そして、その日。
「今日の日没前後、侵食が始まる」
朝食の席で、フィズはそう断言した。
「……それは間違いないのですか?」
「当然だ」
念を押すラス神父に、フィズは力強く頷いた。
「なんでわかるの?」
やけに確信めいた言い回しをクレスは不思議に思って尋ねた。
クレスが話しかけたことで、フィズは少したじろいだが、すぐに流暢に語り始めた。
「それもまた、このエレメンティアの力の一つだ。侵食の発生を探知する。聖女は、その反応に従って次の侵食地域に向かうのだ」
その講釈を聞いて、そうなんだ、と頷き、クレスは食べ終わった食器を片しにかかる。
「では、その前……一刻ほど前に、皆を教会に集めましょう。少し早く仕事を終えれば、十分に間に合います」
「そちらは任せた。わたしは、これを食べたらもう少し寝て、体力を温存することにする」
「はい。では、寝所の用意を……クレスくーん? 今すぐ布団を太陽の光でふかふかにして差し上げなさい。フォルトゥーナ様の安眠が、村の平和に繋がるんですよ?」
「無理っ!」
がちゃがちゃと食器を洗いながら、クレスは反対意見を飛ばす。
「そこはそれ。君の怪しげな魔法で……」
「布団をふかふかにする魔法なんてない! それに、僕だってフィズほどじゃないけど仕事はあるんだから。なるべく魔力は温存したいの」
「えー。今使っても、夕方までには快復するでしょう?」
「別にそんなことをしなくとも、わたしは安眠できる」
「だ、そうですよー? クレスくん、君は魔力を温存しなさい」
あまりの変わり身の早さにクレスは渋い顔になる。相も変わらず、ラス神父はフィズに対して激甘だ。その優しさ……というか気遣いを、少しは義理の息子にも分けて欲しい。
言っても、どうせ聞きゃしないだろうが。ラス・リーベンという男は、息子を気遣うどころか炊事掃除洗濯その他諸々の家事を押し付け、更には教会の運営すらやらせようとするグータラ神父だ。
「では、寝る。万が一、侵食が早めに発生するようなことがあれば、起こせ」
フィズは、まぁ絶対そのようなことは起こらないだろうがな、というニュアンスを込めて、義務的にそう言って立ち上がる。
自室に向かうフィズの背中を見送るため、クレスは洗い物の手を一時休めた。
「おやすみ」
その背中に、そう一声かける。まるで赤ん坊にかけるように、または獣を手懐けるように、優しく。
ピクリ、とフィズは肩を動かし、
「ああ」
深く、染み入るように返した。少しだけこちらに向けた顔は、笑っていたように思える。あるいは、それはクレスの願望の現われなのかもしれなかったが、彼はそれでも安堵して、仕事を再開した。
「……で」
再び手を止め、今度はやたら冷たい声でギロリと次の背中を睨みつける。
「神父。あなたまで、なんで部屋に戻ろうとしているんですか?」
「いやぁ、あははは。ほら、私も少しは寝ておかないと、夕方に差し支えるかなぁ、って」
「寝ておかないと差し支えるような、そんな肉体労働は神父にはなかったと記憶していますけど。もう一度聞きます。なぜ、部屋に戻ろうとしているんですか?」
「はは、なんでだろうねぇ、ははははは」
誤魔化しの笑いはしかし、長年一緒に暮らしてきた息子には通じず、神父はあまりにも冷たく真っ直ぐな視線にたじろぐ。
「今日も、いくつか回診が入っていたはずですよね?」
「そう、その通り。早く行かないと!」
村の医療を一手に引き受けている神父は、当然毎日のように仕事がある。ただ、この村の人たちは基本的に健康だ。それでも老いとともに病気を患う人はいるが、それはかなりの少数派に入る。
決して、そういう人たちをないがしろにしているわけではないのだが、基本的にサボリ魔な神父は、健康な人が多いのをこれ幸いと頻繁に仕事をサボろうとするのだ。
「そんな事を続けていると、いつか村の人の信頼をなくすよ?」
「いやぁ、あっはっは。肝に銘じておくよ」
だが、こういう風なやりとりも、一種のコミュニケーションのつもりなのだろう。神父が道具の入った鞄をしっかりと用意しているあたりからも、それは伺える。
なんて幼稚なコミュニケーションしか取れない人なんだ、とクレスは時々呆れるのだが、
「さて、私はそれでいいとして、君はフォルトゥーナ様と同じく、寝ておきなさい。君の体調が良ければ、村人たちの安全性は上がるのですから」
「え……」
時々、ちゃんとクレスの事を考えた発言をしてくるから侮れない。
「ほらほら。村の皆さんには、私から適当に説明しておきますから。ああ、洗い物も私がしておきましょう」
