そうして、夕方。
 暮れ行く陽が、風景を真っ赤に染め上げている中、フィズは背にしっかりとエレメンティアを結わえ、川原の方角を睨んでいた。
「……全員、揃っているか?」
「はい。村人、総勢百二十三名。全員、確認しました」
「そうか。突然の、全く意味不明の呼びかけに、これだけ応えてくれるとは。有り難いことだ。わたしに代わって、礼を言っておいてくれ」
「はい」
 ラス神父は頷き、つい、とクレスの方を向く。
「クレスくん。私は、中で皆さんに少しお話をしてきます。あとは、よろしくお願いしますね」
「あ、うん」
 飄々と、ラス神父はいなくなる。
 よろしくって、なにをよろしくなんだ、とクレスは渋い顔になった。

 こういう時、どういうことを話せば良いのか、人生経験の不足しているクレスではさっぱり見当もつかない。

「あの、フィズ」

 それでも、沈黙に耐え切れなくて、名前を呼ぶ。

 呼びかけられたほうは、返事もせず、ただ視線だけで『なんだ?』と問い返してくる。

「その……」

 だが、それ以降の会話を用意していなかったクレスは、ただ言い淀むだけで、しばらく無為な時間が過ぎる。

 別に、フィズの方は先を促すわけでもなく、根気よくクレスを見つめていた、

 が、

「そろそろ行かないとならない。……ではな、クレス。世話になった」

 ちらり、と侵食の現場となる方角を見て、視線を逸らした。

 フィズが歩き出す。

 なにかを言わないと、とますます焦るクレスは、感情のままに声を張り上げた。

「ふぃ、フィズ!」

「ん?」

 体はあくまでも前、顔だけで振り向いてくれる。それだけでも、クレスは安堵して、続けてこの状況で相応しい、と必死で考えた言葉を送る。

「さようならっ! それと……頑張ってっ」

 たった二言。なんでもない言葉。これから、命を張って村を守ろうとしている女の子に、たったそれだけしかかける言葉ないのか、とクレスは自分で自分が情けなくなる。

 だというのに、フィズは少しきょとんとして、

「ああ」

 と、なにが嬉しかったのか、薄く微笑んで返事をした。

「だが、クレス。この状況で『さようなら』は縁起が悪い。まるで死ににいくみたいじゃないか」

 だから、とフィズは前置きして、

「またな、だ」

 それだけを言って、手を上げて去っていく。心なしか、先程より歩調が軽い気がした。

 クレスは、その姿に強烈に憧れた。凶悪な魔物を倒しに向かうその後姿は、物語の英雄を思わせる。

 ……自分は、どうしようもないくらいの一般人だ。フィズのような人種が主人公だとすれば、せいぜい彼らに助言をしたり、少し手助けしたりする脇役に過ぎない。

 脇役には、脇役の役割というものがある。

 この教会で、フィズが討ち漏らした魔物を迎撃する……というのは、なるほど、自分の身の丈にあった、『命がけの仕事』だ。一匹か二匹、来るか来ないか、とフィズは言っていたが、それだけでも、クレスにとっては十分すぎるほどの苦境である。

 その数倍、数十倍の苦境に、なんの気負いもなく行くフィズは、クレスのような凡俗とは比べ物にならないほどの実力と胆力を備えているのだろう。

 ――ならば、どうして。あの時、フィズはクレスに、手伝ってくれ、などと頼んだのか。

 ちくりと刺さった疑問の棘に、気付かないフリをして、クレスはフィズの後姿を何時までも見送っていた。

 

 

 

 

 

 

