時刻は八時十分ほど前。

天城学園、校門に、真希とクリフの姿があった。

「……で、どうすんだよ。俺は嫌だぞ。綾音ちゃんの美味い飯が食えなくなるのは。あれがあるおかげで、他の人間の血を吸うの我慢してやってんだからな」

「そんなの、僕だって嫌だ。その……ジークだったか。その人の目的は?」

「俺の身柄。まあ、理由が理由だから、説明しづらいんだが、あんまり穏やかな手を使ってくるとは思えないな。そうとう無茶してくると思ってくれていい」

真希は腰に携えた刀の感触を確かめると、校舎のすぐ前に立っている人影をにらみつけた。

「望むところだ。僕も穏やかに済ませる気はない」

「おお怖」

クリフは、肩をすくめた。

「……久しぶりだな。クリフ・フェリエール」

人影が話しかけてくる。真希の第一印象は、実直な紳士、といったところか。予想よりは話が通じそうな相手だが、真希には綾音を人質にとられた時点でそんなことする気は吹っ飛んでいる。

「さっそく本題に入ろうか。お前の恋人は預かっている。私も極力普通の人間を傷つけたくはない。で、だ。おとなしく投降しろ。そうしたら、彼女は無傷で解放する事を約束する。無論、いくらか記憶は弄らせてもらうが」

「……おっさん。長く生きすぎて頭ボケてきたか? そんな提案、受け入れられるとでも? 大体、綾音ちゃんを解放するという保障がどこにある。悪いが、あんたは信用できないな」

敵意丸出しの視線を送り、クリフは吐き捨てた。

「やれやれ、嫌われたものだ。そちらの、お前の従者など今にも飛び掛らんばかりだな」

「……綾音はどこだ?」

静かな声で真希が告げる。学校の連中が聞いたら、絶対に引いてしまうくらいの冷たい声だった。刀の柄に手をかけ、前傾姿勢。真希とジークの距離は約五m。真希なら一足飛びで斬りかかれる距離だ。

「ふむ……。問答無用で襲い掛かられるのもごめんだ。上を見ろ」

その言葉に従い、ジークへの警戒を解かずにちらりと上に視線をやる。

「なっ!?」

綾音がいた。第二校舎の屋上。その縁に。天城学園の屋上にはフェンスが有るが、その向こう側。少し前に出るだけで、そのまま真っ逆さまに落ちる位置。あの高さ、下手をしなくても即死。運が良くてもしばらく病院で動けなるだろう。

「精神支配だけだが、一応彼女は私の下僕、ということになっている。私が命じるだけで、あの少女はためらいなく一歩踏み出すだろう。……私としても、あのような娘が血まみれになる姿を見たいわけではない。大人しくついてきてもらおうか、クリフ」

ぎりっ、と二人は歯を食いしばる。あの状況。たとえ、目の前の吸血鬼を倒して綾音が正気に戻ったとしても、あんなところに立っていてはそのまま墜落するかもしれない。それも折り込み済みだろう、この老獪な吸血鬼は。

「と言っても、お前がじっとしているとも思えん。こいつを飲んで貰おうか」

と、ジークはなにかの粒のような物を二つ投げた。一直線に顔に向かってくるそれを、クリフは手で受け止める。

「これは?」

「対吸血器用捕縛薬品。商品名『聖薬』。簡単に言うと、そいつを飲んだ吸血鬼は力の一切合財を奪われ、蝙蝠の姿になる」

クリフの声に答えたのは真希。退魔士が使用する道具のカタログで見かけた事が有る。

主成分は聖水。その他諸々の薬品を調合し、絶大な効果が。これでAランク妖魔の吸血鬼も楽勝よ! とか、そんなキャッチコピーが頭をかけめぐる。吸血鬼は狼や蝙蝠の姿に変身する事もできると言う話はみんなも知ってるよね。その蝙蝠の姿に固定させ、護送もらっくらく! これであなたも一流のヴァンパイアハンター!