「ちょ、ちょっと。背中押さないでよ」
ぐいぐいと、クレスは自分の部屋に強引に押されていく。
「はい、ちゃんと寝るんですよ? 眠くなくても、目を閉じて横になってれば、疲れは取れます」
「別に、疲れているわけじゃ……」
「いえいえ。毎日野良仕事をしていれば、当然体には疲労が溜まっているはずです。ま、ゆっくりと寝なさい」
そう忠告して、神父は部屋から出て行く。
扉を閉じる直前、ラス神父は柔らかな笑みを浮かべ、
「ではクレスくん。良い夢を」
「はいはい」
そうして、クレスは一人になった。
とりあえず、言われたとおり横になろうとする。神父の言う通り、今夜に向けて寝るのは理にかなっている。眠気でぼーっとしたときに魔物に襲われては目も当てられない。
しかし、ついさっき起きたところで寝ろというのもまた無茶な話だ。
それでも目を閉じていると、ふと昔の情景が心に浮かんだ。
『ではクレスくん。良い夢を』
ああ、そうだ。クレスが幼い頃、ラス神父はいつも寝る前にそう声をかけていた。
きっと、あれはまじないの一種だ。クレスは、そう声をかけられた夜、悪夢を見た記憶がない。
遠い記憶。
思い出しているうちに、クレスの意識はいつの間にか闇に沈んでいた。
詳しい事情はわからない。少しモノを考えられるようになってから、幼い頃の断片的な記憶と、神父の煙に巻くような僅かな会話から推測したことだから、間違っていることも多いだろう。だけど、
……多分、両親が悪かったわけではなかった。
船乗りだった父は、必要な物資を必要な場所に届ける仕事をしていた。母は、そんな父の仕事先の住人の一人だった。
そして、ごく普通に出会って、ごく普通にお互いが惹かれあい、ごく自然な流れで子供を授かった。
その流れに、やましいところは一つもない。生物として、当然のこと。
だから多分、悪かったのは母親の周りの人間。伝統、掟、戒律、そんな妄執に取り付かれた閉鎖社会の者たち。
彼らは、自分たちの一族の血が薄められることを極端に恐れていたらしい。
それを知っていた母は、懐妊に気付くと同時、父の船に乗って逃げ出し、そしてどこか遠くの国で、僕を産み、育てた。
……ここまでは、完全に神父からの受け売りだ。
そして、ここからは少しだけ僕も覚えている。
確か、どこかの山奥の小屋だ。
人里離れた場所で、親子三人、つつましい暮らし。山は自然豊かで、その日食べるものくらいには困らなかった。元は海の男だった父は、時折不満を漏らしていたが、それでも平和だった。
まるで悪魔のように黒い甲冑を着込んだ兵士が押しかけてくるまでは。
それが、なんなのか、未だもって僕にはわからない。ただ、母の故郷の人間が寄越した追っ手だという事は、なんとなくだが知れた。
父も母も魔法を使えたから、それで相手を怯ませてその場は逃げることが出来た。
特に、母の魔法は凄まじく、周りにある木を全部敵に倒れこませたり、川の水を全部操ったり、挙句の果てには空まで飛んだ。
でも、やはり組織だって動く敵を相手に、いつまでも逃げ切るのは難しい。
父の知己だというラス神父の元に、僕は預けられて、そして二人はどこかへ行った。
……細かい経緯など、まるで覚えていない。
覚えているのは、両親の顔と、一緒に暮らしたあの山荘。二人が、追っ手から僕を必死で守ってくれたこと。それくらい。
仕方ないといえば仕方ない。まだ、物心つくかつかないかの頃の話だ。曖昧ながらも、両親の顔を覚えていることを、幸いと思わないといけない。
……ああ、そう言えば。今の今まで気付かなかったけど。
フィズって、母さんと少し似ているかも。
「かあ、さん」
「誰がお前のお母さんだ」
ぴしっ、と顔面をはたかれた。
「ふぃ、フィズ?」
いきなり夢から現実へ引き戻され、クレスは混乱しつつも、起こした人物の名前を呼ぶ。
「もう起きろ。早めに意識を起こさなければ、ロクに動けないぞ」
見ると、まだ日は沈んでいない。鐘の時間にして、大体三つくらいはかかるだろう。
「それより、少し遅いが昼飯だ。今なら、食っても後の動きには触らない」
「そんなものなの?」
「そんなものだ」
しれっと言い放ち、フィズはさっさと部屋から出て行く。クレスが付いて来ないことなどまるで考えていない歩調だ。
やれやれ、とクレスは嘆息し、今更ながら先ほどの醜態を思い出して赤面する。
いきなり母さんはないだろう、子供じゃあるまいし。しかも、相手は僕より年下だぞ?
