火、木が活動日の家庭科部の活動を終えた帰り道。桜庭綾音は憤慨していた。理由は二つほどある。
一つ。彼女の幼馴染かつ、婚約者(本人談)であるところの真希が、あろうことか他の女性とヨロシクやっているのだ。これも男の甲斐性、とかいうたわけた言い分を一万歩譲って認めるとしても、それをこそこそ隠そうとする根性が気に食わない。浮気相手である神楽葵という先輩も、正妻(違)たる自分に挨拶の一つもしないのはどういうことか。
色々な意味で間違っている思考だが、彼女的にはこれでオッケーなのである。まあ、一人会議なので、突っ込んでくれる人がいないから、仕方ない。
そして、二つ目。これは、憤慨とはちょっと違う。戸惑い、というのが正しい。
ちらり、と後ろを見てみる。
電柱に隠れて、黒い影がこちらを見ている。隠れているつもりらしいが、どう考えても、それなりの体格をしている男性が電柱に隠れるというのは無茶と言うしかないだろう。通りがかった親子連れが『ママあれなーに?』『しっ。見ちゃいけません』とかいうありきたりなやりとりをしていたり。
いや、別にそれはあの人の自由なのである。問題は、ここ数日、放課後になるとなぜかあの黒ずくめの男が、自分の後をつけているということだ。
これが世に言う『すとーかー』だろうか。
あまりテレビなどを見るほうではない綾音は首をひねる。彼女の乏しい知識によれば、ストーカーと言えば、ターゲットのプロフィールをなにからなにまで調べつくし、無言電話をかけまくり、最後には家に押し入って乱暴の限りを尽くす人物である。
そこまでを確認し、うん、と一つ頷くと、もう一度後ろを見た。この時、あからさまに見て刺激を与えるのは良くない。視線だけを向けるのが正しいやり方だ。
……していることは確かに怪しい。怪しさ百パーセントと言っても差し支えないだろう。しかし、一見したところでは、落ち着いた感じのおじさんである。身なりも整っており、黒一色に染め上げられていると言う事を除けば、おかしな点もない。
要するに、そういう犯罪をしそうな人ではないのだ。もちろん、人は見かけによらない、とも言うが、なんとなく、そうじゃないんじゃないかな、と思う。
こっちを見つめる目がやけに真剣なのだ。犯罪者のように濁った目をしていない。真剣に、ストーキング一直線って感じの人だったら、それはそれで厄介だが。
「真希さんに相談しましょうかねえ」
言って、すぐ首を振る。あんな浮気者に頼るのはダメだ。
ただ、そばに他の人がいるというだけで、直接手を出される可能性はがくんと減る。それに、真希はああ見えて、腕っ節も強かったりする。ボディーガードとしては、かなりいいと思うのだが、
「ダメダメ。ダメです」
否定。
綾音嬢は、真希の浮気にいたくご立腹の様子だ。第一、ここで彼を頼ると、なし崩し的に葵のことも了解してしまいそうでいやなのだ。自分が、意外と真希に甘いことは自分が一番よくわかっている。
そんな真希が聞いたら即座に“ちょっと待て”コールをしそうな事を考えていると、家に着いた。
「……」
ちらり、ともう一度振り返ると、さっきまでいたはずの影がもういない。いつものパターンだ。家の前まで帰ってくると、いつの間にか消えているのである。
もしかしたら、近所の人なのかな? と、考えるが、すぐにその思考は別の方向に逸れていく。
隣――真希の家の敷地にある道場から、パシーン、パシーンと竹刀を打ち鳴らす音が聞こえてきたからだ。今日も、葵が来ているらしい。
綾音は、鼻息を荒くしながら、乱暴に玄関の扉を開けた。
「ほら、打ち込みが甘い!」
真希の竹刀が、葵の一撃を軽くいなし、次いで肩口を打つ。負けじと、葵が放った蹴りは軽く避けられ、片足で不安定になったところをひっくり返された。
「のぉっ!」
すぐに起き上がろうとするが、肩を踏み抜かれ、さらに喉元に竹刀の先をぴたりと突きつけられた。パーフェクトな負けである。
「ま、また負けた……」
「まあ、真剣なら最初の一撃で死んでるし、次転ばせたとき、本気なら後頭部を強打していたし、最後のを合わせて三回死んでるよ、神楽さんは」
「うう〜。ちっとは手加減してよ」
「してるよ。思いっきり」
真希は息一つ乱さず、しれっと言い放つ。模擬戦が始まって三十分と経っていないのに、肩で息をしている葵とは大違いだ。
「大体、なんで術師の私がこんなことしなくちゃいけないのよ」
