一瞬、視界を覆った紅蓮に目を焼かれ、瞼を閉じていたフィズは、改めて目を開けて驚愕した。

ちりちり、と川原の石が煙を上げている。それ以外、目に付くものは一つもない。

 つい先ほどまで、辺りの風景が見えないほど密集していた魔物も、その中心に在った“侵食”の穴も、完全に消え去っていた。

 隣には、未だ荒く息をついているクレス。その手はしっかりとレヴァ教の聖剣エレメンティアを握り締めている。

「くっ……」

 胸中を渦巻く混乱を、無理矢理押し留めて、目を上にやった。

 いつの間にか日は落ち、空には星が瞬いている。見える星は少々違うが、故郷と同じ星空だ。修行中そうしていたように、星を一つ一つ数えて、ようやく考えるだけの冷静さが戻ってきた。

「……返せ」

 クレスからエレメンティアを取り上げる。

 体を支えるものがなくなって、クレスは崩れ落ちる――寸前に、フィズに抱きとめられた。

 呆れたようにため息をついたフィズは、エレメンティアを背の鞘に収め、クレスを支えなおす。自分より頭一つは小さな少女の肩を借りることに抵抗を覚えたのか、クレスは身を捩って逃れようとするが、分不相応な魔法の反動のせいで殆ど力の入らない体ではそれは叶わない。

 あれだけの魔物を一掃した人間がそんな情けない姿を晒していることに、フィズは少し苦笑を漏らす。それに不満を持ったのか、クレスは死にそうな顔で文句を言い出した。

「一人で、歩けるから……」

「そんな大口は、しっかりと立つことができるようになってから吐け」

 叱咤して、とりあえず教会の方角に歩き出す。引き摺られるような形になったクレスは慌てて、

「す、少し休めば治るって」

「なら、ちゃんとベッドのあるところで休んだ方がいいだろう」

「い、いやそれはそうなんだけど、その……」

 言い訳を聞く時間も惜しい。ほら行くぞ、と言葉ではなく行動で示すことにする。完全に脱力している人間を運ぶのは、けっこう大変なものだが、フィズの普段の鍛錬の成果により、それほど苦もなく移動することができた。

 しかし、クレスはまだぐちぐちと文句を言っている。

 いい加減、辟易してきたフィズは、面倒くさい奴だな、と感想を漏らして、じろりと力の入っていないクレーマーを睨んだ。

「やかましい。これ以上ぐだぐだ言うなら、伝え聞くお姫様抱っことやらで運んでやるからな」

 十四の少女にお姫様抱っこされる十七歳男の図。想像するだに、情けない。フィズが背負っている剣もあいまって、まさに囚われのお姫様(男)を救い出した勇者のような絵になってしまう。

 しかも、今それを敢行されたら、クレスには抗う術がない。文字通りぐうの音も出ず、渋々と今の状況を甘受することにした。

 少しずつ、教会へと歩を進めていく。

 道半ばに来た辺りで、道中ずっと無言だったフィズがぽつりと口を開けた。

「クレス」

「……なに?」

 その口調に、これ以上ないほどの真剣味を感じたのか、クレスは自然と顔を強張らせる。

「お前は、自分がとんでもないことをしたことを、自覚しているか?」

 少し殺意が混じったかもしれない、とフィズは反省した。

「いや……無我夢中だったから」

「無我夢中だろうが、茫然自失だろうが、お前が『聖女しか使えない』という神託を受け、下された聖剣を扱ったことは事実だ。神託が覆された、なんてことになれば、お前は処刑されかねないぞ」

「それは……困ったね」

 大して困ってなさそうにクレスは返した。

「ああ、参った。しかし、わたしの立場としては、こういったことは報告すべきなんだ」

「なんとかならないかな」

「ならない。なんなら、わたしが介錯してやろうか? 拷問の末、嬲り殺されるよりマシだろう」

 フィズが脅かすようにニヤリと笑うと、クレスはいやだなぁと笑った。

「でも、とりあえず、そんなことを考える間にゆっくり休みたいよ」

「そうだな。わたしもすぐ出立するつもりだったが、それはしばし延期だ。とりあえず、今晩はまた村に泊まらせてもらおう」

「そうしてくれると、嬉しいよ。ぱぁーっと祝勝会兼送別会をしようか」

「馬鹿。お前はその前に体を回復させることを優先させろ。そもそも、明日はすぐに出発する」

「ああ、平気平気。大きな魔法使った過負荷だけだから、食べるもの食べて、一晩寝れば治る……と思う」

 遠くに教会の明かりが見えてきた。同時に、騒がしい声がここまで聞こえてくる。

 多分、宴会の流れになったんだろうな……と益体もない想像をしながら、クレスは段々と眠くなってきた。寝る、と口に出したのがいけなかったのだろうか。

 自覚した途端、体の隅々にまで行き渡った疲労がどっと押し寄せてくる。

「おい、こら。寄りかかってくるんじゃない」

「……ああ」

「ああ、ってわかってないだろう」

「も、お姫様抱っこでもいいよ」

「その話はとっくに終わって……待て、お前、どこに顔をうずめて――」

 正体不明の柔らかい感触を役得とばかりに味わいながら、クレスは意識を手放した。

「……くっ、今回だけは、見逃してやる」

 珍しく――というより、初めて――顔を赤くしたフィズの顔を、寝惚け眼で観察しながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「う……ん?」

