第二話

 

 それは、参考書を買いに、街まで出かけたときだった。いきなり、僕の隣に赤い車が止まったかと思うと、窓が空いて中から軽薄そうな顔が覗いた。

 そいつは、性格の悪そうな笑みを浮かべ、ツッコミを待っている。その顔を見た瞬間、殺意が沸くのは自然な流れと言えるだろう。

「……で、どこから殴ってほしい? 杉村」

「凶暴だな。なんで、俺が殴られなきゃいけない? 俺は“今日はまだ”なにもしていないぞ」

「僕の義務だ」

 言い切ってやる。だが、やつは僕の殺気をたやすくスルーした。ここらへん、付き合いが長いだけのことはある。

 しかし、さすがに公衆の面前でボコにするわけにもいかない。杉村の台詞には不穏当な表現が入っていたようだが、まさかそれを理由にするわけにもいかないだろう。僕は、ため息を一つついて、猛った心を静めた。

「それはそうと、一つ聞きたいんだが、どうしてお前が運転席に座っている?」

「愚問だな。俺はもう十八才だ。四月生まれだからな」

 ほれ、と懐から免許を取り出しながら、杉村は車から降りてきた。

「たしか、校則で免許を取るのは禁止されているぞ」

「そうだったっけ? まあ、ばれなきゃ問題ない」

「おまけに、この所得日。停学期間中に取ったな?」

「合宿で」

 悪びれもせずにあっけらかんと言う。

 この前のテスト問題を盗んだ件で、こいつはしばらく停学をくらっていた。明日からそれも解けるのだが、このことがばれたら、さらに延長されそうだ。

 杉村が、家で大人しくしているわけもないとは思っていたが、なにをやっているんだか。

「これから帰るんだろ。家まで乗せていってやるぞ?」

 カマ〜ンと、アメリカンな口調で助手席を勧めてくる。

「……初心者マークすらつけていない癖に、本当にちゃんと交通ルールは覚えているのか?」

「交通法規なんて、メじゃないぞ」

 人を不安にさせるのが得意なやつだ。

「僕は、国家権力に敵対したくない」

「ははは、春秋は面白いことを言う」

 その作り笑いが胡散臭いんだよ。臭すぎて鼻が曲がりそうだ。

「やっぱり、僕は遠慮……」

「っと、もうこんな時間だ。早く乗れ、春秋」

 なにかを言う前に、助手席に押し込まれた。文句を言う前に、杉村が運転席に座り、エンジンをかける。

 グァガラドギェスピ%%&#$*+???“#!!

「ちょっと待て! これって、本当にエンジン音か!?」

 前部から奇怪な音を響かせながら、ゆっくりと車が動き出す。

「ハハハ、春秋は本当に面白いことを言う。決まっているじゃないか」

「誤魔化すな! いったいどんな改造をした!」

「HAHAHAHAHAHAHAHA!」

 まさにアメリカ〜ンという感じの声で笑う杉村が、異様に憎たらしかった。だけれども、ハンドルを握っているやつを殴るわけにもいかず、せめて事故だけ起こらないように祈る。

「待て! ちゃんと左車線を走れ!」

「おっと。つい、ヤンドーラ共和国での癖が」

「どこの国だ、それは!」

「そこは常夏の楽園。夢見る冒険家たちのユートピア。神の御座に最も近きところ。それがヤンドーラ。ヤンドーラ共和国でございまぁす!」

「架空の国だろ、間違いなく!」

「なにを言う。ちゃんと実在する国だ。赤道直下のどっかに」

「信号が赤だぁ!」

「知らないのか? 信号の、青は『とにかく進め』黄は『突撃』赤は『かわしつつ進め』なんだぞ?」

「見え見えの嘘をつくんじゃない! ……って、待て! ダンプに突っ込むな! 死ぬ死ぬ死ぬ死ぬぅ!?」

「YA〜HAHAHAHAHA! 見よ、必殺高機動型第七回転ドリフトォ!」

 ……結論から言おう。奇跡的に、死ぬことはなかった。

「で? ここは?」

「む、春秋。表札が見えんのか? 『志藤』と書いてあるじゃないか」

「ほほう。確か、僕の家に行くんじゃなかったのか?」

「心配するな。あとからちゃんと送ってやるよ」

「二度と貴様の運転する車に乗るか」

「嫌われたもんだ」

 と、杉村は肩をすくめる。つーか、嫌わない方がおかしい。あれは運転じゃない。ただの暴走……いや、破壊活動だ。

「ちょっと、京香に手伝いを頼まれていてな」

「なにを」

「アシ」

 足? なんのことだ?

