「姫様。朝でございます」
侍女のそんな声で目が覚める。昨日も遅くまでルーファスからもらった魔法書を読みふけっていたのでとてつもなく眠い。
ただ、幼いころから徹底的に叩き込まれた礼儀作法やら王女としての心構えやらが、あたしにそんな本音を表に出すことを防いだ。
「おはよう。いい朝ですね。すまないけれど、朝食を持ってきてくれるかしら」
「かしこまりました」
よく教育の行き届いた侍女はぺこりと一礼して部屋から出て行く。それを確認して、大きなあくびを一つしてから、あたしは着替え始めた。
あたしの名前はサレナ・ローラント。一応、この国の第一王女である。
第32話「ある日のサレナ」
侍女の持ってきてくれた朝食を平らげる。その侍女――ティナはいつものことながら、後ろに控えている。……あたしより二つ三つ年下の癖に、なんでこうも職務に忠実なのだろう。もう少しフレンドリーに、一緒に食卓を囲むくらいのことをしてほしい。後ろからじっと見つめられた状態だと、非常に食べにくい。
「ねえ、ティナ」
「なんでしょうか、姫様」
彼女の表情に、少し不安そうなものを感じ取って、あたしは口をつぐんだ。
……お願いだから、その機械のような応対は止めて、と言おうとしたのだが……やめた。
彼女はただ、融通が利かないだけなのだ。感情がないわけではない。あたしがそう言ったら、表面上は何事もなかったかのような「前向きに善処します」とかなんとか言うだろうが、そこはかとなく傷ついた表情になるだろう。
下級貴族からあたしの身の回りの世話のため寄越されてきたこの娘と付き合って、そろそろ一年。大分、その微妙な変化も読み取れるようになってきた。
「……今日の朝食はおいしかったと、コックに伝えておいて」
「かしこまりました」
なにか咎められるとでも思っていたのだろうか、ティナの顔がほっとする。まあ、それを見抜けるのはあたしくらいのもんだけれども。
「姫様。朝食を食べ終わりましたら、帝王学の学習です」
「あー、はいはい」
今日は日曜日で、ヴァルハラ学園のほうは休みだが、一応、王女としての予定がたまっているのだ。
「そのあと、たまっている公務を片付けてもらいます。その後、昼食。……午後からの予定がぽっかり空いているのですが、また、あの方がいらっしゃるのですか?」
「あー、うん。来るわよ」
「差し出がましいようですが……いくらご学友とはいえ、男性を姫様の私室に招いていると知れたら、国王や女王様からどんなお咎めが……」
「わかってるって。そんなへまはしないわよ」
今日は、ルーファスが来て召喚魔法の講義に来てくれる。基本的に城の者には内緒にしているのだが……もてなしたりする都合上、ティナだけは知っているのだ。
「……左様ですか」
と、それ以上は追求せず、ティナがゆっくりと食べ終わった食器を片付けていく。
……さて、気合を入れよう。すぐに、帝王学の家庭教師が来るのだ。
ドサッ
「う……ティナ。あとどのくらいあるの?」
「これで最後です」
目の前にうずたかく積み上げられた書類。あたしが片付けなくてはいけない仕事だ。
……お父様のやるべき仕事が多くあるのだが、将来国を継ぐものとして仕事に慣れておけ、とあたしに任せられる仕事は決して少なくない。娘にほいほいと押し付けるような仕事じゃないと思うのだが。
「ったく……あのくそ親父め」
このくらいの悪態は許されると思う。
「姫様。その言い草はどうかと思いますが」
「あんたも言うようになったわね」
少なくとも、出会ったころはあたしに意見なんてしたことなかった。
「褒め言葉と受け取っておきます」
「……ほんとに言うようになったわ」
いい傾向だ、と思う。少なくとも、まったく感情をあらわしてくれないより、こっちのほうがよっぽどマシだ。
