ぐももーん、と、美月家からは、これでもかと言うほど暗い気配が漂ってくるのだった。
「うっ」
玄関の前まで来るものの、そのなんともいえない空気に気圧されて、真希はその場で立ち尽くした。ドアのノブに手をかけるものの、そのまま体が硬直したまま、言う事を聞かない。
真希の深いところ。本能ともいうべき部分が、この中に入るのは危険だと告げていた。
(落ち着け。ここは僕の家だ。なにをためらう必要がある)
落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせるが、どうしても、ドアを開けることができない。いつの間にやら、真希はそろそろと後退していた。
と、思ったら、いきなり玄関のドアが開いた。『内側』から。
「あら、おかえりなさい。真希さん」
「あ、ああ。ただいま。綾音」
綾音がおかえり、というのも、別にいつものことなので気にしない。なにせ、晩御飯を作っているのはその綾音だ。気になるのは、なぜか、笑顔の綾音のこめかみあたりに血管が浮き出ていることだ。
視線だけを動かして腕時計の表示を確認する。……八時前。確かに、いつもよりはかなり遅いが、咎められるほどの時間ではないはずだ。
「そんなところにいないで、上がったらどうですか?」
「う、うん」
綾音の声がやけに冷たい。例えるならば、そう。南極大陸で寒中水泳をしたあとにかき氷を食べるくらい。凍死レベルだ。
そんな感想を抱きながら、靴を脱いでリビングへと向かう。歩いている間、綾音はまったく無言だった。だが、男でもないくせにその背中がなによりも雄弁に語っていた。一言で言うなら……そう、『不機嫌』。
そして、リビングに到着。そこには、夕食が用意されていた。もう冷めてしまっているが、彼女の年には似合わないほどの完璧な家庭料理がならんでいる。
勝手知ったる他人の家、とばかりに綾音は真希の茶碗を取り出し、ごはんをよそう。が、相変わらずの無言だった。
「そ、そういえば、父さんたちは今日からしばらく出張なんだ」
沈黙が痛くて、椅子に座りつつ、そんなことを言ってみた。
「そうですか」
「そう! そうなんだ」
「……だから、なんですか」
痛烈に返された。
だめだ。理由はわからないが、今日の彼女の機嫌は今までにないほどに悪い。
どんっ、と真希の前にご飯の入った茶碗が置かれる。
「なあ、綾音」
「なにか」
「なんで、ご飯に箸がささってるの?」
「それがどうかしましたか」
とりつく島もない。
「帰るのが遅れたから怒ってる……わけじゃないよな。原因がまったく思い当たらないんだけど」
「それを聞きますか」
ふっ、と綾音は自虐的な笑みを浮かべた。
「私が知らないと思っているんでしょうから、それも仕方ないですけどね」
「いや、だから、なんのことだかさっぱりだ」
真希がそう言うと、綾音は恨めしそうに睨んできた。
「今日。放課後、神楽さんと一緒だったそうですね?」
真希は、自分が固まる音を確かに聞いた。
「ついさっき、みっちゃんがたまたま目撃したらしいです。携帯で教えてくれました。……で、こんな時間まで一体なにをやってたんですか」
半泣き状態で真希を攻め立てる。言い訳をするべく、真希は慌てて口を動かした。
「い、いや。違うよ、綾音」
「なにが違うと?」
「いや、その……さ。綾音が思っているようなことは、ぜんぜん、ちっともなかったから。か、神楽さんとはたまたま一緒になっただけで、別になんにもしてないよ」
「楽しそうに話していたらしいじゃないですか」
「ク、クラスメイトだし」
「なら聞きますが、神楽さんと一緒じゃなかったんなら、放課後、一体なにをしていたんですか?」
真希は口をつぐんだ。退魔士関係のことは、綾音には話せない。かと言って、下手な言い訳をしたら、あとでばれそうだ。
