中空に月の浮かぶ夜。ビルの屋上で、その影は遠くにある家を睨みつけていた。

「……ふむ」

彼の能力の一つ『遠視』により、何kmも離れているこの場所からでも、その家の様子を伺える。今はちょうど、あの家の住人の一人が帰宅したところらしい。

本来なら、もっと近付いて見たいところだったが、あの家の者は皆高い能力を持っているらしく、これ以上接近すると、存在を勘繰られる恐れがあった。それならそれで、一向に構わないのだが、できれば次の満月までは事を構えるのは遠慮しておきたかった。彼にその程度の警戒をさせるほどには、あの人間たちは強かった。

だが……と、彼は考える。

(それでも、あやつがおとなしくしているほどとも思えんが)

彼が追ってきた者。彼の同種であり、一族をもって悪魔とまで呼ばしめた男。それがこの近辺にいるらしい、という情報が入って、自分が追っ手として指名された。そして、そいつが、なぜかあの家に滞在していると言うことを突き止めたのが三日ほど前。以前にねぐらにしていた建物を後にして、別の場所に移ってすぐのことであった。

帰宅した少年を、少女が迎える。なにか、ひと悶着あったようだが、家に入ってしまった。『遠視』では、これ以上見ていても無意味だ、と判断して、瞳を閉じる。あまり、長時間『遠視』を使いたくはなかった。この能力。慣れていないせいか、いやに力を喰うのだ。

……それが、双眼鏡と呼ばれる物品で代用できる能力だと言うことに、男はぜんぜん気がついていなかった。

 

翌朝。真希は見てるほうが痛々しいほど落ち込んで通学路を歩んでいた。

いつもなら、呼んでもいないくせに来る綾音は、今日はやって来ない。大抵のことは次の日になるとけろっと忘れているくせに、今回はちょっと怒りの度合いが大きいようだ。

一旦こうなると長い。一、二週間くらい、口もきいてもらえないだろう。いつもはうっとおしいくらいに思っているのに、いざ静かになると寂しいものだ、と真希は一つため息をついた。

「おはよう」

後ろから声がかけられる。だるそうに首を後ろに向けると、朝早いというのに元気な葵の姿が目に入った。

「……おはよう、神楽さん」

「なに、朝っぱらからだるそうにしてんの、先生」

ずる、と滑った。

「先生ってナニ?」

「だって、今日から色々教わることになるんだし。美月くん、先生。私、生徒。違う?」

「違うとは言わないけど、神楽さんは他に師匠がいるんじゃなかったの?」

「師匠と先生は別物。大体、あの人って……あー」

葵は言いづらそうに鼻をぽりぽりとかく。

「私、あの人になにか教えてもらった記憶なんてないし。術だって独学で覚えて、あとは、あの人のあとを付いて回ってただけ。とても、師弟関係はと言えないでしょ? ね、先生」

一体、どういう人だ。と、真希は心の中で突っ込んだ。

葵は、その手の血筋の者ではない。その師匠とやらが彼女の才能を見つけて、こっちの業界に引っ張ってきたのだろう。そういう場合、きちんとした教育を施す義務があるはずなのである。

「だから、先生はやめて……」

「はいはい。わかったわよ、美月くん」

その時、葵のカバンから軽快な音楽が流れてきた。何事かと思うと、葵はカバンから携帯電話を取り出す。

「……マナーモードにしときなよ」

「はいはい」

真希の小言を聞き流しながら、葵は携帯の通話ボタンを押し、顔に当てる。

「あ、久しぶりです。……え? 代われ? そりゃまたなんで……はいはい。わかりましたよ」

ん、と葵が真希に携帯を差し出す。訝しげに思いつつも、真希はそれを受け取った。

「……はい。代わりましたが」

『おお、真希か。うちの馬鹿弟子が世話になってるようだな』

軽薄そうな女性の声。真希はその声にばっちり聞き覚えがあった。頭に、タバコをふかした三十路近いの女性の姿が浮かび、それと同時に数々の苦い思い出が脳裏をよぎった。

「つ、椿さん。まさか、神楽さんの師匠って……」

『あたしのことだ。文句あるか?』

神薙椿。真希と同じ、Aランクの退魔士にして、退魔士協会のはみ出し者。不真面目で自堕落で金に汚い、およそ社会に適応できそうもないダメ人間だが……実力だけは桁違いの術師だったりする。ちなみに既婚。