「ま、早く終わらせましょうか」
と、羽ペンを片手に、あたしは書類の攻略にかかった。
さすがに、比較的軽い仕事ばかりなので、さくさくと片付けられるが……量が量だ。全体の半分しか終わってないのに、お昼の時間になってしまった。
「あー、ティナ。サンドイッチかなんか、軽い食べ物持ってきて」
「承知しました」
そして、ティナが出て行くとほぼ同時に、がら、と窓が開く。
「……あれ? まだ取り込み中だったか?」
その窓から、ルーファスがひょいと顔を覗かせた。……ちなみに、ここは三階である。ベランダとかも、ない。盗賊防止用に、魔法を使ったら簡単に探知されるので、魔法を使ったわけでもないはずだ。
「いつも思うけど、よくそんなところから入れるわね」
「まあな」
窓の10メートルほど向こうにある樹に登って、そこからジャンプ。窓のわずかなでっぱりに指を引っ掛けて……とまあ、ルーファスの侵入経路はこんなところなのだが、そもそも警備の厳しい城の敷地内に侵入すること自体難しいし、ましてや樹に登るなんて不可能に近い。運良くできたとしても、どこのだれが魔法も使わず樹からこの窓へ飛び移ったりできるのだろうか? 「ちょっと気孔術を習えば誰でもできるぞ」とか言ってたが、そもそも気孔術自体、使う人はもうほとんどいない。
「まあ、見てのとおりあたしは仕事中だから、ちょっとゆっくりしてて」
「ああ」
ルーファスはどっか、とソファーに腰を下ろす。城の中で最高クラスの部屋にいる一般人の振る舞いではないが、まあこいつにそういう常識的なことは言っても無駄だろう。
「姫様。お待たせしました……る、ルーファス様。いらしていたのですか」
? 今一瞬、ティナの顔に目に見えるほどの動揺が走ったような気がしたのは気のせいだろうか。
「あ、うん。お邪魔してる」
「姫様。サンドイッチは少々時間がかかるということでしたので、おにぎりを持ってきましたが」
「あー、十分十分」
ティナが差し出したおにぎりにかぶりつく。中身はおかか。……ふむ、なかなか絶妙な味わい。握り方がうまくないと、こうはいかない。
「……お前、仮にも王女だろうが。おにぎりとはいえ、もっとこう上品に食べたらどうだ」
「馬鹿いわないでよ。ナイフとフォークで食えとでも言うの?」
三個あるおにぎりを次々を胃袋に収め、最後に緑茶をぐい、と飲む。
なかなか幸せな感じだ。
食べ終わって、黙々と書類仕事を続けること三十分。なんとか全部終わった。
「よし……っと。じゃ、始めましょ」
「……つーことで、下位のものならともかく、上位の悪魔を呼び出そうとする場合にはそれなりの儀式やら手順やらを踏まなきゃいけないわけだ」
「そんなことは知ってるわよ。だから、その儀式やら手順やらの具体的な方法が知りたいの」
「……お前、俺に教わってる立場ってことを時々忘れているだろう」
いや、重々承知しているんだけど。
「そこらへんのことはこの本でも見て覚えてくれ」
「あ、なんだいいもん持ってるんじゃない」
見てみると、やたらおどろおどろしい表紙に、古代語で書かれたタイトル。悪魔系召喚魔法の魔法書なんてこんなもんだが。
「まあ、勉強はそれでしてくれ。あとは、いつものやつ、いくか」
「おっけー」
そう言うと、ルーファスはいつものとおり亜空間への扉を開く。……亜空間魔法なんて、始めてみたときは飛び上がるほど驚いたもんだが、もう慣れた。
その扉を潜り抜けると、見渡す限りの荒野に出る。なんでも、ルーファスの『戦闘用』の空間らしい。
「よし、こい!」
「……ずーっと思ってるんだけど、これって講義じゃないわよね」
言いつつ、地面に手を当て、呪文を唱える。
