クレスは、自室で、怒りとも悲しみともつかぬ感情を押し込めて、頭を抱えていた。

「馬鹿、げてる!」

 色々と渦巻いている気持ち全てを、一言のうちに閉じ込めて吐露する。

 食事の後片付けをロクにしていないままだったことも、すでに忘れている。毎日の習慣すら忘れるほど、クレスは混乱していた。

 フィズが聖女。対侵食用の秘密兵器のような存在だった、というところまではなんとか受け入れることが出来た。普通の修道女にしては、フィズは明らかにおかしい面が多々あったし、そもそも、そういう英雄みたいな存在は、常々いて欲しいと思っていた。

 ……だが、しかしそんな英雄の行動も、一般人、名もなき村人Aの視点から見ているから痛快なのであって、当事者になることはまったくの予想外だ。

 期待を寄せてくれることは嬉しいし、あのフィズが自分ごときを必要としてくれていることは、素直に誇らしい気持ちにもなる。

 魔法士だということで悪化していた仲が回復したのは望外の喜びだし、フィズが喜んでくれるのならば、大抵のことはしようという思いがクレスの中にはある。だが、その条件が魔物退治に協力すると言うのは、どうにも納得がいかない。……いや、

 命の危険があるとなれば、話は別だということだ。

 昼間、魔物に襲われた時のように、戦わなければ死ぬわけではない。この村に起こるという侵食も、フィズがあのエレメンティアとかいう大層な剣で解決してくれることだろう。

「だよ、ね。フィズ、めちゃくちゃ強かったし」

 クレスが、たった一匹の魔物すら打ち倒せず、殺されかけたところで割って入り、一瞬で魔物を一刀両断にしたフィズ。例え、魔物がダメージを受けていなかったとしても、結果は変わらなかっただろう。それほどまでに、圧倒的な剣捌きだった。

 でも……

 クレスはつい先ほどのことを思い出す。

 これが、初任務だと言うフィズ。そのとき、一瞬だけ、ほんの僅かだが、不安の色を覗かせなかったか?

「いやいや。なに考えてんだ」

 ベッドに転がり込む。少し早いが、眠ってしまおう。寝てしまえば、余計なことを考えずに済む。

 毎日干してある布団は、お世辞にも上等な布地とは言えなかったが、それでも太陽の光をいっぱいに吸い込んでよい香りをしている。こいつを被ると、その夜の安眠が約束される。

 しかし、今日に限って、なぜかやけに寝つきが悪い。

 それは、きっと昼寝込んでいたせいだと、クレスは自分を無理矢理納得させ、目を閉じてせめて何も考えずに済むように数を数えるのだった。

 

 

 

 

「……フォルトゥーナ様?」

 ラス神父は、一人テーブルに佇んでいる聖女に話しかける。

 常の毅然とした態度や、凛とした雰囲気はなりを潜め、なにやら沈痛な空気を回りに振りまいている。

 彼女が座っているその対面にある椅子が乱暴に転がっているところを見ると、どうやら協力を得る交渉は失敗に終わったらしい。

「……ラス神父か」

「はい。クレスくんは……部屋ですか」

「知らない」

 素っ気無い返答に、神父は二人の間に交わされた会話を察する。どうやら、かなり手厳しい断り方をしたらしい。

(……クレスくん。もうちょっと、穏やかに言うべきでしたね)

 だが、その選択肢は正しい、と神父の冷静な部分は当然のように首肯する。同時に、少しほっとする気持ちすらあった。もしかしたら、クレスは自分の身の危険などお構いなしに、フィズの手助けに走るかもしれない、と考えていたから。

 だが、ここで命を張る必要など、どこにもないのだ。そんなことをせずとも、フィズは文字通り『命と引き換え』にしてでも侵食の封印を遂行するだろう。彼女の信仰心の厚さは、狂信者に近い。魔法士であるクレスを見逃したのが不思議なくらいだ。そういった人種にとって、使命を果たすために、命を賭けることはむしろ誇らしいことである。

 そうでなくても、クレスが逃げたことを責めることは出来ない。類稀なる魔法の才能はあるが、彼は本格的な戦闘訓練を受けたこともないただの一般人だ。

「すみません、と言うべきではないでしょうね」

「…………」

「言い訳させてもらえるならば、彼は普通の人間なんです。戦いなど殆ど経験した事のない、平凡な村人です。盾役が必要なのでしたら、不肖この私が務めさせていただきますから、どうぞ見逃してやってください」

「そんなものは必要ないし、欲しいとも言っていない。勘違いするな、ラス神父」

 フィズが、心外だ、と言わんばかりに視線に力を込める。

「彼に協力を申し込んだのは、あくまで慎重を期してのことだ。本来ならば、この任務は聖女一人で遂行すべきもの。臆病な魔法士の手など、そもそも借りる必要はなかったな」

 言葉尻が震えていると感じるのは、ラス神父の気のせいだろうか。

 続けて、フィズが吐き捨てるように、

「今回のことで責めはしないが、のうのうと魔法を無意味なことに使っているのは許容できない。後に、ファルヴァントの精霊騎士団にでも志願するよう、指導しておけ」

「はてさて。かの騎士団に参列する資格が、クレスくんにあるとも思えませんが」

「なんの訓練もなしに五ワーズの魔法を操り、魔物を一人で倒して見せた。立派な逸材だ。長じれば、時代に名を刻む騎士になるかもしれない」

「これは、随分と買いかぶられていますね」

 肩をすくめる。

 どれだけ才能があろうが、それを生かすことの出来る適性がクレスにはない。元来、争いごとを好まない優しい性格である。見たこともない誰かのために戦場に身を投じる騎士など、ガラではない。

