「まずい……ものすごい腹減った」

あのあと。予鈴が鳴って、移動教室だった真希は急いで帰らざるを得なかった。せめて、もう少しだけ食べさせてくれと頼んだのだが、怒って……というより拗ねていた綾音にそれを聞き入れてもらえず、仕方なしに昼抜きで授業を受ける羽目になってしまった。

「はぁ。けど、帰らないとな」

そう、今日は「仕事」だ。これだけは綾音に知られてはいけない。いつも以上に慎重にまく必要がある。それにはスタートダッシュが肝心だ。幸い、綾音の担任の教師は帰りのSHRが非常に長い。今すぐ鞄をひっつかんで帰れば大丈夫。

「美月くん。どうかしたの?」

そう思って走り出そうとする真希に話しかける人物がいた。振り返ってみると、クラスメイトの神楽葵の姿があった。ちなみに彼女の席は真希の後ろの席である。

「え、どうしたって?」

「なんか、全然元気なかったみたいだし」

「ああ……」

つまり、空腹でグロッキー状態だった真希を見て心配してくれたらしい。そこまで心配させるほどひどい状態だったのだろうか。

「平気。ただ単に、お腹がすいただけ」

「それって、確か例の幼なじみさんがお弁当を作ってきてくれたんじゃなかったの?」

「いや、まあそうなんだけど……。いろいろあってね」

もう思い出したくもない。あとから冷静になって考えてみると、なんて馬鹿なことをしていたんだろうと無性に恥ずかしくなったからだ。客観的に見て、さぞやみっともない姿だったに違いない。

「ふ〜ん。まあいいや。ちゃんと食べないといけないよ」

「わかってる」

答えて、真希は葵の顔をすこし眺める。真希は普通に友達付き合いをしているが、彼女は文化祭のミス・天城学園で一年生、二年生と二連覇を達成した天城学園きっての美少女だったりする。ついでに真希とは高校にはいってからずっとクラスメイトだ。真希は、あんまり見た目は気にしない方なのでそんなに意識したことはなかったが。

「そう? じゃあ、本当に気をつけてよね。すぐ前の席でそんな景気の悪い顔をされてちゃ、こっちまで気分が滅入ってくるんだから」

「了解しました」

それを聞いて、葵は満足げに頷くと、

「ん。よろしい。じゃ、私、今日は早く帰らなきゃいけないから、じゃあね」

「うん」

そして、葵はさっさと鞄を持って教室を出ていく。その後ろ姿を眺めながら、自分もゆっくりとしていられない立場だということを思い出し、真希も急いで教室から立ち去る。

廊下に出ると、右、左と見渡す。さすがにもう来ているということはないだろうが、綾音のクラスもそろそろSHRが終わっている頃だ。気をつけないと、鉢合わせになってしまうかも知れない。

「よし」

一言呟くと、左に向かって走り出す。一年生の校舎からここに来るには、向かって右側からの階段から来なくてはいけない。朝なら、先回りされることもあるが、「仕事」が入ったときのため、帰りはなるべく逃げ回らないようにしていたから大丈夫のはずだ。

階段を三段飛ばしで駆け下りながら真希は他の生徒を鮮やかなステップで避ける。真希に抜かされた人は驚くが、すぐに納得のいった表情になる。真希がこういう風に逃げ回るのは今に始まったことではないからだ。

下駄箱につく。速攻で上履きから靴に履き替え、猛然と裏門の方へ向かう。多少遠回りしなければ、綾音に捕まってしまうかもしれない。逃走しつつ、家に向かうルートを頭に思い浮かべながら、裏路地に突っ込む。

約束の時間は四時半。今は三時四十分。家までは走って二十分はかかるから準備も考えると、普通なら間に合わない。依頼人も無茶な時間を指定してくるものだ。こっちは学業が本分なのに。大人を雇うよりは安上がりだろうが、それなら時間くらい考えて欲しいものだ。

不満はいっぱいあるが、信用に関わるのですっぽかしたり遅刻するわけにはいかない。だいたい、これだけ報酬のいい仕事はあんまり入ってこない。小遣いはすべてこのバイトで稼いでいる真希にとって死活問題である。

ため息を吐き、周囲に人がいないか確かめつつ、真希は「力」をひきだす。とたんに真希の身体能力が跳ね上がり、走るスピードがオリンピック選手も真っ青な速度になる。路地を走っているため、ゴミを蹴飛ばしたりするが無視だ。

三分後。途中で少し迷いながらも、息一つ乱さず家に到着した真希だった。

急いで台所に入り、さっきからぐーぐーとうるさい自己主張を続ける腹を大人しくさせるべく、すぐに食べられそうなものを探す。時間はもうあまりないが、そこら辺をひっくり返しながら探す。栄養を補給しておかないと仕事中もたないからだ。

