桜庭綾音はるんるんと廊下を歩いていた。その彼女を道行く男子生徒は熱い視線を送る。が、当の綾音はまったく気付いていない。手に提げた“二つ”の弁当袋を手に、一目散に三年生の教室へ向かっていた。

そして、一つの扉の前に辿り着く。「三年四組」のプレートを確認して、すぅ、と息を吸い込む。いつもながら、上級生のクラスにはいるのは勇気がいる。みんないい人たちばかりだとわかってはいるのだが。

弁当袋をぎゅっ、と握りしめ、意を決して扉に手をかける。そして……

ガラッ!

綾音はまだ開けていないのに、内側から扉が開いた。

「ん? 綾音ちゃんじゃないか」

そう言って自分に笑いかけてきたのは、赤い髪でピアスを開けたいかにもな不良顔。普通なら間違っても友達になりたくないタイプだったが、この人は別だった。なんせ、綾音の幼なじみの親友である。その縁で、顔見知り程度には知っていたし、見た目ほど悪い人じゃないことも知っていた。

「あ、稲山さん。こんにちは。真希さんいますか?」

京一は綾音の持っている弁当袋を見て、「ああ」と納得した声を出す。なんのことはない。綾音が入学してからの恒例行事だ。

「ちょっと待ってな。おーい! 真希、嫁さんが来たぞ!」

京一が教室の奥にいる真希に呼びかける。クラス内にいた生徒はみんな視線を入り口に向けるが、全員、すぐさま自分の用事に移っていった。当初は騒いでいたりもしたが、さすがに、毎日毎日だと慣れてしまう。

そして、奥から慌ててやってくる真希。慣れているとはいえ、さすがに綾音がクラスに押し掛けるという状況は恥ずかしいらしい。真希はどこかで待ち合わせようと提案もしたのだが、綾音は「真希さんのクラスに真希さんを呼びに来る」という状況になにかこだわりがあるらしく(真希にはとうてい理解できなかったが)あえなく却下された。結果、毎日毎日恥ずかしい思いをすることになる。救いなのは、このクラスには綾音に惚れている人物がいないということか。いつも真希にべったりなのを見ているために、そんな気は起こらないらしい。

「じゃ、真希さん行きましょう」

「……わかった」

いろいろ言いたいことがあったのだが、どうせ無駄であるし、昼食抜きは勘弁して欲しいので大人しく着いていく。

真希の昼食はいつも綾音の弁当だ。母は綾音が作ってくれると聞いて、あっさりと真希の弁当作りを放棄した。食堂で食べるお金も出してくれないので、強制的に綾音の弁当を食べることになる。綾音の料理がまずいわけではない。むしろおいしいのだが、彼女と一緒に食べると「はい、あーんしてください」とか、そういう猛烈に恥ずかしい思いをすることになる上に、嫉妬の視線も存分に浴びるので、想像を絶する居心地の悪さを味わうことになる。だが、健康な高校三年生の男子にとって昼を抜くのは死と等しい。つまらないことだが、切実だ。

「じゃあ、今日は天気もいいし中庭で食べませんか」

中庭。昼休みにはそれなりの人数がいるが、いつも食べている食堂に比べればマシだ。なんせ、この学校の食堂利用率は八十パーセントを超える。居心地がいいので、弁当持参の生徒も利用するためだ。よって、絵に描いたようならぶらぶカップル(綾音観)は注目を集めてしまうのだ。

「うん。いいんじゃないか。気持ちいいだろうし」

「ですよね。じゃ、行きましょう」

そう言って、今にも駆け出しそうな勢いで中庭に向けて歩いていく綾音。

「真希さーん。早くしてくださーい」

妙に間延びのした声で真希をせかす。真希は苦笑しながら、

「今行くよ」

と、返事をした。なんだかんだ言っても、こういう感じは嫌いではない。

外にでると、すでにそこそこの人数が弁当を広げていた。今は五月。この季節、このように中庭で昼休みを過ごす生徒もけっこう多いのだ。友人同士でわいわいとしている者もいれば、一人黙々と箸を動かしている者もいる。自分たちのような男女の組み合わせもわりかしいるようだ。