 そう、せいぜい大切な人のために、涙を浮かべながら我武者羅に突っ込んでいくのが関の山だ。

「それは、後々の課題としましょう。さしあたって、侵食の件ですが……」

「当初の予定通り、わたし一人で対処する。感触からして、六日後の夜に起こるだろう。その時間は、村人を避難させておいてくれ。発生する場所は、クレスが魔物と戦った、あの川原の近辺だ」

「了解しました。それなら、この教会に集まってもらいましょう。それで大丈夫ですか?」

「十分だ。出てくる魔物は、全てわたしが斬り捨てる。一匹たりとも、そちらにはやらない。……念のため、クレスを護りに立たせておけ。あんなのでも、それくらいは出来るだろう」

「では、そのように」

 フィズが頷き、無言で立ち上がる。どうやら、部屋に帰るつもりらしい。完全に、その姿が見えなくなるのを確認して、神父は小さくため息をつく。

 クレスが、侵食の封印に協力しないということは、疑う余地もなく正しい選択だ。ラス神父としても、そうであって欲しいと願っていた。どこの世界に、息子の危機を望む親がいる。

 だが、

「クレスくんは、それでいいのですか?」

 神父の問いかけに答えるものはいなく、言葉は空中に溶けていった。

 

 

 

 部屋に帰ったフィズは、乱雑に服を脱ぎ捨てる。

 すぐに寝ようかとも思ったが、気分がなぜか昂ぶっていて、すぐに寝入ることはできそうにない。

 仕方ない、と壁に立てかけてあるエレメンティアを手に取った。

「ふぅぅ」

 短い呼気と共に、剣を鞘から抜き放つ。

 その身にそぐわない大剣を、狭い部屋の中で一閃。とても人の住んでいる部屋とは思えないほど散らかった部屋なのに、剣は部屋にある何者にも触れず、ただ空気を切り裂くだけだ。

 いくら、フィズが鍛えているとは言っても、本来このサイズの剣を振り回すには圧倒的に体重が足りない。本来ならば、剣の重量に引っ張られて、部屋の中を滅茶苦茶にしていただろう。これほど精密な振りが出来るのは、このエレメンティアに使われている素材が、鉄などと比べ遥かに軽いお陰だ。それでいて、他のどのような金属よりも頑丈である。

 だが、そんな特性など、この聖剣にとっては余技に過ぎない。

 フィズは目を瞑り、自分の世界に埋没していく。いや、自分という存在を、剣の中に挿入するイメージ。彼女の体から、力が流れ込み、エレメンティアの刀身は淡く発光する。

無色の光は、この剣の力そのものだ。

あらゆる魔物は、この光の前に消滅するしかなく、外の世界からの“侵食”という人ではどう足掻いても対処できない事象すら完封する。……らしい。

 実際に、試してみたことはない。魔物を斬ったことすら、今日の昼が初めてだった。侵食とは、具体的にどのようなもので、一体この剣をどう使えば封印できるのか。その辺りは、教えてもらったことがない。

 不安がないといえば、嘘になる。だから、本来許されていない魔法士の援護などを要請してしまったし、ラス神父にも言い方がキツくなってしまった。

 でも、この剣を握っているとそんな不安など必要のないものだと、そう思える。

 この、光を纏った状態のエレメンティアがあると、世界中の全てが自分の味方であるということが確信できる。まさに、それこそがこの聖剣の真価なのだ、とフィズを教育した一人の教師が言っていた。

 こんなことを言うのはおこがましいにもほどがあると、自分でもわかっているが、この剣さえあればレヴァ神が起こした様々な奇跡――日照りの村に雨を呼んだり、異国からの侵略者を、天からの雷で撃退したり――といったことを出来るかもしれない、と思ってしまう。

 レヴァ神から授けられた剣なのだから、そういったことが出来ても不思議ではないが、やはり神の御業を真似てみようというのは恐れ多すぎる。

 脇道に逸れかけた思考を無理矢理軌道修正して、フィズは発光状態のエレメンティアを一心に振る。屋内での訓練も、これはこれで身になる。

 そうしていくと、先ほどまでのイライラした気持ちがどんどんなくなっていく。余計なことも、どんどん頭から抜け落ちていって、球のような汗が肌を流れる。

(……そう言えば)

 白んできた意識で、フィズは思い出していた。

 出発前、エレメンティアなら、神の奇跡を再現できるのではないか? と、フィズの教師の一人に尋ねたことがある。

 その教師は、今まで見たことのないほどの怒りを表し、そんな不敬なことを考えるな、と厳命してきた。そのような使い道は断じて有り得ず、この剣はあくまで魔物の調伏と侵食の封印のため、レヴァ神が授けられたものだと。

 だが、使い手たるフィズは、直感的に『できる』と感じている。確かに自分には出来ないが、歴代の聖女の誰かは使えていたはずだ。

 だというのに、なぜあの教師はあそこまで否定したのだろう? どうして、あそこまで怒りを露わにしたのだろう?

 疑問の答えはでるはずもなく、やがてフィズは何も考えず、剣を振ることのみに集中し始めた。