彼――美月真希は焦っていた。

慎重にあたりを見渡す。この時、相手に気取られてはいけない。敵はこと自分のことに関する限り、人間離れした感覚を有するのだ。決して油断は許されない。

まだ昇ってから間もない太陽の光が差している。そして、自分は薄汚い路地の中、必死に敵の追跡をかわそうと四苦八苦している。地面に転がっている空き缶がうっとうしくなって蹴り飛ばす。……壁に当たって返ってきた。無性に腹が立つが、すぐにばかばかしいことだと思い直し無視して再び警戒態勢に入る。

さわやかなはずの朝。一体僕はなにをしているのだろうと、根元的な質問を内面に投げかけてみるが、当然答えなどあるはずもない。少なからず、自分にも責任はあるのだから。

今一度、路地から顔を覗かせ、敵の姿を探す。右、左、右。……よし、敵影存在せず。

病的なまでの警戒心。お巡りさんに見つかったら不審者として速攻で逮捕されることうけあいだ。

そんな自分に気付いていないのか、それともすでに気にしていないのか、本人はいっこうに気にしていない。

確認が済むと、えいやっ! と心の中で気合いを入れ、そそくさとなるべく足音をたてないようにして近くの電柱まで駆ける。電柱まで行くと、すぐさまその影に身を隠した。

誰にも見られていないはずだ。周囲三十メートル内に人間の気配はない。

「……よし」

完璧だ。ここまで、一切敵に気付かれてはいない。自然と出ている汗を軽く拭い、再び前方へと視線を向ける。

目標まであと約一キロ。そこにはでんっ! と、でかい学校が鎮座していた。

私立天城学園。真希の通う高校の名前である。

創立当初から、『型にとらわれない、個性豊かな人材の育成』をスローガンにしており、事実、個性的――というより変わり者が多い高校として知られていた。成績自体は悪くない。それどころか、県内有数の進学校であるが、生徒の人格という面ではいささか問題が山積みの学校である。

だが、彼は天城学園の中でもかなりの良識派に属しており、成績優秀な優等生である。天城学園の、成績が上がるほど変人。という基本的な摂理に、真っ向から対立する存在といえる。

かと言って、彼がまったくの真人間だと聞かれれば、実はそうでもない。彼自身は確かにいたってまともなのだが、彼の幼なじみ――本人はその関係に不満のようだが――のおかげで、本来地味なはずの真希は、天城学園でもかなり有名になっていた。

まったく迷惑な話だ。

真希はいつもそう思っている。別にその幼なじみが嫌いなわけではない。小さいとき、お互いの家の関係上それこそ物心つく前からの付き合いだ。普通の幼なじみより仲はよいと思っているし、真希なりに大切に思っている。

しかし、“彼女”に言えばぶっ飛ばされるだろう。いや、その前に泣かれるか。なんせ、彼女の方は真希をただの幼なじみとは見てくれていない。

ある意味、真希にとって彼女は恐怖の代名詞だった。先程も言ったが、決して嫌いなわけではない。嫌いではないがゆえに、さらにややこしいことになっているのである。彼女を突き放すことができたらどんなに楽だろうか。だが、自分にそれができるか? 答えはNO。

結果。真希は彼女に会うと常に逃げ回っていた。発見されたら彼女は執念で自分を捕まえるので、肉食動物に狙われる草食動物もかくやという臆病さと慎重さで見つからないよう身を隠す。

そう。今まさに真希は彼女から逃げている真っ最中だった。

「ここから一気に走れば捕まらないだろう」

誰に言うわけでもない、自分に確認するための言葉。

しかし、あっけらかんとした口調で、真希のその言葉に返事をする者がいた。

「捕まるって……だれにですか?」

ぴしっ!

そんな擬音が聞こえそうなほどの勢いで真希が硬直する。顔面は引きつった表情のまま、体は電柱から身を乗り出した姿勢で固まる。全身が灰色になっているような気さえする見事な石化っぷりだった。

たっぷり数十秒間の沈黙。ここは人通りの少ない道なので、幸か不幸かそうやって電柱の影で固まっている不審者二人を問いつめる者はいない。

なにも答えない真希に、突然出現したイレギュラーは再度問う。

「だれに捕まるんですか? 真希さんを追っている人でもいるんですか?」

それを聞き、真希は解凍する。

ぎっ、ぎぎぎ……

訂正。解凍し損ねたようだ。首を回すだけで軋んだような音を立てることからもわかる。

「な……んでここに……?」

未だうまく動いてくれない口を懸命に開き、どうにかその言葉を振り絞る。が、聞くまでもなくその答えは真希にはわかっていた。

「なんでって……真希さんを追っかけてきたに決まってるじゃないですか。昨日、一緒に学校に行きましょうって言ったのに一人で行っちゃうから」

大方予想通りの答え。なんせ十五年以上の付き合いだ。この位の予想はつく。

「だいたい、最近の真希さん冷たいですよ。下校の時もさっさと帰っちゃうし、家にも遊びに来てくれないし。昔はなにするのにも一緒だったのに……」

今にも泣きそうな声色で彼女がしゃべる。真希としてはしどろもどろになるしかない。彼女のこういった反応もそれなりの頻度で聞くが、かと言って慣れるわけでもない。さすがに女の子に泣かれるのは気が引ける。そもそも、それ以前の問題として、この状態になった彼女に真希が勝てるはずなかった。

