうだがな。
 富士見の娘、と名乗ったよ」
「なんだそれは?」
 呆れた様子の早太。私はため息をついて、
「しょうがないから娘様、と呼んでいた。
 流石に富士見なんて呼びにくいからな」
「違いない。護衛で、連れて行って終わりか?」
「まあ」あの、桜の下の屍体と、それを横にたたずむ娘様の姿を一瞬思い浮かべて「な。それで、そちらは、なにもないか?」
「僧兵どもの強訴やら、街道で妖物に遭遇したとか、…………まあ、いつも通りだ」
「いやないつも通りになったものだな」
 思わずぼやく、早太は違いない、と苦笑した。

 早太は仕事が残っている、とどこかに行ってしまい。私は庭で刀を振るう。
 刀が風を切る音に混じり、ふと考えるのは、娘様の事。
 人を殺したことがあるのか、か。
 私は武士だ。そして、武士であるのなら、その手で人を殺めたことがない者のほうが少ないだろう。
 戦場はまさしく殺し合いの場だ。そこにいる、ということは人を殺すことなど、当たり前である。
 それだけではない。京は荒れている。民さえ、生きるためには人を殺す。
 そして、私の生まれた里。……貧しい村は、ただそれだけで餓死、という死が待っている。
 殺し殺される日常。その中で、自ら死んだ住職と、殺したことがあるのか、そう問うた少女。
 そして、――「いかんな」
 とん、と切っ先を地面に触れさせる。
 雑念がある、と首を横に振る。
「結局、何なんだろうな」
 住職が自刃、か。弘川寺には誰もいないようだったが、娘様一人残したのは早計だったかもしれないな。
 はあ、とため息。私は刀を納めて庭を走り始める。
 雑念をもったまま刀を振るっても仕方ない。それならこっちのほうがいい。