「ここに座ろうかな」

運良く空いていたベンチに腰掛け、綾音を呼ぼうとする。真希より少し早く来ていた彼女は、中庭で弁当を広げている友人らしい女生徒のグループと雑談を交わしていた。少し耳を澄ませてみると、なにやら綾音が自慢げに話しているのが聞こえた。

「……ってことです。真希さんのお弁当はいつも私が作ってるんですよ」

「えー? ウソ。あの噂本当だったんだ」

「しかし、綾音もやるわねえ。今でてきた人でしょ? けっこうかっこいいんじゃない?」

……ああ、また誤った認識が広がっていく。

きゃいきゃいと綾音を冷やかしている女子を見ながら真希はがっくりとうなだれた。彼女たちの間でどんな会話が展開されたか、だいたい想像はつく。「あの噂」とやらも、おそらくは京一経由で耳にはさんだものと大差ないだろう。内容は押して知るべし。

「……綾音」

「あ、真希さん」

見ていてもしょうがないので、真希は綾音の方に近付いて話しかけた。

これ以上、余計なことを言われないうちに引き離さないと。

そう考えて、綾音の手を取り、引っ張っていこうとする。だが、綾音の友人一同はそこまで甘くなかったようだった。気が付くと肩やら腕やらに手が伸びていて、一瞬のうちに身動きがとれなくなる。

……四人がかりは卑怯だ。

「まあまあ先輩。そんな慌てないでくださいよ。いろいろじっくり聞きたいことがあるんですから」

邪悪な微笑を浮かべながら顔を近付けてくる友人A。それを見て、冷や汗がたらりと流れる。どうやら、しばらく逃げることはできないようである。まあいい。誤解を解くいいチャンスだ。

「あー。君たち。まず始めに言っておくけど……」

綾音が言ったことは全部でたらめなんだ。

そう続けようとして、やたら高い声に阻まれる。

「それで、綾音ちゃんとはどこまでいってるんですか?」

「毎日毎日、夕飯まで作ってもらってるって本当ですか?」

「幼なじみ同士のカップルって、ある意味理想ですよね」

「ってゆーか、すでに婚約までしているって聞いたんですけど」

真希は思い出した。この状態の女性になにを言っても無駄だということを。もちろん経験からの教訓だ。綾音、入学当時は一人を除いたクラスの女子全員からこんな質問が飛びかったものだ。あの頃に比べればこんな小娘四人程度、たいしたものではない。

まあ……

「綾音ちゃんはかわいいから、他の人にとられちゃわないように気をつけなきゃいけませんよ

「そーそー。うちの男子も綾音を狙ってるやつけっこういるし」

「でも、そこら辺は大丈夫なんじゃない? なんたって、綾音の方がベタ惚れみたいだし」

「まったく、うらやましいですねぇ〜。このこの!」

だからと言って、真希に止められるはずもないのであるが。

結局、真希がこの質問攻めから解放されたのは十分ほど経ってからだった。

 

 

「じゃ、食べましょうか」

さも何事もなかったかのように弁当を広げようとする綾音。十分間、綾音はずっと真希をにこにこと眺めていた。なんで自分だけがこんな目に遭うのか。その不条理さから、のほほんと笑みを浮かべている綾音を軽く睨んでみたのだが、何を勘違いしたか、綾音は頬を赤らめ真希から顔を逸らした。その行動が綾音の友人の一年女子にさらなる誤解を与えることになった。それに気付いた真希が頭を抱えたのは言うまでもない。

「はあ、そうだな。早く食べちゃうか。昼休みもけっこう過ぎちゃったし」

過ぎたことを愚痴っても仕方がない。真希はとりあえず、目の前の栄養を補給することにした。綾音から弁当の片方を受け取り、包みをほどく。中からかなり大きめの二段の弁当が姿を現した。