 川原に辿りつき、フィズは一つ深呼吸をした。

 夏の、うだるように暑い空気を肺に満たし、一気に吐き出す。そして、軽く体をほぐす。それだけで、フィズの脳は冴え渡り、戦闘モードへと移っていった。

「……さて」

 背負ったエレメンティアを鞘から抜き放つ。

 相変わらず、圧倒されるような存在感に頼もしさを感じる。

――これさえあれば、魔物などに負けることはない。

かつてフィズに戦いを教えた教官の言葉を、胸中で繰り返す。初めての侵食封印、その役目の重圧と不安を少しでも和らげるために。

さらに、自身の決意を声に出す。

「絶対に、勝つ」

 強気な台詞は、しかし自分の不安さの裏返しだ。それを、内心では理解しつつも、何度も繰り返し口に出す。

 言葉は、力だ。単なる決意も、何度も口にすることで自分の中で絶対の確信へと変わっていく。

 単なる、思い込みと言うなかれ。負ける、と思って臨んだ戦いは、まず間違いなく負ける。逆に、自分の勝利を微塵も疑わずに戦うことができれば、それだけで勝率は段違いに跳ね上がる。

「絶対に、負けない」

 さらに、繰り返した。自分の弱い心を叱咤するように。

 人間とは、まったく違う強さを持った魔物という存在と相対するに、少なくとも気組みで負けているわけにはいかない。これは、必要な儀式だった。

 しばらく、そうしていると、段々と落ち着いてくる。

「……こんなところ、クレスには見せられないな」

 彼には、こんな格好悪いところを見せたくはない。別れ際、あれだけ格好をつけておいて、こんな直前になって怖気づいているなどということが知れたら、幻滅されそうだ。

 ふと、苦笑が漏れた。

 こんなことに思い煩うなんて、この村に来る前からは考えられない。今までは、自分のことに精一杯だった。自分の不甲斐なさに憤ることはあっても、他の人間のことで気分を害されたりすることはなかった。

この村のぬるま湯のような生活で、随分と腑抜けていたようだ。あるいは、周りを見る余裕が出来たという事だろうか。

「まぁ、それも――これで、終わりだな」

いつの間にか、太陽は沈み、星明りだけになっていた。大体、予想通りの時間だ。

フィズの前方、十メートルの位置に、夜の暗さを淡く照らし上げる星の光を拒絶するかのような、漆黒の穴が一つ。

 以前のよりもずっと大きい。フィズの身長ほどもある、本格的な“外側”への穴だ。

 聖女としての感覚が辺りの空気が、染まっていくのを捉える。フィズには、まるで腐臭が充満しているように感じられた。

「これが、侵食、か」

 空気だけではない。大地も、木も、草も、周りのもの全てがこちらを圧迫してくる。そんな敵意が塊になったのが、魔物というわけだ。

 黒い穴から、徐々に分離するように魔物が“発生”する。人の形を模したもの、狼のような黒い獣、果てはそもそも生物かどうかすら怪しい、幾何学的な模様のようなもの。様々な形の、様々な大きさの魔物。その数、十数匹。その全てが、フィズに対して視覚化できるような濃密な殺意を持っている。

「まずは小手調べだな」

 ぶんっ、と手首だけでエレメンティアを振るう。

「おおおぉぉぉっ!」

 気合の雄叫びを上げ、フィズは突進して行った。

 

 

 

 

 