「相変わらず、熱心だな。
 少しは休め、仕事が終わった後くらい」
「あ、と」とんとん、と足を止めて「頼政様」
 頼政様は一つ頷いて、す、と。
「泰親様も」
 うむ、と陰陽の頭。安倍泰親様は頷く。
「どうされましたか?」
「なに、茶だ。久しぶりに時間が取れたのでな」
「お疲れ様です」
 いうと、うむ、と泰親様は頷く。
 頼政様はそれと、と私を見て、
「例の、娘の件だが、しばらくお前が護衛だ」
「私が、ですか?」
 ああ、と面白くもなさそうに頷く。
「どうも本気で内密にしたいらしいな。
 知っているものは少ないほうがいい、ということだろう」
「そんなに特別な方には見えませんでしたが」
「公卿の趣味など持ち出せばきりがないだろ」泰親様は興味なさそうに手を振って「いろいろいるぞ。知りたいか?」
「いえ、あまり」
 陰陽の頭として公卿やその親族から様々な依頼を持ち込まれる泰親様。公卿の考えていることは私よりも詳しいだろう。
 興味はないけど、
「それと、依頼主だが、調べはついだぞ」
「…………頼政様。あまり無茶をしないでください」
 ただでさえ、源、の姓をもつが故睨まれることも多いお方だ。
 むぅ、と口をへの字に曲げて、
「そういうな。
 とはいえ、そう後ろ暗い方ではないのだが、――佐藤中納言範清。だ。何か知っているか?」
「いえ、名前くらいです。――ああ、そういえば、武芸にも秀でており非常に勇猛果敢。――という噂ですが」
「噂であろう」頼政様はひらひらと手を振って「公卿が戦場に立つとは思えん。戦場を知らぬくせに武勲を誇ろうとする奴はそういう根も葉もない噂を自ら流すんだ。お前はそんな滑稽な奴になるなよ」
「頼政よりはましになれよ」
「うるさい」
 小突きあう頼政様と泰親様。私はその様子を眺めてぽつりと、
「私には武勲はあまり」
 どうしたものか、あまり興味はない。
 と、言葉を濁す私に頼政様は苦笑。
「そうだな。
 お前はもっと貪欲になれ、剣の腕はよいのだ。わしを超えるよう鍛錬してみろ」
「……お言葉だけいただきます」
 頼政様を超えるなど、とまた言葉を濁すと殴られた。
「そういえば、お前が護衛したものだが、名はなんというのだ?」
「わかりません。どうも、父君に名を剥奪されたとか。
 富士見の娘、と名乗りましたが」
「なんだそれはっ? なら、お前はなんと呼んでいるのだ?
 会うたびに富士見の娘、か?」
 笑いながら問う頼政様に私は肩をすくめて、
「まさか、娘様、と呼ばせていただいています」
「なんだつまらん」
 まったく、早太もそうだが、妙なところに娯楽を見出さないでほしい。
「剥奪、……か」
「泰親様?」
 一人思案する泰親様、なに、と顔を上げて、
「名はその存在そのものを現す。
 私たち陰陽師からすれば大切なものだ。なのに、なぜ剥奪したのだ?
 それに、富士見の娘、など名ともいえぬような名を与えた?」
「富士見ねえ。……霊峰の名か? 風雅なことだ」
「不死の身。かもしれないな。
 大病を患い死にかけた娘に、今までの病に穢れた名を忘れさせ、代わりに死なないように、と願をかけたかもしれぬ」
「そうは見えませんでしたが」なら、と私は一息「病は完治したのでしょうか?」
「会ってみないと何とも言えん。
 会えぬのだろう?」
「はい」
「おいおい、治ったならまた名前つけてやればいいんじゃないのか?」
 頼政様が眉根を寄せる。確かに、それも一理ある、が。
「父君は、もう亡くなっているそうです」
「第一、富士見の名を消したらまた病が戻るかも知れぬ。
 あるいは呪いかもしれぬが」
「呪いですか?」
 頼政様が眉根を寄せる。どうも、そう言うのに嫌悪感があるらしい。――まあ、呪い、と聞いて喜ぶ者などいないが。
「名に向けて呪いをかけ、掛けられた対象は名を捨てて回避する。
 そして、不死の名を与えれば……流石に不死には出来ぬだろうが、それでも名に守られて死の危険は減るだろう」
 もっとも、と泰親様は肩をすくめ、
「会ってみねばその辺も何とも言えぬな。
 馬鹿な貴族など理解不能な名を子供に与えるということもよくあるし、一応その娘には気を配ってやれ」
「はい」
 ふと、頼政様は、どうでもよさそうに私を見て、
「呪いが効かぬのなら、もしかしたら、術者が直接来るかもしれんな。
 そしたら殺せ」
「はい」
 頷く私に泰親様が苦笑し、
「過激だな、それが貴族ならどうするのだ?」
「なに、死体になれば何だって変わらんだろ」
「どちらにせよ、公卿より護衛の命を賜ったのなら、その命はこなします」
 ふと、頼政様はそういえば、と呟いて、
「あるいは尽きず、という意味で富士かもしれぬな。
 確か、不尽の字が充てられた山でもある。……らしいし」
「なにが尽きないのだ、なにが?」
「……うーむ?」
 首をひねる頼政様と、少しは考えろ馬鹿、と泰親様。
 喧嘩を始めたがままに見る光景なので、私は二人に一礼だけして家を出た。

「さて、どうしたものか」
 頼政様に言われ、一人では危ないと思い私は馬をいそがせる。
 目指すは弘川寺。……大丈夫だとは思うが、
 それにしても、世話役などはいないらしい。護衛として私が一人派遣される程度。
 公卿が直々に指定した貴人――あまりそうは見えないけど――にそれでいいのか? とは思うのだが、
「まったく、いつまでいればいいのか」
 面倒なことにならなければ、と思うと同時に、護衛、という仕事はどうも気が進まない、とも思う。
 どうせなら、頼政様や早太と一緒に都を駆け回っていたほうがいい。
「やむを得ないのだろうがな」



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