「術師だろうが、接近戦は最低限こなせないと話にならないからね。戦士タイプが術を覚えるのは難しいけど、術師は肉弾戦もこなせるし。まあ、霊力を攻撃力変換しにくいから、極める必要はないかもしれないけど」
竹刀を杖の代わりにして寄りかかりながら、講義をする真希。その瞬間、葵の目がきらりと光った。
「隙ありぃぃぃ!」
油断している真希に向けて、全力の突きを放つ。
「そういうことはね」
ため息をつきつつ、ひょいとよける。
「その隙をつけるだけの実力を身につけてから言うもんだよ」
懐に入られた、と思ったら、体が一回転。葵の体は背中から激しく道場に打ち付けられた。
「ったぁ……」
痛みに顔をしかめていると、風が頬をなでる。目を開けると、目の前数センチのところで真希の拳がぴたりと止まっていた。
「はい、また僕の勝ち」
「つ、強すぎよ、美月くん。一体何者?」
「何者と聞かれてもね。僕が強いんじゃなくて、神楽さんが弱すぎるの」
痛烈なお言葉。意外に、弟子にはスパルタ教育らしい。
「もうちょっとできるかと思ったけど、まだ模擬戦は早かったかな。やっぱ基礎か」
「そこまで言われると、そこはかとなくムカつくんだけど。てゆーか、無闇に偉そうよ」
「無闇じゃないし、事実だし」
軽く捌く。実戦を幾度となく経験している真希から見れば、葵の実力は半人前どころか四分の一人前である。霊力はそれなりにあるが、技術がついていっていない。有体に言って、修行不足だ。
「さて、と。もう時間もアレだし、整理体操して終わりにしようか」
「やった!」
とたんに元気になる葵。
「あ、そうそう。神楽さん。家まで走って帰ってね。霊力使用禁止で。あと、帰ってからも最低二時間は術の修行をすること」
「ちょ、ちょっと。今日の修行は終わりでしょ」
「神楽さんの家までのランニングなんて、体をあっためるようなもんだよ。それに僕、術は教えられないから、自分で勉強するのは当たり前でしょ?」
「私の家まで、十キロはあるんだけど」
「軽い軽い」
「どこがだ! それに自転車はどうすんの」
葵は家が遠めなので、自転車通学なのである。学校から直で真希の家まで来るので、道場の脇に自転車を止めてある。
「担いで帰れば、ちょうどいい重りじゃないかと思う」
「あのねぇ!」
今度こそ本当に声を荒げた。さすがにそれはきつすぎるし、周囲の目が気になる。
「さすがに、それは冗談だよ」
「冗談に聞こえないわよ」
「そお? ごめんごめん。じゃあ、僕が神楽さんの自転車に乗るよ。んで、神楽さんは走る、と」
「勘弁してよ……」
葵はうめいた。学校での真希は、もっと優しかったと思うが、それは勘違いだったのだろうか。
と言っても、真希はなにも意地悪で言っているわけではない。真希の知り合いにも、殉職した人は何人でもいる。葵がそうならないように、との彼なりの優しさだったりするのだ。口にしなければ、伝わるはずもないが。
「放っとくとサボりそうだしね」
「うっ」
図星だった。
さて、と。
男は口の周りについた血を拭った。先ほど、食事を済ませたところである。
男の前には、二十代後半と思しきOLが倒れている。首筋に牙の跡があるが、しばらくするとそれは消えてしまう。
失礼、と名も知らぬ女性に心の中で詫びておく。人間界での吸血行為は、条約違反だが、満月が近くなったことだし、自分には“力”が必要だ。栄養を採っておかなくてはならない。
まあ、献血程度にしか頂いていないし、精神支配もしていない。人間の間では誤解されているようだが、吸血鬼が血を吸った人間は、誰彼かまわず吸血鬼になると言うわけじゃないし、問題ないだろう。多少、記憶を誤魔化させてもらったが。
空を見上げる。
今日は、月がよく見える。そして、その月はかなり満ちてきている。
次の満月は、二日後。
“彼女”の夕方以降の行動パターンはおおよそ読めた。今日は帰りが遅かったようだが、途中で彼女と別れた友人らしき人物に聞き込みをしたところ、火・木は部活動をしているらしい。青春を謳歌しているようで大変けっこうだ。
なぜか、聞き込みをした女生徒に変な目で見られたのはさて置いて……
決行は二日後。月満ちる夜。自分たち夜の眷属の力が最高に高まる、聖夜。
「待っていろよ、悪魔め」
男は静かに呟き、路地に消えていった。
シリアス風味だが、そんな彼を綾音がストーカーとして警察に届けようかどうか、今まさに悩んでいることは知る由もなかった。