 数キロは離れた位置からでも、侵食の発生は容易に感じ取ることができた。クレスは、あまりに異質な世界が出現した事を直感的に悟り、身震いをする。

「フィズ……」

 祈るように、その方向を見やる。

 何時魔物が来てもおかしくはない……はずなのだが、今はまだこちらに来る気配はない。

 以前戦ってわかったが、魔物というものは違和感の塊だ。あれだけおかしいものが一匹でも近付いてきたら、すぐにわかる自信がクレスにはある。

 この遠間からでも、今フィズが相対している魔物の数がわかるくらいだ。

 最初は十匹ちょいだったのが、今では二十匹くらいに増えている、なんてことも、手に取るようにわかる。

 少し増えたが、フィズは大丈夫だろう、とクレスは思う。

 なにせ、彼女は『またな』と言ったのだ。自分などよりずっと強いフィズの言葉は、力強く、何よりも信頼できた。

「だから、僕は、抜けてくる魔物を始末する」

 自分の役割を再度確認して、精神を集中する。クレスは、己が扱える命令文(コマンド)の中で、最も攻撃的なものを選択し、ゆっくりと周囲の精霊に叩き込んだ。

「“火の精よ”“数多”“集い”“固まれ”」

 ひとまず詠唱を終えると、出現したのは総勢二十八本の炎の矢。

 単純な命令文(コマンド)の範囲内では最も攻撃に優れた火の精霊。それを“数多”“集め”、複数の矢の形に“固める”。

 クレスが必死に考え、実現した五ワーズの魔法。最後の“撃て”の命令文(コマンド)とともに、任意の炎の矢が、目標に向けて発射される。全てではないことがミソだ。

 実戦において、詠唱の時間は致命的なタイムラグとなりうる。だが、途中で詠唱を止めておいて、最後の命令文(コマンド)だけ残しておけば、少なくとも最初の魔法は最速で発動が可能だ。そして、予め作っておいた魔法が、このように複数の弾丸を用意するものならば、二度、三度と高速の魔法の発動が可能となる。

 魔法『フレイムランチャー』。クレスが初めて命名した魔法である。

 名を与える、というのはそれだけで魔法を強化する。意志の力が重要な役割を果たす、魔法という技術の中にあって、命名とは、他の命令文(コマンド)をただ並べただけ魔法から、一つ格上の魔法に引き上げると言う事だ。

魔法は、命令文(コマンド)以上に術者の意思によってその効果を変える。それは応用の範囲が広いという意味にも取れるが、逆に言うとそれだけ不安定なのだ。命名、というのは、効果を一意に決める代わりに、そういったブレをなくすことができる。

 ただ、なんでもかんでも名前をつければ良いというものでもない。元々、魔法の発動とは関係のない言葉だ。意識が強固でないと、容易に名はただの形式上のものになってしまう。強い思い入れや目的意識が必要なのだ。

 じりじりと維持にかかる魔力を削られながら、クレスは感慨深げにその魔法を見た。

「まさか、僕が、こんな魔法を使うなんてね」

 これならば、魔物にも早々後れを取ることはないだろう。以前戦った時は、土木作業用を少し変更しただけの土の槍でも、かなりのダメージを与えられたのだ。

 完全に戦闘に特化したこの魔法なら、恐らく三、四本の矢で、迎撃は可能だろう。

 いくら、魔物が人間を凌駕する力を持っているとしても、この見晴らしの良い場所で、しかもあんなに気配をばらまいた敵を、遠間から射抜くことは決して難しくはない。完全にクレスの思い通りに飛んでくれる炎の矢を操作するのだから、下手したら森での狩りより簡単なくらいだ。

 守りは完璧。だけど、攻撃を担当しているフィズはどうなのだろうか。

「余計なお世話、か」

 意識を集中すると、魔物がどんどん減っているのがわかる。一匹、二匹、三匹、四匹……と、数えるのがおっつかなるほどの早さ。

 はっきり言って、阿呆みたいな強さだ。

 あれだけの数――すでにクレスの感じる魔物は三桁に届きかけている――相手に一歩も引いていない。

「……あれ?」

 そこで違和感を覚えた。

 なんで、あんなに倒しているのに、魔物がいなくなっていないんだ?

 クレスは、慌ててもう一度注意して気配を探る。

「な、んで……」

 フィズが倒すスピードより、魔物が増えるスピードのほうが早い。

 一つの気配が消える間に、二つの気配が出現する。

 ガクガク、と足が震えた。

「だ、大丈夫、だよね。だって、フィズ、強いんだから」

 自分で言っていて、有り得ないと思った。

 向こうは、際限なく出現する魔物の群れ。フィズは、いくら強くても人間の女の子で、いつかは疲労からやられるに決まっている。

 今更ながらに思い出す。フィズが、自分に協力してくれ、と頼んだ事を。

 目の前が真っ暗になる。もしフィズが負けたら、こちらにも魔物が殺到してきて、僕たちは死ぬ……もちろん、それもあったが、“そんなこと”よりもまず、

 フィズが。あの小さくて、不条理で、そして悔しいくらいに格好良い女の子が、死んでしまうという事が、例えようもなく恐ろしかった。