それは、風だった。
草原を駆ける、一陣の風。
主の望むままにそのスピードを如何なく発揮し、目的地へと失踪する。
旅する者がその姿を見ても、ただ黒い影だとしか認識できないだろう。そんな規格外の馬に跨ったルナは、地獄の鬼もかくやという凄絶な笑みを浮かべている。
「はっはぁっ! ラ〜イ〜ル〜〜! すぐに追いついてギャフンと言わせてやるから覚悟しなさい!」
もはや、彼女の頭の中には、ライルをぶちのめすことしかない。今更だが、この少女は人として大切ななにかを失っているのではないだろうか。
「さぁ、駆けろ豪雷号! その名のごとく!」
その言葉を受け、豪雷号は更にスピードを上げる。
馬なりに、自分はどこに向かっているんだろう、と思わないでもなかったが、自らが主と定めた少女の命令だ。否応もない。
その命令を発しているルナ自身、自分がどちらに向かっているのかわかってはいない。しかし、『なんとなく、ライルっぽい方向』に向かっている。
……直線状に、ライルが世話になっているイレーナの住居があることは言うまでもない。
第140話「鬼ごっこ ―失言―」
「……実家は、ローラント王国の貴族なんです」
イレーナは、朝食後、ぼそぼそと自分の身の上話を語り始めていた。
ヴァルハラ学園、というのが一つのキーワードになったのか、彼女の心の堤防が決壊したらしい。朝食を食べた後、ひとしきり泣いた後、自らシルフィに話を切り出した。
無論、イレーナにとってつらい記憶なのだろうが……誰かに聞いてもらいたい、という気持ちもあったのだろう。
シルフィは、そういうイレーナの気持ちを感じ取り、珍しく大人しくして聞き役に徹していた。
ちなみに、シルフィがライルも同席する事を主張したので、ライルも座って聞いている。ただ、イレーナの意識からは完全にハブられているが。
「それなりに力のある家らしくて、兄弟も沢山いました。ただ、生まれつき少し体の弱かった私は、前にも言ったとおり、家の中では厄介者としてしか見られていませんでした」
話を聞くだけでは、貴族モノの小説などで有り触れた設定のように聞こえる。
しかし、イレーナ当人からすれば、有り触れた、で片付けられる話ではないのだろう。その時の事を思い出してか、唇を噛み締めていることからも、どれだけつらかったのかがわかる。
「……でも、とある貴族の方から縁談の話を持ち込まれまして。先方は、うちと比べてもずっと力が強い家柄らしくて、そこと血縁を結べる事を両親はとても喜んでくれました。お陰で、家での扱いも良くなって……それに、政略結婚とは言え、相手の方はとても裏表のない人で、人間嫌いだった私もいつの間にか好きになっていました」
一気に語るイレーナ。
その時の事を思い出しているのか少し顔が上気している。
イレーナの男嫌いを知っているライルは、その相手ってのはよっぽどいい人なんだろうなぁ、と思った。
「その話が出た時、相手の方はヴァルハラ学園の入学を控えていましたから、とりあえず婚約、という形で話は進んだんですが……」
「あぁ、そこでヴァルハラ学園に繋がるわけね」
そして、その相手というのは、すでに亡くなってしまったのだろう。ヴァルハラ学園に知り合いが『いました』という彼女の口ぶりからしてもそれは明らかだ。
何時ごろの先輩なのかは知らないが、こんな美人の婚約者を残して逝ってしまうなんて……と、ライルは見知らぬその人物に、哀悼と、ほんの少しの怒りを覚えた。
「……それが、今から二年半ほど昔の話になります」
そこで、ライルは、ん? と首をかしげた。
「そして、彼はヴァルハラ学園に入学しました。そして、そして……」
なにやら、イレーナが悲しみを怒りをないまぜにした、なんともいえない表情になる。どちらかと言うと、二:八で怒りのほうが大きい。
なぜ? 婚約者がなくなったのなら、悲しみが百パーセントではないのか。もしや、婚約者は何者かに殺害されて、その犯人への怒りを燃やしているのか?