かぱっ、と蓋を開けてみると、その弁当箱に負けず劣らずのおいしそうなおかず類がきれいに並べられている。卵焼き、からあげ、野菜の煮物。さすがは幼なじみと言ったところか、真希の好物が多くを占めている。はっきり言って、彼女は真希以上に真希の好みを把握していると言っても過言ではない。そして、下段にはおにぎり。いろいろ工夫を凝らしていて、中の具は一つ一つ違うようだ。さりげにたくあんなどが添えてあるのもポイントが高い。

「相変わらず豪華だな」

「はい。今日も早起きして一生懸命作りました」

言いつつ、綾音は自前の水筒から熱いお茶をカップに注ぐ。「食事には日本茶」が真希の信条なので、飲み物を食堂のジュースで済ませるようなことはしない。

「はい、真希さん」

「ああ、ありがとう」

すでに箸をとり、弁当の攻略にかかっていた真希にお茶を渡す。真希はいつものように勢いよく食べている。こういう食べ方をされると、作った方もうれしいものだ。綾音は真希の食べっぷりに満足しながら、自分の分の弁当を食べ始めた。

「あ、今日はこの卵焼きがうまくいったんですよ」

「そうか。どれ」

自分の所に入っている卵焼きに箸を伸ばす。

「ちょっと待ってください」

そして、途中で綾音に止められた。……なにやら猛烈に嫌な予感がする。いたずらを思いついたような表情の綾音を見て、絶対に気のせいじゃないということを確信する。

「私が食べさせてあげましょう。はい、どうぞ」

案の定、綾音は自分の箸で卵焼きをとって、真希に差し出す。しっかりと左手を添えているあたり、抜かりない娘だ。真希は、だいたい二日に一回くらいの割合で、この攻撃を受けることがあった。最初は不承不承ながらもその申し出を受けていたが、いつまでも好き勝手にはさせない。

「そうか。それはありがとう」

ヒョイ

パクッ!

差し出された卵焼きを、自分の箸で奪い去り、即座に口に放り入れる。綾音の言う通り、今日の卵焼きはずいぶんといい味がした。ゆっくりと咀嚼していると、綾音がすこし頬を膨らませて抗議してきた。

「ああ〜。なにするんですか真希さん。こういう時は少し照れながらもおずおずと口を開けるのがお約束じゃないですか! それをそんな行儀の悪い……」

「はいはい。すみませんでした」

全然誠意のこもっていない謝罪をすると、何事もなかったかのように昼食を続ける。

「むう〜」

その態度に、綾音はずいぶんとご立腹のようだ。どうしてくれようか、という視線で真希を見たあと、おもむろに真希の弁当に箸を伸ばす。

「あっ! なに僕のおかずとってんだ!」

「だってこれを作ったのは私です。真希さんが聞き分けがないので、食べさせてあげません」

戦利品のたこさんウインナーをゆっくりと味わう。その後、更に綾音の魔の手が真希の弁当に襲いかかった。

「させるかっ!」

真希の箸が、綾音のそれを阻む。

「む。抵抗する気ですか?」

「当たり前だ。なんでたかがあの程度のことで弁当を取り上げられなきゃいけないんだ?」

「たかがですって? 私の純情を踏みにじっておきながらよくそんなことが言えたもんです。少しは反省したらどうなんですか?」

ギリギリと、箸同士がこめられた力によって歪む。こういったじゃれあいは二人ともよくするが、今回は両方本気である。かたや、乙女の純情のため。かたや、人間の三大欲求の一つ、食欲を満たすため。命をかけるとまではいかないが、三日分の寿命ぐらいはかけたかもしれないバトルを展開していた。

「でやぁ!」

「なんの!」

その実力は伯仲していて、なかなか勝負がつかない。っていうか、昼休み中続けていた。そして、真希は空腹のまま午後の授業を受けることになったのだった。