その逡巡を、一体どういう風に受け取ったのか、綾音は見る間に泣き顔になっていった。
「やっぱり、そういうことなんですね」
「違う。なにを考えているのかは知らんが、それは断じて違うぞ」
「いいんです。真希さんは、こんな二つも年下のお子様より、同い年の美人さんを選ぶんですね。ええ、無理もないです。どうせ、私はただの幼馴染ですよ」
「だから違うと言うに!」
必死に叫ぶ真希だが、綾音の耳にはぜんぜん届いていない様子。
「真希さんの、真希さんの……」
拳を震わせながら、じりじりと後退る。
「真希さんのあほーーーー!」
そして、だっ、と駆け出した。
「ちょ……綾音!」
追いかけようとしたら、玄関に飾ってある狸の置物が飛んできた。
「うわ!?」
反射的に叩き落す。信楽焼きの置物は、地面に叩きつけられ、無残にもばらばらになった。
「ってぇ!」
殴った拳が痛い。そして、綾音を追いかけようと一歩前へ踏み出した途端、破片を踏んでしまった。さらに、玄関から自分の靴が飛んできて、頭に当たる。
「……はあ」
真希はとっても重いため息をついた。なんで、こんなことになったのか。完全に誤解されている。
まあ、こういうときは時間を置くのがベストだ。しばらくすれば、綾音も頭を冷やすことだろう。言い訳はそのあとでもいい。とりあえず、今は砕け散った狸の破片を集めることのほうが先だった。いそいでほうき&ちりとりを持ってくる。
破片を一箇所に集めながら、真希はふと呟いた。
「あんな泣き方をされたのは、久しぶりだな」
「さて、と」
掃除が終わり、クリフのところに行った。さっきいなかったことを考えると、たぶん自分の部屋に避難していたんだろう。綾音のことも問題だが、それよりも使い魔の彼に相談するべきことがあった。できれば、両親のほうが良かったのだが、生憎、二人とも仕事で東北のほうに出張中だ。
「クリフ」
「んー? なんだ、真希。夜這いか?」
「気色の悪い冗談を言うな。真剣な話だ。入るぞ」
クリフの部屋を開ける。使い魔に部屋を与えるなど、ずいぶん酔狂なことだが、もともと、クリフが使い魔となった経緯が経緯なので、気にしても始まらない。
その部屋は、六畳ほどの小さな畳部屋だった。まず、カーテンは締め切ってあり、昼間でも日光が入らないようにされている。そして、部屋の中の様子はと言うと乱雑の一言で、脱ぎ散らかした衣類や、スナック菓子の袋などが散乱しており、キノコでも自生していそうな雰囲気である。
「相変わらず汚いな。たまには掃除でもしろよ」
「いいんだよ。俺はこの方が落ち着くんだから。で、なんの用だ? 言っておくが、綾音ちゃん関連の相談なら他を当たってくれ。あの手の女の子は、俺は苦手だ」
「お前に期待なんぞしとらん。それより真面目に聞け」
真希の再度の注意に、クリフはやっと居住まいを正した。
「で? なにがあったんだ」
「今日、障鬼を退治してきた」
「それが?」
「知っての通り、障鬼っていう妖魔は瘴気が立ち込めている場所で発生する。依頼人の倉に発生したらしいから、浄化もしておいたけど、なんか妙なんだ」
この業界。妙、とか不思議、とかの言葉とは切っても切れない縁があるが、それでも真希がそう言うのは珍しいことだった。
「どう考えても、あの倉には瘴気が溜まる理由はない。建築方法が変なわけでもないし、建っている場所が悪いのでもない。中に入っていた骨董品の類も、別段普通のものばかりだ。ただ、一つだけ妙なものを見つけた」
「なんだ?」
「棺桶」
ピクリ、とクリフの眉が動いた。
「依頼人の話によると、その倉はここ十何年か開けていなかったらしい。今回は、中の物の整理をするために、開けようとしたらしいけど、棺桶なんてまったく覚えがないそうだ」
「で?」