いやしかし。計算してみるまでもなく、今から二年半前にヴァルハラ学園入学を控えているとなれば、その人物は本来ならばライルの同級生である。しかし、同級生に、そんな悲劇を迎えた者がいたなどという話は、寡聞にして聞いたことがない。
なにやら、嫌な予感がする。ここまでのシリアスな話に、とんでもないオチがつきそうな予感。そしてそれは、今まで外れたことがない。
案の定、イレーナはキッ、と眦を吊り上げて、
「その人は! いきなり! 一方的に! 婚約を破棄してきたんです!!」
そんなワケノワカラナイことを言った。
『はい?』
ライルとシルフィの言葉が重なる。
「しかも、それから私に一度も会いにくることもなく、手紙で伝えてきただけですよ。『私は運命の人に巡り合ってしまった。イレーナ、君には申し訳ないとは思うが、婚約を破棄させて欲しい』なんて、納得いきません。それ見た夜は、一晩中泣きはらしましたよ」
イレーナの瞳には、涙が滲み出ている。よっぽど悲しかったんだろう。
その気持ちには共感できないでもないが、シルフィには問い質さなければならないことがある。
「つ、つまり。その人って、まだ生きて、しかもヴァルハラ学園にいる?」
「当たり前じゃないですか。あの人はそんな簡単には死にませんよ」
「……さっき、知り合いいるのって聞いたら、いました……って過去形で」
「あんな人、もう知り合いでも何でもありません。もう絶対に人間――特に男の人は信じないって、その時決めたんです。同時に、家も飛び出すって決心しました。決行は、なんだかんだで遅れちゃいましたけど……」
やられた。
つまり、これがシルフィの言っていた『くだらないオチ』なんだろう。確かに、イレーナにとってはどうか知らないが、ライルにとってはイマイチ真剣になり難い話である。
「そ、その人も酷いねぇ。婚約者がいるのに、他の女の人に目移りするなんて」
しかし、ここまで聞いた手前、無反応というのもあれだ。
シルフィは、適当に同情する台詞を吐いた。
そこで、さっきまで興奮して語っていたイレーナは落ち着きを取り戻し、ふぅ、とため息をついた。
「ええ、本当に酷い人。グレイさんは、どうせ今も、『運命の人』とやらの尻を追っているんでしょうね……」
キラリと光る涙。それを拭ってぼそりと呟くイレーナに、ライルは顔を引きつらせて頭を抱えた。
「……ちょっと考える時間をもらいたいんだけど」
「あげません。貴方にあげる時間なんて、私には一秒だってないんです」
相変わらず、ライルにはキツイ。しかし、ライルはどうしても突っ込んでおかなければならない箇所があった。
「グレイ……って、もしかして、グレイ・ハルフォードの、こと?」
「……なんで知っているんですか?」
驚きの顔になるイレーナ。
勘弁してくれ、とライルはテーブルに頭をぶつけるのだった。
「誰?」
そうライルに尋ねたのはシルフィだ。
「あのね、シルフィ。お前も、何べんも会ってるだろ。ほら、ルナに惚れている、危篤な貴族だよ」
ちなみに、誤字ではない。あのルナに惚れるなんて、重病にもほどがある。
「……あ〜、そういえば、そんなのもいたわね」
ぽん、とシルフィは手を叩いた。
思い込んだら一直線。ルナは嫌がっているにもかかわらず『はっはっは、ルナさんは照れ屋さんですね』などと全く意に介さずモーションをかけまくる迷惑男。イレーナは裏表がない人、と称したが、確かにそれは正しい。裏なんて持てないほどの馬鹿だと解することもできるが。
「ライルさん、貴方、グレイさんと知り合いなんですか……?」
イレーナが、真剣な表情で問いかけてくる。
イレーナから話しかけてくるのは珍しいので、ライルは少々たじろぎながらも頷いた。
「う、うん。同級生……っていうか、クラスメイト」
「すっごい偶然よねぇ〜」
からからと笑うシルフィ。彼女は、既にこの話を、笑い話だと思うことにしたようだ。
「そ、それでは。グレイさんの『運命の人』とやらも知っているんですか?」
「うん。アイツがどの辺に運命を感じたのかは知らないけれど、惚れている相手なら、嫌って言うほど知っている。幼馴染だし、ねぇ……」
ルナを幼馴染に持ったことが、ライルの最初の不幸である。それを皮切りに、まるでドミノ倒しのごとく様々な不幸を連鎖させているのだから、それを愉快に語れるわけがない。