「そ、それはお互いの生活時間のずれというか……」

なんとか言い訳じみたものを口に出すが、相手も慣れたもので、

「私たちは二人とも高校生ですよ? 部活も委員会もしていないくせになにを言っているんですか」

ぴしゃりと返される。言われてみればもっともな話だと、自分でも納得しながら次なる言い訳を考える。

「三年になったからね。今年は受験だからちゃんと勉強もしなくちゃいけないし」

「それにしては部屋の明かりが消えるのがやけに早いですね」

うぐっ! と、つまってしまう。真希と彼女の家は隣同士。かなり広い敷地を持つ真希の家であるが、隣の家の二階から部屋の明かりが確認できないほどではない。真希がいつも十一時になる前には寝ている健康優良児だということはとっくにばれていたようだ。……時々、家に帰るのが夜中の一時以降になることもあるのだが。心なしか、彼女の真希を見る目がジト目になっている気がする

二つ目の言い訳も撃墜され、真希は最後の手段に出る。これを言えばぐぅの音も出まい。

「いやぁ、最近父さんのしごきがきつくってね」

「おじさん、この前に会ったら『真希のやつ、もう教えることがなくて困る。逆に俺が教えられるくらいだ。こりゃ親の威厳もあったもんじゃないな。はっはっは』って、笑ってましたけど」

ご丁寧に、真希の父親の声色を真似て言う。

まいった。父さんめ、余計なことを。僕たちを生まれたときから見ているあの人なら、こうなることくらい予想できそうなものだが。さては息子に負けたのが悔しくてこんな遠回りな嫌がらせをしたな?

今頃、自宅でのほほんと朝食を口に運んでいるであろう父親に百パーセント被害妄想な恨み言をこぼしながら、真希は虚空を睨んだ。

理不尽だ。理不尽すぎる。

そもそも、なんで朝っぱらから僕がこんな事をしなきゃいけないんだ? わざわざ裏口からこっそり家を出て、家を出たら出たらで十メートル進むのにもフルマラソン並の体力と精神力を費やし、その努力空しく、こんな所で彼女に対する言い訳を必死に考えている。

改めて彼女を見る。肩の下あたりまでのばしたきれいでまっすぐな髪。少し茶色がかっているのは染めたり脱色したりしたものではなく天然のものだ。不満げに少しゆがめられた口元も、ぱっちりと開かれた瞳も、少し幼い印象を与えるもののよく整っている。一般的に美少女と評されるであろう彼女――桜庭綾音。

繰り返すことになるが、真希とは物心付く前からの幼なじみであり、家が隣同士。そして……親同士が決めた『許婚』でもあった。

 

 

許婚と言っても、そう大騒ぎするほどのことではない。

ただ単に、二人の母親が学生時代からの親友で、「子供達を結婚させたらずっと一緒にいられるね」と、軽い冗談で二人を婚約させたに過ぎない。その母親たちも、「そうなったらいいな」程度にしか考えていないので、普通ならそのうち忘れられるような関係である。

そう、普通なら。

残念ながら、綾音はそういった意味で「普通」ではなかった。母親は確かにただの冗談でそう言った。しかし、綾音本人はいたってマジだ。呼び方が「真希ちゃん」から「真希さん」に変わった今でもしつこく覚えていて、真希に迫ってくる。

登下校に誘ってくるのは言うに及ばず、毎日のようにデートと称しては引っ張り回され、近くにいるときはべったりとくっつかれ、家が隣なので通い妻よろしく夕食を作ったりする。夜這いをかけられたことも……その、それなりにある(いつも必死になって追い返すが)。

はっきり言って迷惑である。泣かれるので、口には出さないけれど。

とは言っても、彼女は水準を大きく上回る美少女であるし、男としては喜んでもいい状況かも知れない。

そんなことは僕の身になってから言ってみろ。

そのようなことを言う友人に、真希はいつもこの台詞を言う。

実際、他の男子生徒の嫉妬を受けるわ、女子生徒からいわれのない誹謗中傷は受けるわ、両親からはさんざん冷やかされるわ、ロクなことがないのである。綾音に惚れている男子からの不幸の手紙(カミソリ入り)など日常的に送られてくるし、おかたい教師からは不純異性交遊がどーたらと目をつけられるし、噂では天城学園、影の番長が綾音にホの字だとかなんとか……そのおかげで、体育館裏に呼び出しをくらったことも何回かあった。

真希自身が今時珍しいくらい純情で固い所を抜きにしても、一般人なら逃げ出していてもおかしくない。そうならないのは、ひとえに慣れだ。慣れたくはなかったが。

いつも思う。僕がなにをした。

にこにこと、心底嬉しそうな表情で腕にくっついている綾音を横目で見ながらため息をはく。一度捕まったからには逃げようがない。彼女の執念は常軌を逸している。運動はそれほど得意じゃないくせに、十キロくらい追いかけてきたこともあった。脳内でヤバイ物質でも分泌されているのだろうか。