「『我が従僕たるもの。闇に住まいし、魔の眷属。我が声に従い、闇より這い出よ』」
唱え終わると、闇を絞ったような皮膚を持った禍々しい形相の悪魔が出現する。アークデーモンといってレッサーデーモンの親分的存在だ。
けっこう上位の悪魔で、ルーファスと出会う前なら召喚しようなんて思いもしなかっただろう。
「く……うう」
『俺は自由だぜ!』とばかりに、あたしの束縛から逃れようとするアークデーモンを必死に押さえつける。今のところ、唯一『儀式』を済ませた上位悪魔なのだが……やはり、あたしの力量ではまだ無理か。
全力でやったが、アークデーモンはあたしの束縛なんていともたやすく引きちぎり、術者のあたしに襲い掛かってくる。
だけど、あんまり慌ててはいなかった。なんせ、人類最強ともいえるやつがすぐそこにいるのだから。
「っと、突然呼び出して悪いが……」
案の定、アークデーモンの爪があたしに突き刺さる直前、その手をルーファスは引っつかみ。
「もう……魔界にご帰還願う!」
さらに首根っこを押さえつけて、召喚のために描いた魔法陣の中心にアークデーモンを押し込んだ。
パンパン、とルーファスは手を払うと、
「んー、呼び出してすぐ襲われるってわけじゃなくなってるけど、まだ無理か」
「まあ、もう少ししたらなんとか抑えられると思う。なんかコツが掴めてきた感じ」
こいつがあたしに教えたことといったら、最初にあたしの術式の間違いを指摘してくれたくらいで、あとはずっとこんな感じの実践ばっかりだ。
なんでも『百聞は一見にしかず。百見は一実践にしかず』らしい。
「よし。次だ」
「……ちょっとは休ませてよ」
「だめだ。きつければきついほど、魔力はアップするんだ」
はあ、とため息をついてレッサーデーモンを召喚。こいつらはすでに、詠唱なしでも召喚可能になっている。
「いけ!」
三体のレッサーデーモンに命令を下す。『ルーファスを倒せ』という命令を。
……まあ、あくまで修行だ。向こうも加減しているので、一瞬でおしまい、というわけじゃない。
「ほれほれ。今の俺の手加減レベルは20だぞ。がんばれば一撃くらい当てられる」
「だから! それはどういう基準なのよ?」
三体のレッサーデーモンはあたしの意思のまま見事な連携でルーファスを追い立てるが……かすりもしない。
ならば!
『グォォ!』
レッサーデーモンがひときわ大きな咆哮をあげ、地面に拳をたたきつける。一瞬、石が飛び散り、ルーファスの視界がふさがれるという寸法だ。そして、その隙に三体が同時攻撃。
ダメージはないにしても当たりはするんじゃないかな、というあたしの甘い考えは次の瞬間吹き飛んだ。
まず、レッサーデーモンの一匹が吹き飛んだ。その後を追うように、ルーファスが煙の中から飛び出してくる。
「ま、惜しかったな。俺に手を出させただけでもたいしたもんだ」
わかってたわよ。えー、わかっていましたともさ。
あたしは無言で次の攻撃の指示を出した。
で、今日の結果。21戦21敗。一撃でも入れればこちらの勝ちなのに、今まで一回も勝ったことがない。
「っと、そろそろ終わるか」
「う……ん」
すでに、あたしは息も絶え絶え。
亜空間を扉を抜けて、あたしの部屋に帰ってみると、ほとんど同時ににドアが開いてティナが入ってきた。
「姫様、ルーファス様。お茶をお持ちしました」
「あ、あー、ありがと。ははは」
あ、危なかった。あと一秒遅かったら亜空間から帰ってくるところをばっちり見られるところだった。
隣にいるルーファスも、平静を装っているが、こめかみに汗を流しているのをあたしは見逃さない。
「? 姫様。なぜそんなに息を切らしていらっしゃるんですか?」
「な、なんでもない! なんでもないって!」
ティナは不審に思っただろうが……それ以上の追求はせず、持ってきた紅茶を並べ始める。