 もぞもぞ、と布団の感触を楽しみながら、目をこする。

 なにやら、外が明るい。

 太陽も、まぁ見事に昇っていて、この部屋からこの角度の太陽を見るのは随分久しぶりだなぁ、と呑気な感想を抱いていたクレスは飛び起きた。

「パンッ!?」

「起き抜けに、なにを言っているんですか君は」

 呆れたような声が部屋の入り口の方からかけられる。

「……あれ? 神父」

「神父、じゃないですよ。まったく。朝食の心配をする前に、自分の体を心配しなさい」

 そこまで言われて、クレスはやっと昨日の出来事を思い出した。

 まだ少し体はだるいが、大分復調している。

「そういえば、フィズは?」

「今度は、フォルトゥーナ様ですか……。彼女は、今旅支度をしている真っ最中ですよ。どうも、部屋が散らかっていて、自分の荷物を纏めるのにも一苦労だとか」

 そりゃそうだろうなあ、とクレスは苦笑いする。

「とりあえず、食事は私が用意しておきました。テーブルに置いてありますから、食べておきなさい」

「うん。フィズの見送りもしないといけないしね」

「その、まぁその通りですが」

 言いよどむ神父に、少し不自然なものを感じながらも、クレスはそれを特に追求することなくベッドから立ち上がった。昨日の服装のままなので、下着も含めて替えなくてはいけない。

「……あれ?」

 タンスから着替えを取り出そうとしたら、少しスペースが空いていた。

「ああ、荷物は纏めておきましたから」

 神父が、部屋から去り際、そんな言葉を残す。

 その年季の入った指が指し示す方には、確かにクレスが隣町(と言っても、普通に歩いて半日はかかる)に買出しに行くときに使うズタ袋が膨らんでいた。

 しかし、隣町に行くにしては随分荷物が多い。まさか、昨日の今日でもっと遠くの――例えば王都とか――街にお使いに行けとか言わないよな……と危惧しながら、着替えをする。

一応、ズタ袋とともに旅用の外套を手に持って台所に行くと、旅支度を万端整えた様子のフィズがもふもふとパンをかじっていた。

「クレス、起きたか」

「あ、うん」

 どうしても、彼女の脇に置いてあるエレメンティアのほうに視線が行ってしまう。

 そう言えば、昨日フィズはなにやら物騒な事を言っていた。まさか、フィズがそんなことするはずないだろう、と思ったからその時は流したが、実は結構本気なんじゃないだろうか、と今更ブルブル震える。

「? どうした。食べたらどうだ」

「そ、そうだね」

 そうして、ろくに味もわからない食事を済ませる。

 いつもどおりクレスの三倍をぺろりと平らげたフィズは、ごちそうさま、と手を合わせるとすくっと立ち上がった。

「じゃあ、行くか」

「え? もう出発するの?」

「うむ。本来なら昨日発つはずだったのだからな。とりあえず、次の侵食地域は北……ミナトス王国だ。時間的にはそれなりに余裕がある。少し、途中のレナン辺りを視察していこうかと思う」

「そっか……」

 頷いて、立ち上がる。

 寂しくなるが、これは最初から決まっていたことだ。せめて、精一杯の笑顔で見送ってやろう、とクレスは心に決めた。

 神父もそのために食事を中断して立ち上がった。

「あ〜! フィズお姉ちゃん、クレスお兄ちゃん、もう行くのー?」

 と、いきなりホリィが玄関から突撃してきた。

「なんだ、ホリィも見送りにきてくれたのか?」

「うんっ。他の人たちも来たがってたけど、あまり大げさにしないでくれ、って神父さんに言われてたから、あたしが代表―」

 両手を上げ、自分の存在をアピールする。

 フィズは、そんなホリィの頭をよしよしと撫でた。

「ありがとう。きっと、またこの村には来るからな」

「絶対だよ?」

「ああ。約束だ。ふむ……そうだな。その時は、お土産も買ってきてやろう」

 わーい、と無邪気にはしゃぐホリィに、思わずクレスの頬も緩む。

「でも、ホリィも元気だな。別れることになったら、泣くかと思ってたけど」

「うん。そりゃ、二人ともいなくなっちゃうのは寂しいけど……おめでたいことなんだから、ちゃんとお祝いしなきゃ」

 二人とも?

「さて、それじゃあ、行くかクレス」

 外へ一歩踏み出して、フィズが悪戯に成功した子供のような笑みでこちらを見てくる。

「……え?」

「この剣、お前が使っただろう?」

 ホリィの方をちらりと見て、聞いていない事を確認してからフィズがエレメンティアを指差す。

「そのような人材を放っておくわけには行かない。神託には確かに『聖人、聖女しか使えない』となっているが、それが一人だとは言っていない。つまり、お前も聖人、ということだ」

「え?」

「いざというとき、エレメンティアを使える人間が多い方が都合は良い。だから、同行を命じる。とりあえずは、飯炊き係として」

「クレスくん、やりましたね」

 神父が、無責任に言って、ズタ袋と外套を渡してきた。

「無論、教会には内緒だ。あちらは、聖女や聖人は時代時代に一人だと神託を解釈しているからな。そうと知れれば、殺される。だが、わたしはわたしの見解に基づいて行動する」

「村の人たちには、クレスくんはフォルトゥーナ様の実家へ、結婚の許可を貰いに行く、と説明しておきましたから、そう誤魔化すように」

 なるほど、それでホリィがおめでたいなんて言ったのかー。

「って、ちょっと待ってよ!? い、いくらなんでも……」

「いいじゃないですか。クレスくんも、外の世界を見たいと言っていたことですし」

「それとこれとは……」

「さぁ、行くぞクレス! 断るなら、教会に知らせて、お前は処刑だっ」

 フィズがクレスの腕を引っ張る。

 それにつんのめりながら、クレスは青い空の下に飛び出した。

「え、えええええええええええええええええええええええ!!?」

 

 

 

 

 

 遠ざかっていく小さな影二つ。それを、いつまでも見送りながら、ラス神父は、ぽつりと呟いた。

「それに、多分そっちの方が安全ですし、ね」