「ああ〜、もう」
顔を抑える。
しかも、母さんに似ている、ってマザコンか僕は。
二重三重の羞恥に、クレスは慌ててぱしぱしと頬を叩く。
「やめよう。精神衛生上よくない」
なにか難しい言葉で誤魔化した感が否めないが、早くご飯を作らないとフィズがへそを曲げるのでよくはない。
「……でも、お腹は空いてないんだよな」
クレスとしては、寝てからそれほど時間が経っているように思えず、ついさっき朝ごはんを食べたような感覚だ。まぁ、お姫様が昼食をご所望であるなら仕方がないが、せめて自分の分は少なめにしよう。
「遅いぞ、クレス。まだ寝惚けているのか」
「はいはい。すぐ作るよ。せかさないで」
台所に行ってみると、ほんの少し待たされただけなのに不機嫌になったフィズがいた。
「早く作れ。少し多めに」
「う、うん」
なにか、態度が柔らかになった気がする。決戦が近付いて、クレスとぎくしゃくしていたことなど気にしている暇がなくなったのだろうか、それとも今更クレスの餌付けが効いてきたのか。
「フィズ、なんかリクエストとかある?」
「そうだな……お前の一番の得意料理を頼む」
「なにそれ。今まで、そんなこと言ったことなかったのに」
フィズはリクエストをするときは、簡潔にあれが食べたいこれが食べたいみたいにはっきりと言う。そのフィズが、このようなことは珍しい――というより初めてだった。
「……これが、お前の料理を食べる最後の機会だからな。一番得意なものを食べてみたいんだ」
「え?」
なにを言われたか、一瞬わからなかった。
「なにを驚いている。わたしは、侵食を止めに来たんだ。そして、今晩でそれは終わる。終われば、去るのは当然だ」
「そ、そりゃそう、だけど」
「下手に侵食について説明を求められても面倒だからな。事が済めば、すみやかに撤収することになっている」
まさか、そこまで早いとは思っていなかったが……だが、やはりいつかフィズが出て行くことに変わりはない。
こんなことなら、今までももっと豪華にしておくんだった、とクレスは後悔する。
「別に、特別豪華にする必要はないぞ。得意なものだ、得意なもの。きっと、それが一番美味い」
「う、うん」
焦りながら、必死で頭の中のレシピを捲る。
結果、出てきたのは何の変哲もない郷土料理。
シチューの一種だが、具はこの地方で取れる薬草。あまり煮込む必要もないので、時間がかからないのはいいのだが……この家では、月に一回か二回は出てくる定番の料理だ。
あまりにも平凡なので、この場に出すべきかどうか迷う。
だけど、フィズ本人の希望だし、クレスもその方がきっと相応しいんだと最後には頷いて、それを作り始める。せめて、丁寧に、心を込めて。
「……美味い。今まで食べたものの中で、一番の味だ」
「フィズは、丸焼きが好きなんじゃなかったっけ」
「野暮な事を言うんじゃない」
フィズは口を尖らせ、じろりとクレスを睨みつけた。