「まあ、入れ。お前もよかったら、一緒にやってくれ。人手は多いほうがいい」

 勝手知ったる従姉の家、とばかりに呼び鈴すらおさずに杉村が玄関に入る。

「志藤さんの手伝いならいいけど……」

 こいつがかかわると、ロクなことにならないんだよなあ。いくら、あのクールな志藤さんとは言え、こいつの不思議時空に捕らわれてしまえば、どうなるかわからない。

「とかなんとか言っている間に、ここが京香の部屋だ」

 家の人は誰もいないのか、ここまで誰にも会わずに部屋まで着いてしまった。

 このドアの向こうが志藤さんの部屋か……。しかし、冬夏以外の女の子の部屋に入るのってのは初めての経験だ。一体、どんな感じだろう?

 志藤さんの性格からして、あんまり余計なものをおいていない、シンプルな部屋だろうか。

「おーい、京香。来たぞー」

 ノックもせずに、杉村が部屋の中に入った。恐る恐る、僕も続けて入る。

「誠一郎、遅い」

「まあそう言うな。追加でもう一人助っ人を連れてきたから」

「助っ人?」

「おお。春秋だ」

「……四季くん?」

 志藤さんの訝しげな視線が僕を捕らえる。ただ、僕はそれどころではなかった。

 部屋は六、七畳ほどの広さだろうか。入ってすぐ横のところにあるどでかい本棚には、所狭しと漫画が詰め込まれていた。

 まあ、それだけならばいい。ちょっと意外な趣味だな、で終わる。

 それだけじゃなかった。

「………………じゃ、僕は帰るから」

 いくらなんでも、男同士が絡み合っているような本が乱雑に積んであるような部屋に長居はしたくない。しかも、表紙の感じからして、十八歳未満お断りっぽい。僕の精神が耐えられるとはとてもじゃないが思えなかった。悪いが、僕は健全な趣味を持つ一般人なのだ。どこかの大学の漫画研究会のメンバーとは違う。

 回れ右をして、歩き出そうとした瞬間、肩に手が置かれる。

 引きつった顔で、後ろを見てみると、志藤さんが幽鬼のような瞳で、僕を睨み付けていた。

「み、見てません! 僕はなにも見ていない……」

 感情のこもっていない視線に射竦められ、言葉が尻すぼみになっていく。怖い。僕は死を覚悟した(今日二回目)。

「ばれちゃあ、仕方ないね」

 東京湾とかに沈められるんだろうか? それとも、富士の樹海に埋められるとか?

「誰にもばらさない?」

 首が千切れるかと思うほど、僕は首を縦に振った。

「じゃ、アシスタントよろしく」

 ゆらり、と志藤さんが元の位置に戻っていく。なるほど、足じゃなくて、アシスタントか、と現実逃避してみたり。

 杉村はというと、テーブルについて、なにかの紙に熱心に作業していた。

「なに、これ?」

「私が出してる同人誌の原稿。今ちょっと、締め切りがやばくて」

 同人誌と来た。しかも、ちらりと見た感じ、本棚にある本や、部屋に転がっている本と同系列のブツだ。……やばい。ここらで逃げないと、人格が変わってしまいそうだ。

 じりじりと後退する僕の手が、何者かにとられ、そのまま極められる。

「逃げる気?」

 再び、志藤さんが僕のすぐ傍に来ていた。無表情で腕をとって、凶悪なまでに捻り上げてくる。そういえば、志藤さんって、合気道&剣道の達人だって、聞いたことが……

「ま、まさか。トイレはどこかな〜って」

「そう。一階、玄関のすぐ傍よ」

 と、志藤さんは戻っていく。逃げたら明日、学校で殺される……。

 僕は、尊厳よりも命をとることにした。

 

「あ、兄さん、お帰り」

「ああ……」

「? どうしたの。そんなにやつれて」

「ん……ちょっと、な」

「今日は早めに寝たほうがいいよ」

「ああ。……冬夏」

「え?」

「確か、志藤さんに憧れているって、言ってたよな」

「うん。かっこいいし、颯爽としてるし。文武両道で、絵もうまいんだよ。女の子なら誰だって……」

 絵は確かにうまい。それは今日、とっても嫌な理由でよくわかった。

「……志藤さんは、やめとけ」

「え? どーゆーこと? ねえ、兄さん? 無視しないでよー」

  僕の意識はそのまま暗転してしまった。