「綾音」

「なんですか?」

「少し離れてくれない? 歩きにくくてしょうがないから」

無駄とは知りつつ、言ってみる。

「……私と一緒にいるのがそんなに嫌なんですか?」

見る見る泣きそうな表情になっていく。真希はがっくりとうなだれた。

「……そんなわけないって。頼むからそんな顔しないでくれよ」

やはり無駄であった。ここではっきりと「嫌だ」と言えばここでしゃがみ込んで大声で泣かれるだろう。

今でさえ、通勤中のサラリーマンの「最近の若い者は……」とか、天城学園の男子生徒の「ちくしょう。美月真希め。いつか覚えてろよ」といった視線にさらされているのだ。この上、綾音に泣かれたらどうなるか、想像もできない。まあ、どう転んでもいい噂にはならないだろう。それはなるべくなら避けたい事態だった。幸いにも、学校はすぐ近くだ。ほどなく、綾音とは離れられる。また他の生徒達にあらぬ誤解を受けそうだが、今更だ。こんな状況は今に始まったことではない。

「それで、学校にはもう慣れたか?」

綾音は、今一年生。一ヶ月前、天城学園に入学したばかりである。元々、そんなに頭のよい方ではなかったが、真希と一緒の学校に通うため猛勉強したらしい。

「あ、はい。友達も何人かできましたし、先生も面白い人ばっかりですし」

「そりゃまあね」

「あ、着いちゃいましたね」

校門まで来た。綾音が残念そうな声を出す。

「うん。じゃあ、僕は教室に行くから」

「はい。お昼休みにまた」

そう言って、たたた、と一年生の玄関に駆けていく。

ここ、天城学園は四つの校舎から成り立っている。手前から一年生の校舎、二年生の校舎、三年生の校舎、特別教室のつまった校舎の順番だ。グラウンドも広い。野球部とソフト部と陸上部、その他諸々の運動部が同時に練習してもまだ少し余裕があるほどだ。東京ドームとタメをはるほどの体育館といい、全校生徒が同時に座れるほどの食堂といい仮にも都内のはずなのに、異様な敷地を誇る天城学園であった。

「お昼休みにまた、か」

真希は、ふうとため息を吐き、三年生の校舎へと歩いていく。その足取りは重い。原因は、道行く生徒たちの敵意に満ちた視線だった。それも一つや二つではない。真希と綾音のツーショットをみた男子のほとんどが、真希に痛々しい視線を送っていた。

僕も有名になったもんだ。

げんなりとしつつ、真希は歩を進める。

なぜか、綾音は天城学園においてかなりの人気を誇る。入学と同時に本人未公認のファンクラブまで設立したらしい。今では、三年生にいるもう一人と人気を二分しているそうだ。それが、真希が綾音を避ける一端を担っている。

もう一度大きなため息を吐き、教室の扉を開く。中には見慣れたクラスメイトたちの姿。二年生から三年生へはクラスが同じだったので、新しい出会いとかはなかった反面、気楽ではあった。

そのクラスメイトの一人が真希に近付いて来る。髪の毛は赤く染めており、耳にはピアス。制服はだらしなく着崩していており、おまけにいつも不機嫌そうな表情をしているので、見事に不良といった雰囲気を醸し出していた。

「よお。あいかわらず幼なじみに振り回されてたな」

その男がからかうような口調で話しかけてくる。

「……見てたのか」

「ああ。俺としちゃ、うらやましい限りだけどな。なんでそんなに避けるんだ?」

「何度も言っているが、そういうことは僕の身になってから言ってくれ」

言いつつ、自分の机に鞄を置く。不機嫌になった真希に、男は笑いながら、

「わかってるって。冗談だよ。お前の苦労はそれなりにわかってるさ」

そう言って、にかっと笑う。この男は稲山京一と言う。真希の中学からの友達で、不良っぽい外見に似合わず、特に悪いやつではない。それなのにいつも誤解されて心外だと本人は言う。それならそんな格好をしなければいいのに、と真希は言うが、なにか、真希にはわからないこだわりがあるらしくその格好を変える気はないようだ。

「そういえばさ。今日、帰りにカラオケに行こうかって話になってるんだが、お前もどうだ?」

京一の誘いに、真希は少し考えて、

「遠慮しとく。今日は、ちょっと仕事が入ってるんだ」

「仕事ぉ? また例の夜のアルバイトか? お前のそれって、もの凄く不定期じゃねえか? いつも別々の日のような気がするぞ」

「そういう仕事なんだ」

「ヤバイ方面のやつじゃないだろうな? まだ高校生の分際で」

「そんなことないよ。……まあ、確かに少し特殊だけどね」

そう言ってはぐらかす。本当のことを言ったら、まず精神科に連れて行かれることだろう。

「っと、長さん(担任のあだ名。本名、長渕育雄。二十六歳、独身)が来たか。じゃな」

「うん」

まだ納得していないようだったが、京一は自分の席に帰っていった。

そして、今日も一日が始まる。