そんなことをしていると、後ろに人の気配を感じた。

「ふあぁ〜。ん? おい真希。急がないと間に合わないんじゃないか?」

「わかってる!」

運良くあったいくつかのおにぎりの一つをとりながら奥の部屋から起きてきた銀髪、赤目の男に返事する。長身でかなりの美形だが、寝起きのその顔はだらしなくゆるんでいる。トランクス一枚という姿もその男の印象をすこぶる悪くしていた。

「で、俺は今日は手伝わなくてもいいのか?」

外見に似合わず流暢な日本語を使いこなす。アクセントなどにも不自然なところはない。彼が日本に来て約百年ほど経っているので、当然といえば当然だが。

「ああ。報酬のわりにそんなに強くはないみたいだし。まあ、今年免許とった見習いさんの面倒も見なきゃいけないらしいみたいだけど」

「見習いだぁ? お前いつから他人の監督ができるほどえらくなったんだ?」

「うるさいな。クリフ、お前使い魔のくせに生意気だぞ。今日は働かないんだから、せめて準備の手伝いぐらいしてくれ。対霊用第三種でな」

言いつつ、近くにあったいつも仕事に使っているリュックをクリフと呼ばれた男に放る。

「ったく、しょうがねえな」

クリフは愚痴を言いつつ、それでもリュックを掴んで家の奥の隠し倉庫へと向かう。それを横目で見ながら、真希は二つめのおにぎりに手を伸ばした。

「っと、そういや免許も持ってかなきゃ」

仕事に必要な免許を台所に置きっぱなしだったことを思い出し、軽く探す。すぐに見つかった。なんせテーブルの上にちゃんと置いてあったから。

そこに書いてあるのは。「退魔能力者免許 Aランク」。一般人は決して知ることのないような免許である。

 

 

退魔士という人たちがいる。読んで字のごとく、魔を退ける者。

その人たちが相手をするのは幽霊、妖怪といった普通なら作り話として片付けられる存在。人間社会に害を及ぼすそういったものを排除するのが主な仕事だ。

真希は中学生の時からこの仕事をアルバイトとして不定期にやっている。理由はただ単に、美月の家系が代々やっていることだからだ。聞いた話だと、美月家の退魔士としての歴史は平安時代まで遡るらしい。

とにかく、そんな家なので、真希も幼い頃からみっちりと「美月一刀流」という対化け物用の剣術をたたき込まれた。現在でもその修行は続いているが、どうやら真希には才能があったらしく、すでにこの業界でもかなりの実力を持つ父と互角くらいまでの腕前になっている。

当然のことであるが、綾音はこのことを知らない。美月一刀流のことについても、普通の剣術ということにしている。綾音なら、真希の言うことは疑いもせず信じるだろうが、こんな血生臭い業界に彼女を巻き込むのも気が引けた。

そんなこんなで、仕事が入った日は綾音からは本気で逃げ回るのが常だった。

ちなみに、退魔士にはEからSまでのランクわけがされている。妖怪、悪霊なども当然の事ながら強さには差があり、それを退治するために要求される力量も異なる。そのため、退魔士の能力の目安としてこういったランクがあるというわけだ。真希の現在のランクはA。日本でも数人しかいないSランクを除けば最高のランクといえる。

「よっしゃ! じゃ、クリフ、行ってくるぞ!」

「おう、行ってこい。ドジ踏むなよ」

……どうやら、真希の準備が終わったようだ。説明の続きはまた今度。

「誰に言ってるんだよ」

真希はそう言って、不敵に笑う。見た目よりはるかに重いリュックを背に、真希は家を飛び出した。

「……って、もう少しは余裕あるな」

現在時刻、四時ぴったり。依頼人の家は、少し離れたところにあるが、歩きでも充分に間に合う。ここまで急ぐこともなかったかと、真希は息を吐きつつ、歩き始めた。

がちゃがちゃと、リュックの中身が音を立てる。整理とかそういうのにはまったく無縁のクリフのことだ。必要な道具はきちんとそろっているだろうが、無茶なつめ方をしたに違いない。

「ったく」

少し音が気になるが、公衆の面前でこの中身をさらすわけにはいかない。退魔士の使う道具は銃刀法にしっかり引っかかる物品も含まれている。退魔士免許を見せれば、警察の上の方がなんとかしてくれるが、近所のお巡りさんには速攻で拘束されるだろう。日夜正義に燃えているお巡りさんに迷惑をかけることもない。

真希は無言で歩いた。がちゃがちゃ音を立てるリュックに少し注目を集めるが、その中身まではわかるはずもない。つーか、わかったらエスパーだ。

くだらないことを考えつつ、真希は依頼人の家へととぼとぼと歩いていくのだった。