「それから、見習いの人を外に出しておいて、調べてみたら、倉の上のほうに小さい窓があって、最近出入りした形跡があった。聞いてみると、近頃、あの倉にはこうもりが住み着いていたらしい」
「………………」
「もう立ち去ったあとだったみたいだが、まちがいなく……」
「俺と同じヴァンパイア、か」
クリフは、両目をつぶってしばし思考にふける。
「だけど、この街では特に行方不明者とかは出ていない。不審な貧血とかもな」
「つーことは、だ。普通のヴァンパイアじゃない可能性が高いな」
ヴァンパイアは危険度Sに指定されている最大級の妖怪である。特に真祖と呼ばれる者たちは、常識では考えられないほどの魔力を有しているのだ。そして、ヴァンパイアにとってその生命の維持に必ず必要な生き血は、人間からヴァンパイアとなった真祖たちにとっては嗜好品に過ぎない。
「だが、真祖だとして、目的は?」
「俺が知るか。日本観光じゃないか?」
「茶化すなよ」
「しかし、その可能性も否定できないぞ。ああいう連中は、時間と力がある分、やる事がないからな」
ふむ、と真希は考え込む。
「一理あるな」
「だろ」
「だけど、備えを怠るわけにはいかない。いざという時は、まずは僕が出張ることになるんだから。その時は、もちろんお前にも出てもらう。だから話したんだからな」
「やれやれ……めんどくせ」
肩をすくめるクリフに、真希は苦笑しながら背を向ける。用事は終わった。
「しかし、お前はそれよりも解決しなきゃならん問題があるんじゃないか?」
「……綾音には、明日話す」
「言い訳も考えとけよ」
「わかってるよ」
ずーん、と気が重くなる。あの状態の綾音に、一体どんな事を言ったらいいものか。なにを言っても、怒らせるような気がする。
「あと、それと」
すすす、とクリフが近付いてくる。それだけで、なにをするのかわかった。左腕の袖をまくって、クリフに突き出す。
「はあ……吸いすぎるなよ」
「わーってるって」
クリフは、真希の左手にかぶりついた。ちゅーちゅーと血が吸われる。体の力が抜け落ちていくようで、真希はこの感覚が好きではなかった。
「やっぱ、男のより、女の子のやつのほうがいいなあ」
「人の血をたらふく吸っておいて、贅沢なこと言うんじゃない」
「処女希望」
「黙れ!」
これが『契約』だった。美月真希は、食料と住居と血液を提供する代わりに、クリフは真希の使い魔となり、他の人間の血を吸わない。霊能者の真希の血は、ヴァンパイアにとって至上の食物なのだ。
「だけど、さすがに飽きてきた。なあ、綾音ちゃんの血、少しだけ吸っちゃダメか?」
「……そんなことしてみろ。完膚なきまでに殺すぞ」
真希の瞳に剣呑な光が宿る。クリフは慌てて離れた。
「わかってるよ。冗談だ。そう怒るんじゃない」
「本当だな」
いつの間にか取り出していた短刀を真希はしまう。
「どこに持ってたんだよ、そんな物騒なもの」
「背中」
「危ないやつだ」
怖い怖い、とクリフがさらに離れる。
「用は済んだんだろ。早く出て行け」
「お前が引きとめたんだろうが」
真希は今度こそクリフの部屋を去る。途端に、部屋の中が静かになった。クリフは、どっかと座り込むと、ごそごそとポケットを探り始めた。
「やれやれ」
取り出したタバコの火をつけ、窓を開ける。……今日は月が綺麗だった。
「綾音ちゃんも、心配することないのに」
真希は、どう見ても浮気とかの心配はない。あるはずもない。そんな発想が浮かぶかどうかすらも疑問だ。
「しっかし、ヴァンパイアねえ」
また厄介な相手だ。真希が飛びぬけた実力を持っていても、人間ゆえの限界がある。一人だけではどうしようもないかもしれない。かと言って、具体的な被害が出ていない以上、増援を頼むこともできない。
「まあ、色々騒がしくなりそうだな」
紫煙を吐き出し、月を見上げた。本当に、今日はいい月夜だった。