「文句なんて……で、なんの用ですか? 言っておきますが、僕はもう子守はいやですよ? ベビーシッターじゃないんですから」

『うちの子供の世話がそんなに嫌か?』

「むしろ、巌夫さんが……」

『……まあ、親父は楓をかわいがってるからな』

昨年の嫌な思い出が蘇る。

結構近くに住んでいる彼女の家に遊びに行ったとき(連れて行かれたとも言う)、その娘――楓の相手をさせられたのだ。楓に懐かれてしまった真希に、彼女の父がこれでもかというほど嫉妬した。あの時は、真剣で斬りかかれたものだ。

『まあ、用件はそれじゃない。一応、うちの弟子の神楽をよろしく頼む、と言っておきたかっただけだ』

「……なら、基本的な知識くらいは教えておいてください」

『うちは今、後継者問題で色々忙しいんだ。お前という、立派な跡継ぎがいる美月家と違ってな』

椿の家も、代々、退魔士をやっている一族である。現当主、巌夫に娘しかいないせいで、後継者に苦労しているらしい。

『桜花とお前が結婚すれば、万事解決なんだが……婚約者がいるんじゃ仕方ない』

「ちょ、椿さん?」

『冗談だよ。じゃあな』

言いたいことだけ言って、電話は切れてしまった。はあ、とため息をつきながら、携帯を葵に返す。

「なに、美月くん。うちの師匠と知り合いなの?」

「まあ、色々と」

「ふーん。って、ヤバ」

そろそろ校門だ。さすがに、校内で堂々と携帯電話を持っていれば、没収されるかもしれない。慌てて葵はカバンに携帯をしまった。

「ああ、そうそう。今日から美月くんちに通わせてもらうってことでいいのよね?」

「うん」

修行のために、自分の家に来るように言ってあったのを思い出す。そのために、修行のメニューも考えておいた。

と、そんな真面目な理由があるにはあったのだが、それを聞いていた彼女にわかるはずもなかった。

「へえ〜? 私の知らない間に、そんな話になっていたんですか」

聞き覚えのある声に、真希の動きが石化する。ぎぎぎ、と古いロボットを思わせる動きで後ろを振り向いて見ると、案の定というか、桜庭さんちの綾音嬢が仁王立ちしていた。

今の葵との会話をリプレイする。……まずいことに、誤解される要素には事欠かなかった。

「あ、綾音? なにを考えているのかは知らないけど、それは誤解だと、僕は胸を張って言えるぞ?」

「誤解なんてしてませんよ?」

「いや、絶対している。違うと言うなら、その目やめてくれよ。なんで、そんな汚らわしいものを見るような目で僕を睨むんだよ!」

最後の方は、魂の叫び声だ。綾音から向けられる視線が、これでもかと言わんほどに軽蔑しきっているのだから、仕方がない。ここで、無実の叫び声を上げなければ、人間としての尊厳が崩壊させられる。

「真希さんの助平! 浮気者! 女たらし!」

「ちょっと待て! 言いたいことだけ言って走り去るんじゃない!」

「べーーっだ!」

綾音は校舎の中に入っていく。どうでもいいが、周りの注目を浴びまくりだ。

その注目から逃れる意味も含めて、追いかけようとした真希の肩が、誰かに捕まれた。

「先輩! とうとう綾音ちゃんと破局ですか?」

「ダメですよ、泣かせちゃ」

「あれで、綾音ちゃん繊細なんですから」

「それとも、本当に神楽先輩に鞍替えですか? 昨日二人を見かけたから、綾音ちゃんに教えておきましたが」

昨日の昼休みに出現した、綾音の友人四人組だ。囲まれて、身動きが取れない。ついでに、綾音に、葵と歩いていたことを教えた、みっちゃんとやらも、この四人の中にいるようだ。

この年頃の女の子は、色恋沙汰に弱い。……とか、そんな尺度で測れるものでもないと思うが、真希は四人に質問攻めにされた。

「ちょっと、離してくれって! 周りが変な目で見てるだろ! あ、先生。助けてくださ……え? 不純異性交遊? 違いますって! これ見て、言うことはそれだけですか? あとで生徒指導室に来い? だから、違うって言ってるじゃないですかぁぁぁっ!?」

朝の天城学園校門に、真希の絶叫が響き渡るのであった。