「どうぞ」
「あ、ありがとう、ティナちゃん」
ルーファスが誤魔化すようににっこり笑う。
そこで、なぜか……本当になぜかティナの手元が狂い、熱い紅茶がルーファスにぶちまけられた。
普段のルーファスなら、そんなもの避けるなりなんなりするのだが……ティナにさっきの亜空間の扉を見られてやしないかとびくびくしている今の状態ではそんな器用なことできなかったらしい。
「うあっちぃぃぃぃ!!!?」
まあ、はねるはねる。
彼も一応は人の子だったらしい。
「あああ……!? 大丈夫ですか、ルーファス様!?」
「ひぃ、冷えろ!」
ルーファスが声を上げると、どういうわけか蒸気が一瞬にしてなくなる。ルーファスが平静を取り戻したところを見ると、あれで温度が下がったらしい。……一体なにをどうやったか、是非聞かせてもらいたいものだ。
「すみませんすみませんすみませんすみませんすみませんすみません!!」
ティナが必死で頭を下げる。……ああ、なんとなくわかった。この娘、もしかしたら
「ああ、平気平気。びっくりしたけど、火傷とかもないみたいだし」
ルーファスが、湯のかかった足を見せる。事実、あんなにたくさん熱湯がかかったのに、赤くすらなっていない。
……どういう体の構造をしているんだ、この男は。
「いえ、だからといって、このままでは私の気がおさまりません! 服は洗わせてください!」
「は?」
とか言いつつ、ティナはルーファスのズボンをはがしにかかる。
「お、おい? ちょっと待て」
「さあ、脱いでください!」
いや、ティナ、セクハラだって。
「冷静になってくれ、ティナちゃん! 止めろって! お願い!」
「ここまで来てじたばたしないでください!」
他の人が聞いたら、誤解するかもね〜。どうせ人事なので、面白おかしく観察することにした。
おお、ルーファスのズボン、だんだんずれてきてるわね。
しかし、ティナ……意外と強引ね。おまけに、一つのことを思い立ったら他のことが見えなくなる性格だし。
「さあ、きりきり脱いでもらいますよ!」
「や〜め〜て〜く〜れ〜〜〜!!!!」
さて、ルーファスはなんとか男の尊厳を守りきった。必死の形相で窓から脱出したときは半ば泣きそうな顔だったが。
で、今は夕食。
「ねえティナ」
「なんでしょうか、姫様」
ティナはというと、もういつもの調子だ。……『あんなこと』をしたようには見えない。
「……いつからルーファスにほれたの?」
びくぅ!
ティナは面白いように反応した。
「ななななな、なにをおっしゃりますか、姫様」
「隠さなくていいわよ」
「な、なにも隠してなどいません!」
その反応だけで、十分すぎるほど確証は得られた。
「で、なんでなの?」
もう逃げられないことはわかっているはずだ。ティナの顔に諦めの色が浮かぶ。
「…………以前、街でごろつきに絡まれたとき、助けてもらって」
また、お約束な展開。
「それからたまに相談とかに乗ってもらって、いい人だな、と……」
いつもの無表情はどこへやら。真っ赤になって説明する。
しかし、ルーファス……一体どうやってリアたちの監視の目をすり抜けてこの娘をたらしこんだんだろう?
「まあ、好きにすればいいと思うけどね。意外に競争率高めみたいだから努力しなさい」
「……姫様も?」
「あたし? 冗談でしょ」
嫌いじゃないけれど、男としてどうとか、そういう対象じゃあない。
そもそも、ローラント王国第一王女として、あたしの婿は他国の王族か、この国の力のある貴族かどちらかに決まっている。
「本当ですか……?」
「本当よ」
ティナをいじめてやろうと、このあとに一つ付け加えた。
「ま、あたしに自由恋愛が許されていたらわかんなかったけどね」