「どういう人か、教えてください。私が、捨てられた原因なんですから、知る権利があると思います」
「話すのはいいけど……あんまり知らないほうがいい気もするよ?」
「構いません」
ぐぐぐ、とライルに顔を迫らせるイレーナ。吐息がかかるほどの距離に、ライルは顔を真っ赤にして視線を逸らす。はっきり言って、こんな至近距離はライルにとっては守備範囲外も甚だしい。
「こほん。じゃあ、話すよ」
咳払いをして、ルナの事を説明するべく、彼女の事を思い出す。
沸々となにやら黒い衝動が沸きあがってきた。その衝動に逆らう理由も見つからず、そのまま口を滑らせる。
「まぁ〜、ルナの事を一言で表すと、『魔法馬鹿』かな。凄い才能を持った魔法使いではあるんだけど、その才能を百八十度どころか三週位してからさらに百八十度別ベクトルに突っ走らせていてね。事あるごとに魔法をぶっ放して周囲――主に僕とか、アレンなんだけど――に迷惑をかけまくってて、別名ヴァルハラ学園の蒼い悪魔なんて異名を誇ってる(髪が青いから)。まぁ、ナントカに刃物を持たせちゃいけないっていう典型的な例かな。見た目は可愛いと言えなくはないかもしれないけど、とりあえず一回でも話したら恋人にする気とは間違いなく失せるね。ヴァルハラ学園で今でも懲りずにちょっかいかけてんのは、グレイくらいなもんで、僕なんかは頼まれても口説いたりはしたくないなぁ。性格はキツイの一言なんだけど、の割にやけに純情なトコもあったりして、そこが笑えると言うか滑稽というか……あ〜、シルフィ、ここで話したこと、ルナには内緒にしててくれよ?」
ここぞとばかりにライルはルナの悪口を言いまくる。妙に爽やかな顔になっているのは気のせいではなかろう。
「あ〜、黙ってるのは構わないけど、ねぇマスター」
「ん〜、なんだ? まだまだまだまだまだ言い足りないんだ。急ぎじゃなかったら後にしてくれ。でさぁ、魔法の話に戻すけど、魔法研究に関しては全く妥協しないというか、研究に関しては倫理とか法とか紙くずほどの価値も持たないとか思ってる節があってね。禁書の類を盗み出すことなんか、日常茶飯事だし……」
「マスター、マスター」
ちょん、ちょん、とシルフィはライルの肩をつつく。
「なんだよ、うるさいなぁ。お前も、ルナに言いたいことの一つや二つや百くらいあるだろ? 折角ルナと分かれてるんだからここでぶちまけたら……」
シルフィの方――ちなみに、その向こうには玄関がある――を見たライルは、文字通り石化した。まるで全ての細胞が生きる事を放棄したかのように凝固し、一切の活動を停止する。
「ラ〜イ〜ル〜? なんか、面白そうな話をしているじゃない? 続きを聞かせてよ」
「るるるるるるるるる、ルナ!! な、なんでここに!? 冒頭ではまだ豪雷号の背中に乗ってたじゃないか!! そんな僅かな時間で……」
「甘いわねライル! 読み返してみればわかるけど、あの森からこの家まではそう大した距離はないのよ! なんせ私の究極破壊魔法を喰らったアンタが休まないで辿り着ける距離しかないんだからね!」
なにやらメタな会話をする二人。
置いてけぼりなイレーナは、新たなる闖入者とライルの言い合いをおろおろと見ている。
「あ、あのシルフィさん。も、もしかして」
「ええ、あれがルナよ。……さて、逃げましょうか。さっきのマスターの説明、聞いていたでしょ? 残念だけど、この家は諦めた方がいいわ」
シルフィは、イレーナを引っ張って家の外に行く。
途中、ルナとすれ違うことになるが、今はライルしか目に入っていないらしく、見咎められることはなかった。
「さぁて、ライル。誰が、魔法馬鹿で、学園の蒼い悪魔で、滑稽なんだって?」
「ひぃぃぃぃぃ!!!? ほ、ほぼ最初から聞いてたの!?」
「魔法馬鹿の辺りからだけどね。でも、その前から私の悪口を言っていたんでしょう?」
「ご、誤解! そこが最初!」
「いやぁね。そんな、都合よく話の最初に到着するわけないじゃない」
「いやいやいやいや! この話のご都合主義を舐めすぎたよ! 誓って、そこが話の始まりでした!!」
「……まぁ、どっちにしろ、万死に値するのは変わりないけどね」
……その後、どうなったかは。あえて説明するまでもないだろう。
残ったのは、イレーナの家“だった”ものだけだった。