んなもん、どうやって飲ませるんだよ、と思いさっさと購入は見送ったが、まさかこんな風に使ってくるとは。

「真祖クラスには効かないと思ったけど。二個あれば、それなりに効果はあるだろうな」

「……ってか、あのオヤジ。どこでこんなもん入手したんだか」

「僕が知るか」

不敵にこちらを見据えるジークを一睨みして、クリフは諦めたように肩をすくめると、

「ま、しゃあないか。おい、おっさん。俺がこれ飲んだら綾音ちゃんは解放しろよ」

「承知」

「ったく。……おい、真希。俺はお前を信じてるからな。俺の主人なら、ちゃんと守ってくれよ」

言い、あっさりと聖薬を口に含む。

途端に変化は始まった。クリフは苦しそうに呻き、その身に纏う魔力がどんどん減衰して行く。同時に、身体の変化も始まり、ベキベキと肉、骨が変化していく音が辺りに響く。

しばらくして、その場にいたのは、無力な蝙蝠の姿だった。

「……これで満足か? さっさと綾音をあそこから離れさせろ」

「それは出来ん相談だ。悪いが、私がそいつを連れてこの場を遠く離れるまで、彼女には人質になっていて貰わねばな」

「それでは約束が違う。クリフがあの薬を飲んだら、と言う話じゃなかったか?」

「私はお前の力を過小評価していない。道場をそれとなく監視して、お前の力量はわかっている。それに、クリフのやつがお前が主人と言っていたな。真祖を使い魔にする程の退魔士を相手にするなどという愚策は犯さんよ」

使い魔と言っても、経緯が経緯だからそう自慢になることでもない……のだが、そんなこと言っても納得してくれるかどうかは甚だ疑問だったので口に出すことはしない。

「さあ、とりあえず、クリフを連れてきてもらおうか」

なにも、できない。

その悔しさに顔を歪めつつ、地面に倒れている蝙蝠形態のクリフを摘み、ゆっくりと……

「そこで投げろ」

投げろ、と来た。見ると、真希の立ち位置は刀の間合いぎりぎり。よくもまあ、こんな事まで知っている。

(ごめん、クリフ)

心の中で謝りつつ、投げ渡そうと……

「美月くん!」

声が聞こえた。

その方角を見てみると、いつの間にか、屋上にいる綾音が誰かに抱きかかえられている。

「やっちゃえ!」

声の主は、親指を下に向けるジェスチャーをしている。……言われるまでもなかった。

「はっ!」

思いっきり踏み込み、抜き打ち。若干顔を歪めつつ、後ろに飛ぶ吸血鬼をそのまま追う。

クリフはポケットに突っ込んでおいた。

「らあ!」

休む暇もなく攻め続ける。……ガチンコでぶつかっても勝ち目がないと言うのは最初からわかっている。今は不意をつけているおかげで、なんとか有利に進めているが、仕切りなおされたらおしまいだ。

しかし、

(間に合って良かった……)

どうも、例のここへの呼び出しの手紙によると葵の存在は無視されているっぽいので、彼女には救出部隊になってもらった。綾音が人質にとられた時点であの程度の脅しは予想していたからだ。ジークに気付かれないよう、校舎に入って綾音を確保。難しい仕事だが、葵はやってのけた。

ただ、誤算と言えば、クリフが動けなくさせられてしまったことだろう。本来なら、こんな事態になる前に綾音を救出。クリフと二人がかりで小突き回すと言う作戦だったのだが。あそこであれ以上しぶると、あっちがどうでるかわからなかったので仕方ない。

(仕切りなおし、だな)

そう判断する。このまま攻め続けても勝ち目は薄い。

「神楽さん! 校舎の中に!」

「え、あ……わかった!」

葵が綾音を引っ張って屋上から撤退する。それを見計らって、一旦後ろに引き、刀……『桜月』を構えなおした。

「なにを……」

「蒼月破!」

ジークの言葉を遮るように、技を発動。いつぞやの小太刀を使ったものとは威力、規模も段違い。蒼色の霊力が地面ごと目の前の吸血鬼を薙ぎ払っていく。

それを脇目に見つつ、真希も校舎に突っ込んで行った。

 

 

真希が突入したのは第一校舎。一年生が主に使う校舎で、真希とはあまり馴染みがない。

二階の適当な教室に飛び込んで、追撃のないのを確認すると、真希は慎重にポケットから携帯電話を取り出した。

「もしもし? 神楽さん」

『あ、美月くん。そっちはどう? あの吸血鬼が追っかけて来たりしてない?』

「ああ、平気。マキビシとか地雷符とかばら撒いて置いたから、あいつ慎重に進んでる。三分くらいは時間が稼げそうだ。……やっぱりというか、そっちには目もくれないしね」

葵は現在、霊力を断っている。おかげで、葵の位置は向こうにはわからないし、目下、相手の支配下にある綾音にしても、

「綾音、どんな感じ?」

『ぼーっとしているけど、意識はあるのやらないのやら……。一応、手を引いたら歩いたけど』

まだ一回だけの吸血。おまけに、吸血鬼化もせず精神のみの支配。当然の如く、それほど強い繫がりではない。あとはちょっとした結界で位置をごまかせば、どうにもならないだろう。

つまり、現在ジークが掴めているのは真希の位置だけである。そして、彼の最終目的は真希のポケットの中で目をまわしているクリフ。こちらを追いかけてくるかどうかは、それでも半信半疑だったがどうやらちゃんとこっちに来てくれたらしい。

「さてと。それでどうしようか。クリフがこうなっちゃったら、正直しんどい。いっそ逃げたいけど、そこまで都合よくはいかないだろうし」

『私が加勢しようか?』

「それは無駄。むしろ足手まとい。そもそも、じっとしてないと神楽さんの腕じゃ霊力を完全に断つなんてできるわけがないから、奇襲にもならない」

『うわ、ひどっ。そこまで言わなくても』

「厳然たる事実だ。……そうだな。今どこにいる?」

『三階、図書室。言われたとおり隠行結界敷いてじっとしてるけど』

「そこから、二階の教室見える?」

『見えるけど……あ、美月くん発見』

しばらく考え込み、真希はうんっ、と顔を上げた。

「神楽さん。僕があいつ引き付けておくから、そこから神楽さんの最大出力の術、撃って」

『へ?』

「神薙椿の弟子だったんでしょ。神薙の術、一つくらい教えて貰ってない?」

『ひ、一つだけ……。でも、ちゃんと使えるかどうか……』

「神楽さん、技量はへっぽこだけど霊力量だけならいっぱしの退魔士だから。自信持って。準備だけしといて、合図したら撃って」

『……それ、褒めてるの?』

「当然。……って、来た。じゃ、よろしく」

ぴっ、と携帯の通話ボタンを切る。ほぼ同時に、教室内にジークが押し入ってきた。

手近な椅子を投げつける。

「……乱暴だな」

「人質とるような人に言われたくない」

「ふむ。むしろ感謝して欲しいくらいだ。あちらの方を追いかけてもよかったのだぞ。わざわざ、リスクの高い方に来てやったのに、そんな言い方はないだろう」

そんなの百も承知。冷静に考えれば、もう一度人質を確保するほうが安全だ。……だが、本当はそういった手を好まない、というのもクリフから聞いている。そして、前述のように位置をこれ見よがしに見せ付けておけば、こちらを追いかけてくると思っていた、

「それはどうも、失礼しまし……た!」

懐から幾枚かの符を投げつける。半分は炎に包まれ、もう半分は帯電している。

符というのは、一種の爆弾みたいなものだ。内部に貯蔵された霊力を、書かれている文字に従って走らせ、効果を得る。戦士タイプの退魔士が使う術の代わりのようなものだ。必ず一定の効果を得られる分、けっこう値は張る。

真希の現状装備は伝承刀『桜月』と何十枚かの符のみ。そのすべてを使い切るつもりで、真希はジークに踊りかかる。

(これで……今月も赤字だな……)

と、心の涙を拭いながら。